恐怖
「あんたたち、そんなとこで何やってんの?」
不意に聞こえた気だるげな声。
その声がした方向、長く続く廊下の奥にある階段の途中に、手摺にもたれかかるようにして立っていたのは、妖艶な美女。
あおくんのお母さんである、陽菜さんであった。
「あ、陽菜さん!お仕事ひと段落したんですか?」
「まあね。それより、そんなとこで突っ立ってないで早くリビングに入りなさいよ。寒いでしょ?」
ふわりと欠伸をしながらゆらゆらと歩いて行く陽菜さんはどこか危なっかしい。
仕事で部屋に籠もりっぱなしでろくに寝てなくてお疲れなんだろう。
心配で小走りに陽菜さんのもとへ駆け寄り、その細くとも豊満な体を支える。
「大丈夫ですか、陽菜さん?お仕事お疲れ様です」
「ありがとう、ちづちゃん」
「新作、出来上がったらまた読ませてくださいね!」
「もちろんよ!今回のテーマはね―――」
陽菜さんの最新作の話を聞きながら、リビングに入り柔らかなソファーに彼女を座らせる。
ソファーに体を預けた陽菜さんは、ほう、とひとつ溜息をついた。
本当にお疲れのようだ。
「コーヒーでも淹れますね」
「悪いわね」
リビングに続きで繋がっているキッチンに入り、陽菜さんのためにコーヒーを準備する。
毎日あおくんの家に出入りしているため、何が何処にあるのかはだいたい分かっている。
こういう慣れというのは、後々独り立ちすることを考えると良くないことだとは思う。
離れるとき悲しみが大きくなって辛いのは自分なのに。
それでも心のどこかでこの状況を喜んでいる自分はなんて愚かなんだろう、と考え落ち込み始めたところで背後から大きくて暖かなものに包まれた。
ちょっと驚きながらも後ろを見上げるようにして振り返ると、そこには不機嫌そうな顔をしたあおくんがいた。
「ど、どうしたのあおくん?」
「『どうしたの?』じゃない。俺を置いていくなんてひどいじゃないか」
「置いていったわけじゃ……陽菜さんが心配で」
「理由はどうであれ、俺を置いていったことには変わりはないだろ」
どんどん不機嫌になっていくあおくんの表情。
でもそれは何だか小さな子供がするような不貞腐れた顔で。
落ち込んでいたにも関わらず小さく笑ってしまった。
「あおくん、拗ねてるの?」
「拗ねてない」
「それじゃ、どうしてそんなこと言うの?」
昔から拗ねる時だけは子供っぽくなるあおくん。
いつもは落ち着いていて大人っぽい彼からは想像もできないくらい幼くて、どこかかわいい。
だからこういう風にされると嬉しくて仕方がない。
「ちづはね、俺の傍にいなきゃだめなんだよ」
不意に今までの不機嫌な表情を消して、まじめな声と顔であおくんが私をまっすぐ見る。
茶色い瞳に揺らめく、得体の知れない炎のような激しい光。
思わず息を止めてしまいそうになるほど、強烈な視線。
「ずっと…ね?」
どくどくと脈打つ私の鼓動。
早鐘を打つその音が耳に響く。
『恐怖』という感情を伴って。
――――なんで、なんで私あおくんのこと恐がってるの……?
あおくんに嫌われることを恐れることはあっても、あおくん自身を恐れたことはなかった。
だって彼はいつだって私に優しい。
悲しくなるほどに、優しいのだ。
恐がる必要なんて、どこにもなかった。
それなのに、私は今目の前のあおくんに怯えている。
その瞳に。
その存在に。
恐れ、怯え、体が動かない。
あおくんが何を言ってるのかさえ、分からない―――――
「―――ちづ、コーヒー冷めちゃうんじゃない?」
暫くの沈黙の後、瞬きをひとつすると、あおくんの瞳には強烈な光の代わりにいつもの木漏れ日のようなやさしい光が灯っていた。
そのことに安堵するとともに、あおくんのが放った言葉が頭の中に入ってきた。
『ちづ、コーヒー冷めちゃうんじゃない?』
――――こーひー?
「えっ、ああッ!!」
そうだ、私はお疲れの陽菜さんのためにコーヒーを淹れたとこだったんだ!!
カップに注いだから早く持って行かないと、冷めてしまう!!
「コーヒー持ってかなきゃ!!」
慌ててコーヒーをの入ったカップをのせたおぼんを持ち上げた私を、あおくんはおかしそうに笑いながら見つめる。
そして何気なく私の手からおぼんを奪っていった。
「あ、あおくん!私持って行くよ!」
「だめ。そんなに慌てて転んだりしたら大変だろ?」
そう言ってスタスタと歩いて行ってしまったあおくんを追いかけるようにして、私もリビングに戻る。
何だかすごく申し訳ない気分になってしまった。
「はい、母さん。ちづが淹れたコーヒー」
「ありがとう」
陽菜さんの前にコーヒーを置くと、あおくんはその向かいのソファーに座った。
そして私に向かって「おいで」と微笑む。
つられるようにして隣に座った私を見て、陽菜さんがふっ、と笑みを零した。
「ふふっ、ほんとちづちゃんって可愛いわよね」
「えっ!?そ、そんなことないです!」
「何て言うのかな………そう!親鳥の後をくっついて歩く雛鳥みたいな感じ?」
「えっ、えええ?」
「さしずめ葵が親鳥でちづちゃんが雛鳥ってとこね!かわいいわぁ~」
朗らかに笑う陽菜さんの言葉に困惑する私をよそに、あおくんは陽菜さんに用意する時に一緒に用意したあおくんの分のコーヒーを飲んでいた。
ついでに自分のも用意してあったので、あおくんに倣ってそれを飲み落ち着きを取り戻す。
そんな私を見てさらに笑みを深める陽菜さん。
「そうやってすぐに葵に影響されやすいとこが、親鳥の後を付いて回る雛鳥っぽいのよね~。まあ、昔からあんたたちはそんな感じだったけど」
「それって私、成長してないってことじゃないですか…!」
思わず、膝の上に置いていた両手をぎゅっ、と握り締める。
私は、一人で生きていかなければならないのに。
昔も今も、何一つ変わらずあおくんに甘えて生きているだけだなんて。
それじゃ、だめなのに!!
「どうしたの、ちづちゃん?バカにしているわけじゃないのよ?」
「あ、いえ……。ただ、ずっとあおくんに頼ってばっかりだなんて自分が情けなくて……自分の将来が心配というか……」
「そんなの気にしなくていいのよ~。うちの葵なんかでよければ一生頼って甘えればいいのよ」
「そうだよ、ちづ。俺がずっと傍にいてやるから、何も心配することはないよ」
私は何も言葉を返せなかった。
ふたりが言う『一生』も『ずっと』もやってこないと……いや、やってきてはいけない未来だということを知っているから。
だからここは曖昧に笑ってやり過ごすしかない。
「ああ、ごめん。電話だわ」
私が下手くそな笑みを浮かべようとした時、タイミングよく陽菜さんのケータイが鳴った。
彼女のお気に入りの緩やかなピアノ曲の着信音を頼りに、ケータイを取った陽菜さんを眺めつつ、私は密かに安堵の溜息をついた。
誤魔化すための笑みを浮かべずにすんで、ほっとしたのだ。
「――――ええ、わかったわ。大丈夫よ。気をつけて来てね」
短いやり取りの後、陽菜さんは通話を終えた。
そしてあおくんに向かってにっこりと微笑む。
「葵、あんたこれから特に何も無いわよね?」
「まあね」
「じゃあ、悪いけど一時間後に駅に行ってちょうだい」
「何で?」
何とはなしにふたりの会話を聞きながらコーヒーを飲んでいた私は、陽菜さんの次の言葉に思わずカップを落としそうになった。
「蘭ちゃんがうちに来るから、駅まで迎えにいってあげてほしいのよ」
――――ら、んちゃん……?
『あんたがいるから、葵は誰とも恋愛ができないのよっ!』
フラッシュバックする言葉と映像。
ガツン、と殴られたような衝撃とともに蘇る記憶。
忘れもしない、あの日のもの。
『あんたさえ、あんたさえいなければ…!』
そう言って、つり目がちの大きな瞳を潤ませて。
けれど絶対に涙を零さずに気丈に言葉を吐き出して。
烈火のごとく怒っているのに、どこか儚く苦しげだったあの子。
「蘭ちゃんが、来る…?」
私は、どんな顔をして会えばいのだろうか。
『私』という存在にずっと胸を痛めてきた、あの子に。
今回は(自分の中では)早めの更新です^^
お気に入り登録してくれてる方々が増えていてびっくりしました。
本当にありがとうございます!
よければ感想なんかのほうもよろしくお願いします。