帰り道
「ちづ、おまたせ」
背後から聞こえたあお君の声。
その優しい声に、過去のことを思い出していたせいで涙腺が緩んでいたこともあって思わず声をあげて泣き出しそうになってしまった。
漏れそうになった嗚咽を、唇を噛みしめることでなんとか耐える。
「ちづ?」
返事を返さない私を不思議に思ったのか、あおくんが背後から覗き込むようにして私の顔をうかがう。
慌てて顔を横にそむけたけど、きっと見られてしまっただろう。
今にも泣きそうな、情けないわたしの顔を。
「……どうしたんだ?俺がいない間に誰かに何かされたのか?」
静かなその問いかけに答えたかったけれど、今ここで口を開いたら本格的に泣いてしまうと思ったので、ふるふると頭を振り否定の意を表した。
「じゃあ、何で泣きそうな顔してるんだよ?」
思わずあなたが優しすぎるせいだよ、と言いそうになった。
周りの人に迷惑をかけることしかできない私みたいな存在を、あなたの枷にしかならないこの存在を、嫌な顔一つしないでいつも守ってくれる。
そんなあなたの優しさが「死にぞこない」の私にはもったいなくて、だけどとても嬉しくて。
もうすぐ手放さなければならないと分かっているのに、手放したくないと思ってしまう。
そんな浅ましい自分が、嫌で嫌でどうしようもなくて。
だからあなたに優しくされる度、私は泣きたくなってしまうの。
「……泣きそうな顔なんてしてないよ。もうすぐ定期テストがあるでしょ?私、数学が苦手だからそのこと考えてたらちょっと憂鬱になってただけ」
泣きたい衝動を何とか抑えられたので、小さな声で偽りの答えを口にする。
本当のことなんて言えるわけがない。
言ってしまえば、あおくんは私の浅ましささえその優しさで包んでしまう。
そんなこと、枷にしかなれない私に許されることじゃない。
だから無理にでも笑顔をつくって、私は嘘をつく。
それが見え透いた嘘であっても、これ以上あおくんの枷にならないためにはこうするより他に方法が思いつかないから。
「……そうか」
私の見え透いた嘘をあおくんは何も言わずに受け止めてくれる。
いつだってどう考えても嘘だと分るような私の言葉を、あおくんはそのまま信じてくれる。
本当は嘘だって分かっているだろうに、問いただすこともなく嘘を本当として受け入れてくれるのだ。
「ちづは他の科目はよくできるのに、数学だけはまるっきりダメだからなー」
今までの暗く沈んでいた雰囲気を打ち消すかのように、あおくんが明るい声で私の嘘に話を合わせる。
その優しさにまた少し切なくなったけれど、それ以上にさっきの話からそれたことにほっとした。
「数学だけはどうしても苦手なんだよね。あおくん、またテスト前に教えてくれる?」
「もちろん」
茶目っ気たっぷりに笑顔で返事をしてくれたあおくんにつられて、私も小さく笑って見せる。
心からの笑顔とは言えないけれど、さっき作った無理やりの笑顔よりはだいぶマシだと思う。
「よし。そうと決まれば早く帰って数学の勉強するぞ」
「今日から始めるの!?テストまでまだあと三週間もあるのに……」
「あと三週間じゃなくてもう三週間だろ?苦手なら早いうちからやるに越したことはないぞ」
「そうだけど……」
「ほら、ごねてないでさっさと帰るぞ」
目の前に差し出されたあおくんの大きな手。
そっとその手を握れば、優しくもしっかりと握り返される。
細く器用そうな指をもったその手は一見すると女の人のように繊細で綺麗だけれど、触れてみればゴツゴツと骨ばっていて男の人の手なのだと実感する。
「もう小さい子供じゃないんだから、手を繋いで帰ることもないのに。こんなことしてるからいつも彼女さんに誤解されちゃうんだよ。それに私とあおくんが実は恋人同士だとかいう噂も学校に流れたりしてるんだから……」
幼いころから幾度となく繋いできたあおくんの手。
同じ大きさだった手はいつの頃からか私の手をすっぽりと包めるほど大きくなっていた。
もう昔のように気軽に繋いではいけないと思うその手を、いつだって私は拒むことができない。
差し出されれば握り返してしまうし、差し出されなければ心で追いかけてしまう。
口では拒絶の言葉を言いながら、やっている行動はまったくの逆。
本当に私はダメな人間だ。
「誤解されようが噂されようが関係ないね」
ぎゅっと痛いほど強く握られて、思わず顔を上げる。
鋭い光を浮かべたあおくんの瞳が私を見降ろすようにして見つめていた。
「繋いでいないと、ちづは一人で何処かへ行っちゃいそうだから」
どくり、と心臓が大きく脈打つ。
何もかも見透かされているような気がした。
過去のことはもちろんのこと、この先の未来で私があおくんの傍から姿を消そうとしていることも全部。
「……な、何言ってるのあおくん。私、通学路で迷子になるほど方向音痴じゃないよ?」
笑顔を浮かべ、明るく茶化す。
どうか見透かされませんように、と祈りながら。
「……そうだな。さすがに通学路では迷わないか」
「そうだよ。あおくんたら心配性なんだから」
「誰かさんがいつもこっちを心配させるようなことをするからな。猫を追っかけて遠くまで行って帰り道が分らなくなったって電話してきたり、ぼんやり歩いてたせいで電信柱に思いっきりぶつかって痛さのあまり泣きだしたり……まったく、いつまでたっても手のかかるお子様だよなあ、ちづは」
「そ、それはっ!」
身に覚えのある恥ずかしいエピソードを前に口籠る私を見て、あおくんが声をあげて笑いだす。
あからさまに笑われたことに少しむっ、としながらもとりあえず見透かされなかったことにほっとした。
あおくんのあの言葉には深い意味は無かったのかもしれないけれど、あおくんは驚くほど勘の鋭い人だからささいなことにも気を付けなきゃならない。
それに加えて私は嘘をつくのがあまり上手い方じゃないから尚更気を付けないと思わぬところでボロが出てしまうのだ。
「……あおくん、笑い過ぎ」
「くくっ…悪い。でも、思い出したらおかしくって…っ!」
あおくんの笑顔は太陽のようだといつも思う。
キラキラと眩しいほど輝いて傍に居る人すべてを魅了し、幸せにしてくれる。
そんな彼の笑顔が私は大好きだ。
だからいつもこうして笑っていてほしいと思う。
間違っても私がこの素敵な笑顔を奪ってはいけない。
「あーあ、よく笑った」
私は拗ねたふりをしながらあおくんの笑顔をしっかりと目に焼き付けた。
私が彼といられるのはあと1年と数ヶ月。
それまでにできるだけたくさんの彼の表情や姿を目に焼き付け、思い出として心に残していこうと思う。
あおくんから離れれば弱い私にはきっと挫けそうになる時がやってくるはず。
最悪、彼のもとへと戻ろうとしてしまうかもしれない。
でもそんなことは絶対にダメ。
だから思い出が必要なのだ。
辛い時、苦しい時、寂しい時。
彼自身に縋らないようにするために。
思い出に縋れるようにするために。
「思いっきり笑ったら、何だか腹がへってきたな。早く帰ろう、ちづ」
「うん」
優しい笑顔。
低く落ち着いた声。
大きな手の温もり。
全部全部、忘れない。