エメレットのアリエノールは放置され妻
「アリー様、暑くなる前に戻りましょう」
私を呼ぶ声に、ゆっくりと目を開く。精霊に祈りをささげていたつもりが、過去を思い返していたせいか、時の流れが妙にゆっくりに感じていたのだ。
侍女兼護衛のエレノアが神妙な顔で私を見下ろしている。
「熱心にお祈りされておりましたところ、申し訳ございません。しかし、来客のために氷菓子の用意をするとレイナルトが言っていたのですが、きちんとできているか心配で……」
「そうね。もう行きましょう。もうすぐ『地霊契祭』があるから、領地の事についてしっかりとお願いをしないと、と思って遅くなってしまったわ」
スカートのシワを伸ばすようにはたいていると、エレノアが小さくため息をつくのが分かった。
「アリー様は本当に真面目な方です」
「真面目なんかじゃない。当然のことよ、だって私はエメレット伯爵夫人なのだから」
少しだけ微笑むと、エレノアは唇をとがらせた。彼女はもとは王女だった私が伯爵夫人の身分に甘んじていることが不満なのだ。
「あんな旦那様の事を気にするなんて、本当に奥様はお人好しです。戻ってこない旦那様の為に、領地運営をして、心身の無事をお祈りし、嫌味のひとつも言わないで……」
「カシウスはお仕事があるのだし、領地のために学んでいるのよ、忙しいのは仕方ないわ。ここエメレット領は冬の間は雪に閉ざされて、通行が大変になるしね。戻ってこれないのは仕方がないわ」
「冬はもう終りました。とうに春が来て、今は夏です。なのに、旦那様は戻ってこない。もう五年ですよ、五年。その間一度も、奥様に顔も見せないで」
この屋敷に嫁いで、もう十年になる。
私の夫であるカシウス・ディ・エメレットは、五年間、帰ってきていない。
私はこの国の第三王女として生まれたが、先天性の病──体から魔力を放出することができず、やがて心臓がその負荷に耐えられなくなる。そのため、二十歳までは生きられないだろうと医師から宣告を受けていた。
当然、何時死ぬか分からない、子供が望めない王女など政略結婚の駒に使える訳もなく、私は王宮の片隅でひっそりと生きていた。
ある時、そんな私に白羽の矢が立った。
疫病が国全土で流行し、ここエメレット伯爵領は甚大な被害──領主一族を相次いで失うという不幸にみまわれた。
この国では男女ともに、未婚には爵位継承権がない。そこで王家は幼い当主候補に王女を与えて、形ばかりの妻とした。それが私だ。これで跡取り問題は解決し、健やかに育った当主は若くして妻に先立たれたのちに健康な跡取りが産める女性を妻に迎える。
そのような筋書きに文句があるわけではない。
あるわけではないけれど、かと言って「はいもう死にます」とはならない。
そういう訳で、私、アリエノール・ディ・エメレットは夫の帰りを待ちながら、エメレット伯爵夫人として今日も生きている、と言う訳だ。
「領地の行き来にお金もかかるしね。……それに、噂の事、知らないでもないわ」
夫であるエメレット伯爵カシウスは、最近外交で訪れた隣国の王女と熱心な交流を持っていると聞く。まあ、実際にその場を見た事はないのだけれど。こんな田舎まで話がやってくるぐらいだ、真っ赤な嘘とも言い切れないのだろう。
「……だ、誰がそのような不埒な言動をお耳にぃ!」
「あなたの態度を見て、何かを察するなと言うのが無理な話よ。……健康で、立派な王女様がこの地に来てくださるのなら悪いことではないわ」
「アリー様……」
「便りがないのは元気な証拠だって言うもの。気にしていないわ」
にっこりと微笑みかけると、エレノアの眉間にしわが寄った。そう。私は夫が戻ってこない事を気にしてはいないのだ。カシウスは若くして当主になったせいか、不愛想で、つっけんどんな態度を取るので誤解されやすいが、誰よりも領地の事を大切に想っている。想っているからこそ、どうせ失われる妻の事に余計な気をもむ必要はないのだ。
「ですが……」
「それに、カシウスが帰ってきたら風紀の乱れをより厳しく取り締まるかもしれないわよ? あなたにとっては今の方が好都合、かも」
「ひ、人聞きの悪い話はおやめください」
エレノアは額の汗をぬぐい、乱れた襟を直した。彼がいない間に、犬猿の仲だった執事のレイナルトと私の侍女のエレノアが結婚を考える仲になったなんて楽しい事を、カシウスは知っているのだろうか?
「皆がカシウスの悪口を言うのだから、私だってみんなの色恋沙汰を聞いて楽しむ権利があるわ。結婚式はいつなの?」
「わ、私は……主人であるアリー様が夫を待っていると言うのに、自分の家に夫がいるのはけしからんと……」
「むしろ命のあるうちにエレノアの赤ちゃんを見たいわ。そしてこの腕に抱いて、命の暖かさを感じたいの」
私に残された時間はもうわずかだ。何時心臓が壊れてしまうかわからない。
夫に会う事は叶わないかもしれないが、せめて、王家から降嫁する際に侍女兼護衛として私についてきてくれたエレノアの幸せを見届けたいのは当然のことだ。
「あ、アリー様……なんともったいないお言葉……」
エレノアは泣き出してしまった。彼女は涙もろいのだ。今後が心配ではないと言えば嘘になる。
「わ、わかりました。このエレノア……ぐすっ、今宵にでも孕んでまいります。申し訳ありませんが、十ヶ月ほど……っお待ち下さい、ませ……」
「……ごめんなさいね、そんなに急かすつもりじゃなかったのよ。ほら、そんなに泣かないで……」
ハンカチを取り出そうとした瞬間、わきにある獣道の奥から、がちゃがちゃと金属がこすれ合う音が聞こえてきた。