第一話:書きかけの終止線
音は、いつも最後に置かれるべきものだと、彼女は思っていた。
旋律があり、構造があり、沈黙があり、そのあとにようやく音が宿る。音は結果であって原因ではない。完成とは、最後の一音が置かれた瞬間に初めて成立する――そう教えられてきたし、そう信じてもいた。
だが、その順序にどうしても従えない自分がいることも、天神月詠はよく知っていた。
音楽大学の練習棟は、古い木の匂いがした。ワックスと紙と、かすかに金属弦の錆びた気配が混ざった匂い。夕方になると、そこに暖房の乾いた風が重なり、空気は薄い膜のように喉に貼りつく。
廊下の奥から、誰かのピアノが聞こえていた。ショパンのエチュード。正確で、迷いがなく、完成に向かってまっすぐ進む音だった。
月詠は足を止めた。
上手い、と思う。
同時に、息苦しくなる。
非の打ちどころのない演奏を聞くと、胸の奥が少しだけ冷える。それは劣等感というより、完成された数式を見せられたときの感覚に近い。美しいが、入り込む余地がない。
(閉じてる)
心の中でそう言葉にした。
自分の書く曲は、いつも「開いている」と言われる。指導教員の言葉を借りれば、構造が甘い。別の言い方をすれば、終わらない。
練習室のドアを開けると、自分の世界の音が戻ってきた。防音材に吸われた空気の中では、外の音楽は遠い夢のように薄れる。
グランドピアノの黒い蓋には、蛍光灯の光が斜めに走っていた。鍵盤は少し黄ばんでいる。何千時間も叩かれてきた白と黒。
月詠はバッグを椅子に置き、楽譜を取り出した。
タイトルはまだない。
五線譜の上には、途中までしか書かれていない旋律がある。主題は三度繰り返され、そのたびに少しずつ形を変えている。だが、どこにも終止がない。終わらせるための和音が、意図的に抜かれていた。
ペンを持つ。
止まる。
書ける。終わらせることはできる。理論上は。ここに属七を置いて、解決させればいい。教授もそれを望んでいる。コンクールの提出期限は三日後だ。
なのに、指が進まない。
終止を書き入れると、この曲は「閉じてしまう」。それがどうしても嫌だった。
月詠は鍵盤に手を置き、途中までの旋律をなぞった。音は部屋の空気を震わせ、すぐに壁に吸い込まれる。だが余韻だけが、耳の奥に薄く残る。
その余韻の形が好きだった。
確定していない感じ。
次に何が来てもいい余地。
意味がまだ固定されていない時間。
「また終わらせてないな」
ドアにもたれていたのは、作曲科の指導教員、篠崎だった。五十代半ば、いつも同じ灰色のジャケットを着ている。足音がしない人だった。
「……入るときはノックしてください」
「したよ。君が気づかなかっただけだ」
月詠はペンを楽譜の上に置いたまま、振り向かなかった。
「提出、間に合うのか」
「形にはなってます」
「“形”と“完成”は違う」
「はい」
わかっている。
何度も聞いた言葉だった。
篠崎はピアノの横まで歩いてきて、楽譜を覗き込んだ。視線が五線の上をゆっくり移動する。
「君の曲はいつも、終わりを拒否するな」
「そういう性格なんです」
「性格で音楽は書かない」
「でも、癖は出ます」
篠崎は小さく笑った。
「悪い意味じゃない。未完の響きは魅力でもある。ただ、評価される場では不利だ。審査員は安心したい。終止を聞きたい」
「安心してほしくない場合は?」
「コンクールに出さないことだ」
まっとうな答えだった。
月詠はもう一度、途中で止まっている小節を見た。ここから先は、無数の可能性が枝分かれしている。どの道を選んでも音楽にはなる。だが、どれか一つに決めた瞬間、他の未来は消える。
(消したくない)
それが本音だった。
「君は、“余白”を残したがる」
篠崎が言った。
月詠は顔を上げた。
「余白?」
「全部を書かない。解釈の逃げ道を残す。文学なら美徳だが、音楽だと評価が割れる」
「先生、音楽は文学より厳密ですか」
「少なくとも、審査用紙はな」
現実的すぎて、少し可笑しかった。
篠崎は楽譜を軽く叩いた。
「三日。終止を書け。君の中で一番“納得できる終わり”でいい」
「納得、ですか」
「妥協じゃない。納得だ」
その言葉だけが、妙に残った。
篠崎が去ったあと、部屋はまた静寂に戻る。だがさっきまでの静けさとは違っていた。言葉が沈殿している静けさだった。
月詠は椅子にもたれ、天井を見た。防音パネルの四角が、整然と並んでいる。まるで白い原稿用紙のマス目みたいだ、と思った。
(納得する終わり)
それはつまり、自分で選べということだ。正解ではなく。
ふと、奇妙な感覚がよぎった。
音が遠い。
さっきまで聞こえていた廊下のピアノが、記憶の中の音みたいに薄れている。現実の距離ではなく、時間の距離で遠ざかったような感覚。
月詠は首を傾げた。
試しに和音を鳴らす。
鍵盤の感触はある。
音も鳴る。
だが、響きが半拍ずれて耳に届いた気がした。
「……?」
もう一度弾く。今度は正常だ。
気のせい。
疲れているのだと思うことにした。
時計を見ると、十九時を回っていた。窓の外は群青色に沈み、街の灯りが滲んでいる。ガラスに映る自分の顔は、どこか現実感が薄かった。
楽譜を閉じる。
終わらせないまま。
その行為に、わずかな罪悪感と、同じだけの安堵があった。
練習棟を出ると、夜気は思ったより冷たかった。肺に入る空気が澄んでいる。遠くで電車の音がする。規則的で、完成されたリズム。
スマートフォンを見ると、未読のメッセージがいくつか入っていた。だが開く気にならなかった。いまは他人の言葉を入れたくない。
頭の中では、あの未完の旋律がゆっくり回り続けている。終止を拒否するテーマ。月のように、満ちきらない動機。
(もし、このまま終わらなかったら)
ふと、そんな考えが浮かんだ。
曲ではなく、自分の時間が。
その想像は妙に具体的で、手触りがあった。
横断歩道の信号が点滅を始める。白が赤に変わる直前の、あの宙ぶらりんな時間。渡れるのか、止まるべきか、判断を迫られる数秒。
月詠は歩き出した。
世界が、わずかにずれた。
最初に消えたのは、音だった。




