ギワクノコドモ
すすり泣きが聞こえる。夜の書斎で、いつもカシウスが泣いていたのを、私は知っている。
『父さん、母さん。俺、一人でも頑張るから……』
──そう、彼は一人なのだ。私はカシウスのそばに立っているけれど、一緒にはいない。
──彼が必要とするのは、私ではない。
光が眩しくて、目が覚めた。重いまぶたを開けると、目の前にはエレノアの泣き顔があった。この音がするからまた過去の夢を見ていたのか……。
「あ、ああああアリー様っ! 皆の者、アリー様が、意識を取り戻されたぞーーっ!」
「……大げさなのはやめて」
寝起きの耳に、よく通るエレノアの声はさすがに響きすぎる。
「大げさなことがありますか。突然、意識を失われたのですよ。それから八時間も経っています、いつもあんなにも眠りが浅いのに」
……こう言うのは申し訳ないけれど、体調はすこぶる良い。気を失ったのは確かだけれど──ある意味、熟睡していたと言える。
「ささ、お飲み物を。水がよいですか、それとも果実水?」
「……いいわ。そんな事より。……書斎に、カシウスの子どもがいたのよ」
私の言葉に、エレノアはぴたりと動きを止め、不自然に首だけこちらに動かした。
「……はて、それはけったいな夢でございますな」
「あなた、まさか、殺してないわよね?」
「……め、めめめ滅相もない。修道院にぶち込め、と申しつけておきました」
「……やっぱり『居る』のね」
夢かとも思ったが、どうやらあの少女は実在するようだ。
レイナルトが静かに部屋に入ってきた。目の下にクマが出来ていて、一晩で十年ほど老けたように思える。男性である彼が私の部屋に入ってくることは基本的にないから、やはり一夜明けても彼は平常心を失ったままなのだ。
「レイナルト……」
「申し訳、ございません!」
返事の前に、レイナルトは頭を床にこすりつけた。
「旦那様……カシウス様が、このような蛮行に及ばれたのは私の監督不行き届きです。今のいままで、まさかあんなに大きな子供を隠しているとは露ほども知らず……」
「……では、あなたも、あの子がカシウスの子だと思っているのね」
私の言葉に顔を上げたレイナルトは、なんとも気の毒になるような情けない顔をしていた。レイナルトはカシウスの友人とも言える人だ。夫婦の板挟みになって、これからの未来を予想すれば、具合の一つも悪くなって当然というもの。
「いえ、その……自分としては、旦那様を信じたく。しかし、昨夜のうちに信頼のおける者総出であの子供の出自に関する探りを入れましたが、まったく掴むことができず。どこぞの生活に困った女の狂言かとも思いましたが……」
「あの瞳、エメレットの縁者に間違いはないわね」
私の言葉に、二人は頷いた。
金がかった緑の瞳はエメレットの血を引くものしか持たないと言う。
エメレット家の人々が疫病で死に絶え、御家断絶の危機に晒されたのは十年前の事。もちろん、身体的特徴のない者も含めて、他に生き残りがいないかどうか、徹底的に調べ上げて、カシウスしかいなかった。それは事実。
つまり、今、エメレット家の特徴を持っている子は、カシウスからしか生まれないのだ。
彼女がエメレット家の血を引くのなら、正しくカシウスの隠し子ということになる。
王都に愛人がいるならともかく、少年時代にこの地で愛人を、そして子を作っていたなんて、誰にも想像が及ばないだろう。何しろカシウス・ディ・エメレットと言う人間は、頑固な堅物として通っているのだ。
私を含め、誰一人想像していなかった事態が起きている。
「……あの子に、会わせてちょうだい。まだ、屋敷の中にいるのでしょう?」
「し……しかし、それは……お体に触るかと」
レイナルトは気の毒なぐらいおろおろとしている。彼を困らせたいわけではないが、これは私の責任でもある。
「私はこの屋敷の女主人。留守を任されています。彼女をエメレット家に受け入れるかどうかは、私が判断します」
「……わかりました。奥様の仰せのままに」
件の子供は応接室で、メイドたちが面倒を見ている。落ち着いていて、まるで自分が受け入れてもらえることをつゆほども疑っていないみたいだ──レイナルトはそう報告したあと、貝のように口をつぐんだ。
ぴしりと廊下に列を作って私を出迎える使用人たちの表情は一様に硬い。不安で心臓がこのまま破裂してもおかしくはないのに、不思議なほどに──なんだか、早くあの子供に会ってみたいような、奇妙な期待を感じながら、ドアノブに手をかけた。
「アリエノール!」
私の姿が見えるか見えないかのうちに、たっと駆けよってきた金髪の子供。
「無礼な!」
エレノアが止めようとするのを手で制する。彼女はととと、っと頼りない足取りで、私のスカートに顔をうずめた。
「ええ、そうよ、私はアリエノール。エメレット伯爵夫人よ。よろしくね」
子供はすっと顔を上げた。聡明そうな、落ち着いた緑の瞳。──ああ、とても、よく似ている。疑いようがないほどに、まるで肖像画を描き写したみたいに、そっくりだ。
「このうちの子になりにきました。よろしくどうぞ」
彼女は今までの人生に悪いなんて一回も起きていなさそうな、屈託のない笑顔を私に向けた。
「このうちの……子供に?」
昨夜も、子供は同じ事を言っていた。
「ごはんとおやつがあれば文句はいいません。頑張ってはたらきます」
「ごはん……」
子供は痩せ細っている訳ではない。痩せすぎでもなく、太りすぎでもない。快活で、血色もよく、健康そのものに見える。それはつまりこの子が健やかに育っている事を意味する。
服は高価な生地ではないがこの辺りの子供がよく着ているこざっぱりしたもので、肩の上で綺麗に切りそろえられた少し猫っ毛の髪には痛みはない。
──大切に育てられているように見える。
「お腹がすいているのね?」
「はい。お腹がすいている」
「いいわ。ご飯を食べましょう。………話は、ゆっくり聞かせてもらうわ」
どのような経緯でこの家に来たとしても、子供を飢えさせるわけにはいかないし、これは私のちっぽけな妻としてのプライドでもある。
「やった、ごはん!」
子供は喜びいさんで両の手をあげた。
「アリー様……」
「いいの。食事の用意をして。……まだ、あなたをうちの子にすると決めた訳ではないわ。あなたのお名前は?」
「え?」
「あなたのお名前を聞かせてちょうだい」
膝を曲げて目線を合わせると、彼女はなぜか、目を逸らした。




