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第三話:世界はまだ描かれていない

 最初に戻ってきたのは、重さだった。


 身体の輪郭が、内側からゆっくり塗り直されるような感覚。質量という概念が遅れてやってくる。手があり、足があり、呼吸があると、順番に思い出していく。


 だが視界はまだ存在していなかった。


 暗闇でもない。

 白でもない。

 ただ、何も“確定していない”状態。


 その中で、音だけが降り続いている。


 細く、硬く、透明な音。金属とも硝子とも違う。楽器の音ではないのに、どこか音階の規則を持っている。無秩序と秩序の境目のような響き。


 天神月詠あまがみ・るうなは、その音を「雨」と認識した。


 そう理解した瞬間、視界が生まれた。


 空があとから描かれる。


 灰色の雲が、横方向の筆致でにじみながら広がっていく。輪郭はまだ揺れている。空は完成していない。制作途中のキャンバスのように、塗りムラと透明な層が重なっている。


 次に地面。


 石畳――ではなく、譜面だった。


 古びた紙の色をした大地に、五線が走っている。インクは少し滲み、ところどころに音符が打たれている。休符の位置が、妙に多い。


 雨粒がそこに落ちるたび、音が鳴った。


 ド。

 ラ。

 ミ。

 不揃いな和音。


 月詠はゆっくり息を吸った。空気には紙とインクの匂いが混じっている。本を開いたときの、乾いた繊維の香り。それが世界全体に広がっていた。


(ここは……)


 言葉にしようとして、口を開く。


「ここは」


 声は空気に溶けなかった。


 白い文字になった。


 自分の発した音が、そのまま書体を持って宙に浮かぶ。インクが紙に染みるように、文字の縁がわずかにぼやける。


 それは数秒そこに留まり、風にさらわれるように崩れて消えた。


 月詠は瞬きをした。


 夢だと思おうとしたが、感覚の解像度が高すぎた。夢にしては温度がある。湿度がある。重力がある。皮膚に触れる空気の層がある。


 足を動かす。


 踏み出した位置の音符が鳴る。


 歩行が旋律になる。


 奇妙だった。だが恐怖はまだ来ない。理解が先に働いている。観察する癖が、感情の前に立っている。


 遠くに街が見えた。


 建物の群れ。塔。橋。屋根の連なり。


 だが、どれも完成していない。


 半分は彩色され、半分は下書き線のまま空間に立っている。窓枠だけ描かれて中身が空白の家。影だけ存在して壁がない塔。煙が出ているのに、途中で鉛筆のラフ線に戻る煙突。


 月詠は目を細めた。


 世界が、“制作途中”だった。


 そして空の端に、それを決定づけるものがあった。


 木製のフレーム。


 巨大な額縁が、空を囲んでいる。


 境界がある。

 外側がある。


 胸の奥で、遅れて鼓動が強くなる。


(世界に、余白がある)


 その発想が自然に浮かんだことに、自分で驚いた。


 余白。

 書かれていない領域。

 確定していない部分。


 月詠は自分の腕を見た。輪郭ははっきりしている。だが色が少し薄い気がした。水で溶いた絵の具の一層目みたいに、下地が透けている。


 触れてみる。


 触覚はある。温度もある。

 だが質感が、ほんのわずかに紙に近い。


 そのとき、背後で声がした。


「あなた、まだ塗られていないのね」


 振り向く。


 少女が立っていた。


 距離は近いはずなのに、そこへ至る空間だけが一筆書きのように省略されている感覚があった。途中の距離が描かれていない。


 彼女は雨の中にいるのに濡れていなかった。

 輪郭がはっきりしている。油彩で仕上げた人物だけを、別のキャンバスから切り取って貼ったみたいな質感。


 月詠はしばらく答えなかった。

 言葉を選んでいたのではなく、認識の順序を整理していた。


「……塗られていない?」


「ええ」


 少女は当然のことのように頷いた。


「普通は、転生者は最初に“スタイル”が決まるの。音楽系とか、絵画系とか、物語系とか」


 転生者、という単語が、少し遅れて意味を持つ。


 事故の光。

 消えた音。

 にじんだ世界。


 そこまで思い出して、月詠は理解した。


「私、死んだんだ」


「だいたいそういうことになる」


 軽い調子だった。

 だが嘘を言っている声ではない。


 少女は一歩近づき、月詠の肩に指先で触れた。


 わずかに沈んだ。


 絵の具に触れたみたいに。


「やっぱり。下地だけ」


「名前は?」


 と月詠は聞いた。なぜかそれが先だった。


 少女は少しだけ笑った。


「彩音レイ(あやね・れい)。あなたは?」


「天神月詠」


「未完成って顔してる」


 それは失礼なのか的確なのか、判断に困る言い方だった。


 その瞬間、空に赤い線が走った。


 まっすぐな一本線。


 原稿用紙に引く、校正のための赤線のようだった。


 線が街を横切る。


 触れた建物が消えた。


 爆発も崩落もない。ただ、“なかったこと”になる。存在の意味ごと削除される。


 彩音の表情が変わった。


「まずい。検閲が来た」


「検閲?」


「ここはね、“完成された表現”しか存在できない世界なの」


 赤い線が、こちらへ伸びてくる。


 月詠はそれを見て――

 なぜか、恐怖より先に理解した。


(これは、終止線だ)


 音楽を閉じるための線。


 だが彼女は、まだ終わっていない。

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