月の少女たち
「見て雫歌、のぞみ。月が昇ってきたよ」
糸ちゃんがミルク色のネコ耳をピンと立てて教えてくれた。
今日の月の出は日の入りとほぼ同時刻。太陽が沈むと同時に満月がその顔を見せる。
「満月の大きさなんて気にしたことなかったなぁ」
サバトラ柄のネコ耳の雫歌ちゃんが事前に教えていた情報と実際の様子をかみ合わせている。
3月25日はマイクロムーン。
月と地球の距離は一定じゃないから常に見た目の大きさが変化している。2024年でいうと3月が一番小さい。
実は太陽の大きさも変わってる(今年一番小さいのは7月5日)けどこっちは全然実感できない。そもそも見過ぎると失明してしまう。
「実際の大きさより錯視の方が影響大きいかもね」
私(イヌ耳はこげ茶)が補足を加える。
月の大きさが変わると言っても一晩では目に見えるほどの変化はない。
ただ、どこにあるかで感じ方は変わる。
今みたいに地平付近にある時は大きく、逆に空高くにある時は小さく見える。
不思議な話で私は望遠鏡で実際に確認するまで納得できなかった。
いや、実をいうと今でも納得できてない。知識と認識が一致しない。
「やっぱり、よく見ると欠けてる。今は計都の時間だよ」
糸ちゃんが言った言葉は私が昔教えたものだ。
計都。
今日の少し特別な月のこと、ではない。
「半影月食。本影月食と違ってはっきり欠ける訳じゃないから見づらいね」
計都は昔、日食や月食を起こすとされた架空の星の名前だ。
インドでは確かケートゥと呼ばれていたはず。
もちろん本当にそんな星がある訳じゃない。
月食は地球の影が月に差した結果だし、日食は逆に月が太陽の光を遮ってしまう現象だ。
影というのは光源が二つある時にそれぞれの薄い影と重なった濃い影の二つができる。太陽はとっても大きいからそれと同じように地球に濃い影と薄い影ができる。そして今晩は月がその薄い影の部分を通り過ぎることが軌道の計算で分かっている。
残念ながらピークは月が昇る前に終わってしまったけど、昇ってからもちょっとだけ月食の時間が続く。今日は海外遠征でもしないと皆既にはならない。
それに今回の月食は皆既になったとしても本影まで突っ込まないから天文に詳しくない人は月が翳ることを知らない人も多いと思う。世間一般で言う月食は濃い影の方だ。
「月食中の月は計都。つまり月は計都。つまり私も雪従姉と同じく月由来の名前だったんだよ」
雪月さんの名前はもちろん月から来ている。
スノームーンといって、二月の満月を表す言葉が満月の由来だ。
そして宮武糸から後三文字が一致している計都を紹介したのは私、だけど。
……私計都のことをそんな風に言ったっけ?
ちょっと曲解してない?
日食はそうと言えるかもしれないけど月食は難しくない?
訂正するべきか迷ったけど、プロでもあるまいし今はもう存在しない星をどのように解釈しようと自由という結論を出して黙っていることにした。
「え、良いなあ。のぞみちゃん、私の名前にも月成分ないかな?」
海乃雫歌。
思い浮かぶものはあれしかない。
「それなら静かの海は?」
「海。えっと。あの黒いところだよね。液体の水があるんじゃなくて」
北極と南極に氷があるかもしれないという説は耳にしたことがあるけど残念ながら表面に液体の水が確認されている星は地球だけだ。
「そうそう。残念ながら水はないね」
月をよく見ると肉眼でも模様が見える。
白地に黒い部分があって、それが兎に見えるなんていうのは日本でよく聞くことができる。
海外だと蟹とか女性の横顔、あとはライオンなんてのもあった。
その黒い部分が海と呼ばれている。
昔、望遠鏡の性能がまだ良くなかった時代、月に地球と同じように海と陸があると考えられていたことに由来する。
明るい部分が陸で黒い部分が海。その名残で月の地名には海や湖、入り江や岬という言葉が使われている。
なんて説明を二人にした。
「兎の顔部分って言えば分かるかな。そこが静かの海だよ」
「のぞみちゃん。望遠鏡見せて貰っていい?」
「いいよ」
持ち込んだ望遠鏡は日が沈む前に設置済み。
反射望遠鏡だからというのもあるけど――望遠鏡を外の気温に合わせておかないと簡単に像が揺らいでしまう――明るい内に準備するにこしたことはない。特に今日は日の入りとほぼ同時の月が目当てだ。
赤道儀を操作してファインダーの中心に月を持って行き、接眼レンズを覗いてピントを合わせる。
「準備オッケー。月が動いたらここで調節して」
この観望会において私の立ち位置は少々特殊だ。
お兄ちゃんは完全にスタッフとして働いているんだけど、私はどうしても手が足りなくなった時に呼ばれることが多い。
開催者と参加者の中間くらいの立場にいる。
今日は参加者として来たけど、案内人のスタッフは付かない。お兄ちゃん達に挨拶した後は自由に行動できる。今日は雪月さんも参加していたけどお邪魔しちゃいけないから別行動。
二人の友達を案内するのは私の役目だ。
あと余談だけど雪月さんは制服じゃなかった。春休みまで学生したくないらしい。
「どう? ちょっとくらい影見える?」
「見える気もする。でも静かの海は分かったよ」
「つぎ! つぎ私!」
「いいよ、はい」
順番に月を見ていく。
残念なら影はあんまり見えない。
なんなら月のクレーターもよく視えない。クレーターを見ようとするならやっぱり半月が良い。月の影が月に差している時が一番分かりやすい。そのためには太陽光を正面から受けてしまう満月は不向きだ。
でも月の模様を見るなら正面から太陽光を受けている満月の時でも大丈夫。
「右耳が豊穣の海で左耳が神酒の海、胴体が晴れの海だよ」
「え、どっちが右耳?」
「兎がどっちを向いてるとかあるの?」
「ないけどこっち見てる方が可愛いじゃん」
「のぞみ、てきとー過ぎない?」
「いいのいいの。天の川だって上流とか下流なんてないし」
「そうなんだね。知らなかったな」
天の川といえば七夕伝説もあるしやっぱり旬は夏。
月が出てない夏の夜空だったら結構分かりやすいから数か月後にまた誘おう。
「海の部分は玄武岩で陸の部分は斜長石が主だよ」
「なんか習った気がする。火山岩だよね。他にも花こう岩とかあったっけ」
「花こう岩の白い部分はだいたい斜長石だよ。両方とも火山性の岩石。月はもともと地球だったから地球由来の成分結構多いんだ」
月の起源はかなり鮮明になってきている。
もちろん絶対じゃないけど、原始地球に火星ほどの大きさの天体が衝突し、散らばった破片の塊が月になったということはほぼ確実。
だから地球で当たり前に見かけるような石が月でも当たり前に存在する。
「あ、そろそろ他の星も見えてきたね」
陽が沈み、夜の帳が下りて星が姿を現し始めた。
話しているうちに月食の時間も終わってしまった。
「あれなんて星?」
「んー。たぶん木星だけど分かんないや。シリウスかも」
ちらりと望遠鏡を見て方位を確認。
望遠鏡を支えている三脚のうち、足の一つを北に合わせているからそれを頼りに見えない星を頭の中で構築しようとするけどやっぱり実物が見えないと分からない。せめて冬の大三角――春でも見える。むしろ春の大三角より見やすい――が見えてくれたら分かりやすいんだけど、最初はシリウスしか見ることができない。
「えー」
「他の星の並びが分からないもん。もうちょっと星が見えてこないと」
なんて話しているうちにも次々星が瞬いていく。
シリウスは毎回同じ場所にいるけど木星は惑わせる星と書くだけあっていろんな場所にいってしまう。
「やっぱり木星だった。近くに天王星がいるはずだけど流石に見えないかなぁ。水星は今日が絶好の機会だよ」
太陽系の仲間を順に紹介していく。
他の星もいいけど惑星はやっぱり特別だ。
明るいから見やすいし、他の星座が固定されてるから分かりやすい。
「じゃあ次は水星に合わせてよ」
「任せて。今日はちょうど半月だよ」
「まだ望遠鏡見てもないのにすごいね」
「まあある程度調べてたからね。ちなみに水星と金星は満月になることはないんだよ」
惑星に関して半月や満月といった言い方が正しいのかという意見はあるかもしれないけど一番分かりやすい言い方はこれだ。
というかこれ以外どういって良いのか分からない。
水星に合わせて望遠鏡の導入をしながら糸ちゃん雫歌ちゃんにちょっとした星の雑学を披露。
「まず満ち欠けがあることすら意識してなかった」
「そうだね。考えてみると自分で光ってないんだから当たり前のことなのにね」
「はい。導入終わり」
「はやっ」
「近くに間違えるような星もなかったからやり易かったよ」
こんなに早くできたのは半分ラッキーだけどそれは私の見栄のために黙っておく。
運も実力の内ってね。
褒められて悪い気はしない。
「ホントに半月なんだ。なんか不思議だね」
「私にも見せて。……うん、私にも見えたよ。でもどうして満月にならないの?」
糸ちゃん、雫歌ちゃんと順に水星を見せる。
望遠鏡って覗いてるだけでワクワクするのは私だけじゃないみたいだ。二人とも楽しんでくれているのが分かってちょっと嬉しい。
「地球より内側を回ってるからだよ。ほら、満月になるように太陽と地球と水星を置くと太陽の向こう側に水星があることになっちゃうでしょ」
「あ、なるほど」
「んー。ひょっとして木星とかには新月がない? 満月は二回あるね。片方太陽の向こう側に行っちゃったら水星と同じく見えないだろうけど」
「正解!」
太陽越しに見ることが不可能な以上満月を見たければその星より内側に行かなければならない。明るさに関しては距離も関わってくるから満ちているほど大きいとも限らない。
外側の惑星はその逆で半月より小さくなれない。そして外側にいるほど満ち欠けは小さくなる。あとだいたい満月の方が距離も近いから一番明るいのもほぼその時。
「あれ何? 流れ星!?」
「違うんじゃないかなあ。飛行機じゃない?」
糸ちゃんが北を指して少し大きめの声をあげる。
確かに地平の方に明るく輝く点がそれなりの速度で動いている。
「糸ちゃんの方が近い、かな? どうだろ? あれ人工衛星だよ」
「じゃあお願い事しないと。この速度なら三回言えそう」
そういうものかな。
流れ星に願う文化は知っているし私も実際に流星群の時に試みたことはあるけどそれ人工衛星でも良いの?
「楽しい高校生活が待ってますように」
真っ先にのったのは雫歌ちゃん。
手を合わせて目を瞑り、おじぎをする。
「あ、ずるい。私も。楽しい高校生活が待ってますように」
言い出しっぺなのに二番手の糸ちゃんが同じ文言を口にする。
本来流れ星が光っている時間は一瞬だ。
だからいつくるとも分からないその刹那の一片たりとも忘れないように心に刻んだ願いは強く本人を縛り付ける。それだけ強い思いを持った人が何の努力もしていないとは考えづらい。
結果、流れ星に願い事をすることができたのならばその願いは叶う確率が高くなる。
私はこのジンクスのルーツをそんなところだと思ってる。
でもまあ、そこまで難しく考える必要もない。
「楽しい高校生活が待っていますように」
これは単なるおまじない。
なのに不思議とその通りになる予感がする。ならきっと効果バツグンだ。