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第二話:事故の夜、音の消失

 夜の空気は、音をよく通すはずだった。


 それなのに、その晩の街は妙に静かだった。

 車は走っている。信号も点滅している。遠くで電車が鉄橋を渡る振動も見える。見えるのに、届くまでの時間が薄く伸びているような感覚があった。


 天神月詠あまがみ・るうなは駅へ向かう歩道をゆっくり歩いていた。肩にかけたバッグの重みが、いつもよりはっきり感じられる。中には楽譜とノートと、書きかけの旋律。


 終止を書かなかったことが、まだ胸のどこかに引っかかっている。


 後悔ではない。

 だが、保留でもない。

 名前のつかない感情だった。


 街路樹の葉が風に揺れている。葉と葉が触れ合う音がするはずなのに、無音映画のように滑っていく。世界から効果音だけが抜け落ちている。


(変だな)


 疲労のせいだと思おうとした。

 だが、感覚の異常は一度意識すると消えない。気づいてしまったズレは、ずっとそこに残る。


 横断歩道の手前で立ち止まる。


 赤信号。

 向こう側にはコンビニの白い看板。蛍光灯の光がにじんでいる。光だけがやけに輪郭を持っている。


 月詠は無意識に耳を澄ませた。


 何もない。


 耳鳴りすらない。

 静寂があるというより、“音という層そのもの”が剥がれている感覚だった。


 心臓の鼓動を確認しようとして、胸に手を当てる。

 触覚はある。鼓動もある。だがそれも、どこかワンテンポ遅れて感じられる。


 信号が青に変わる。


 人の流れが動き出す。スーツ姿の男、イヤホンをした高校生、買い物袋を提げた女性。みんな滑らかに動いている。だが足音がない。靴底と地面の関係が、映像だけで成立している。


 月詠は歩き出した。


 一歩目で、違和感がさらに深くなる。


 地面の硬さが、ほんのわずかに遅れて足裏に届いた。


 まるで世界が遠隔操作されているみたいに、感覚がワンテンポ遅延している。自分がここにいて、同時に半歩後ろから自分を追いかけているような奇妙な分離感。


(録音と再生……?)


 そんな言葉が浮かぶ。

 ライブではなく、再生音源。現実ではなく、記録。


 横断歩道の中央に差しかかったとき、月詠の脳裏に、まったく関係のないイメージが走った。


 五線譜。


 白い紙。

 未完の小節。

 終止を書かなかった空白。


 その空白が、異様な存在感で浮かび上がる。


 次の瞬間――

 音が先に消えた。


 世界から、すべての音が抜け落ちた。


 完全な無音ではない。

 “音があるべき場所”だけが削除された感覚。映像編集で、音声トラックだけをミュートにしたような不自然な静けさ。


 誰かが何かを叫んでいる。

 口の形でわかる。


 だが聞こえない。


 視界の端で、ヘッドライトの光が急速に膨らんだ。白い光の塊が、輪郭を持たずに迫ってくる。速度の感覚だけが、遅れて理解に追いつく。


 危険だ、と頭は判断した。


 身体は動かなかった。


 時間が引き伸ばされている。


 光が近づく。

 まだ届かない。

 なのに結果だけが先に来る予感があった。


 月詠は奇妙なことを考えていた。


(これ、終止だ)


 音楽的な意味での終止。

 曲が閉じる瞬間。


 だが自分の曲には、それを書かなかった。

 終わらせなかった。


(じゃあ、どうなるんだろう)


 思考は妙に静かだった。

 恐怖より先に、観察がある。


 光が触れる直前、世界の色がにじんだ。


 水彩絵の具を水で流したみたいに、輪郭が崩れていく。信号機も、人影も、白線も、すべてが境界を失って混ざり始める。


 そして――


 音が降ってきた。


 上から。


 雨のように。


 無数の透明な粒が、耳の中へ直接落ちてくる。ガラスの欠片のような硬質な響き。高音、低音、読めない記号のようなノイズ。


 視界はまだ戻っていない。

 なのに音だけが成立している。


(順番が逆だ)


 その認識が最後だった。


 世界は、まだ描かれていない。


 音だけが、先に存在していた。

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