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第十話:未完は眠らない

 本棚は、近づくほど遠ざかるように見えた。


 距離の感覚が信用できない。歩数は進んでいるのに、到達の手応えが薄い。遠近法の補助線だけが引かれて、完成図がまだ描かれていない空間を歩いている感じだった。


 天神月詠あまがみ・るうなの足裏に伝わる感触も一定しない。硬い紙の束の上を歩いているときと、粉になった消しカスの上を踏んでいるときが交互に来る。乾いた音がしそうなのに、音は遅れて届く。


 空気は温い。

 だがところどころに冷たい層が混じる。

 本を長く閉じていた場所の冷気だ、と直感でわかった。


 彩音レイ(あやね・れい)が一冊の背表紙に手をかざす。触れていない。触れない距離で止めている。


「直接は触らないほうがいい」


「どうして」


「引き込まれる」


 言葉は軽いが、声は軽くない。


 玻璃坂絵都はりさか・えとが周囲を観察している。彼女の視線はいつも“完成形”を探すが、ここでは完成が少ない。視線がわずかに迷っている。


「塗られてない作品ほど、残留が強い」


「残留?」


「作者の意図の残り香」


 語部綴かたりべ・つづるが補足する。


「終わっていない意図は、閉じない。閉じないものは、消えにくい」


 月詠は自分の胸の奥を思い出した。

 終止を書かなかった旋律。

 閉じなかった音。


(だから私は消えなかった)


 理解が、また一歩先に進む。

 感情はまだ半歩後ろだ。


 本棚の列の間に、通路があった。だが床がない。余白だけがある。落ちるわけではないと頭ではわかるのに、身体が一瞬だけ足を止める。


 月詠は足を出した。


 沈まない。

 だが支えもない。


 存在の前提だけで立っている感覚だった。

 「そこにある」と書かれていないのに、あることになっている足場。


 通路の途中で、空気が震えた。


 音ではない。

 ページの端がめくれる前の、あの微細な動き。


 一冊の本が、ひとりでに開いた。


 中は白紙ではない。

 だが文章が揺れている。定着していない文字列。読むたびに語順が変わる。


 月詠の視界に、情景が差し込んだ。


 海。

 夜の桟橋。

 灯りのない街。

 誰も帰らない物語。


 次の瞬間、情景は消える。


 ページが閉じる。


 月詠は一歩よろめいた。

 身体のバランスではなく、認識のバランスが崩れた感覚。


「今の……」


「未完の断片」


 綴が言う。


「最後まで書かれなかった場面は、ここに残る」


「残るって」


「消されずに、漂う」


 その言い方が妙に優しかった。

 失敗作ではなく、漂流物のような響き。


 別の棚で、また一冊が開く。


 今度は音楽だった。


 旋律が直接流れ込む。

 不完全な主題。

 転調直前で途切れる進行。

 解決しない緊張。


 胸が締めつけられる。

 共鳴している。


 月詠は無意識に胸に手を当てた。鼓動が少し速い。だが音は半拍遅れて耳に届く。


「あなた、反応が強い」


 彩音が静かに言った。


「未完適性が高い」


「嬉しくない適性」


「ここでは価値がある」


 その言葉が、少しだけ救いに聞こえてしまったことが、逆に怖かった。


 本棚の奥で、影が動いた。


 人影。

 だが輪郭が何度も描き直されている。肩幅が変わる。髪の長さが揺れる。性別すら固定されていない。


 影は近づき、月詠の前で止まった。


 目だけがはっきりしている。


「……まだ書いてる?」


 声がした。


 誰に向けた問いかわからない問い。


 月詠は答えられなかった。

 その問いは、自分の胸に直接届いていた。


「終わってないなら、大丈夫」


 影はそれだけ言い、紙の繊維のようにほどけて消えた。


 余韻だけが残る。


 空気が少しだけ温かくなる。


「今のは?」


「未完存在」


 絵都が言う。


「消されなかったキャラクター」


「人格、あるの?」


「意図が残ってる限りは」


 月詠の背筋に、かすかな震えが走る。

 怖さと同時に、連帯感があった。


(ここは、墓場じゃない)


 未完の待合室だ。


 次に書かれる可能性が、まだゼロになっていない場所。


 遠くで、重い音がした。


 今度は遅延していない。

 直接、届く音。


 本棚の上層で、赤い光が滲んだ。

 禁書庫の白の中で、その赤は異物だった。


 彩音の表情が固まる。


「本庁が覗いてる」


「ここまで来るの?」


 月詠の喉が乾く。


「普通は来ない。でも――」


 彩音は月詠を見る。


「あなたがいるから」


 その言葉は責めではない。

 事実だった。


 赤い光は、棚の上から“読んで”いる。

 本文にないはずの頁を、無理に参照している。


 月詠の胸の奥で、余白がわずかに広がる感覚があった。

 紙が呼吸するように。


 線が引けない場所が、広がる。


「……来る」


 綴が低く言った。


「次は、検閲じゃない」


 空気が一段、冷えた。


「編集が来る」


 その言葉は、削除よりも重かった。


次は第十一話。

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