5 「いてください」
「あ――」
見上げた星空がじわりとにじむ。いつの間にか、瞳からぽろぽろと涙がこぼれていた。
だけど、私はもう気がついていた。もしあの子が大きくなった時、あの住宅が壊されて新しく公園が出来たなら、あの子はきっと今の私以上に悲しい思いをするのだろう。
あの場所は、あの子とお姉さんの家族に譲ろう。
私はもうこの町を去った人間だ。あの青紫色の花の記憶とノラと出会った懐かしい思い出を胸に、生きていける。
だから。
だから私があの公園のために、青紫色の花のために涙を流すのは、これが最初で最後だ。
私が膝に顔を埋めて泣いている間、老人は何も言わなかった。無言でただ隣にいた。しばらくして涙もかれて、私が腫れた顔を上げた時にようやく口を開いた。
「大丈夫ですか?」
「うん。もう大丈夫」
「悲しい時にただただ泣けるのは、とても大事なことです。大人になるにつれて、それも出来なくなっていく」
老人は微笑んで、パックの日本酒をぐびりと飲んだ。
「それにしてもその歳で遺書ですか。私もそろそろ先のことを考えるのですが、これがなかなか難しい」
「分かる。とっても」
十歳にも満たない私ですら色んなしがらみがあったのだ。半世紀以上を生きた老人ならばなおさらだろう。
「この歳になっても孤独な身の上で遺すものも家族も、ありはしないんですけどね」
「そうなの? でも、考えたら色々思いつくと思うよ。多分だけど」
「そうかもしれませんね」
老人は寂しげに微笑んでから、もう空になった日本酒のパックを潰した。
「そろそろ夜も更けます。家に帰らなくていいのですか? 家族も心配しているでしょう」
「それはそうなんだけど、ノラの場所も見つけないといけないし――」
私は悩ましげに首を傾げる。あれだけ歩いたのに、まだめぼしい場所は見つかっていない。
「それに、今は晴れていますが、もう少しすると曇って雨が降るそうですよ」
老人は月を見上げながらぽつりと言った。
「え、そうなの? 今から帰っても家には間に合わないし、雨宿り出来る場所はないかな」
「私の住処に案内するのは問題がありますからね。私の知っている公園に半球体の遊具があって、そこでなら雨くらいなら凌げるでしょう。とりあえずそこに行きますか?」
「うん。そうね。そうしようかな――」
「竜胆の綺麗なところですよ」
迷うが、このままここにいてもどうにもならないだろう。とりあえずそこに行くとしよう。雨を凌いだら、一旦帰るかそこで一晩明かしてからノラの場所を探すか決める。
「ノラ、行こう」
私はそう言ってノラのリードを引っ張る。しかし、いくら引いてもノラは頑として動かなかった。
「ノラ?」
呼び掛けても引いても、まるで動こうとしない。こんなことは初めてだった。
そんな様子に、私の中で一つの直感が囁いた。
「ノラ、あんたはここでいいの?」
ノラは、もう吠えず。ただじっと月を見上げている。
「分かったよ。元気でね」
私は小さくそれだけ声をかけると、老人に向き直って言った。
「私、もう帰ります」
そう言われた老人は何故か、驚いたような酷く打ち拉がれたような顔になった。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
私は心配になって尋ねる。もしかしてさっきのサンドイッチのせいだろうか? 賞味期限は今日の昼までだったし、一日リュックの中に入れっぱなしだった。
しかし老人は顔を両手で覆いながら何度も首を横に振る。
「いいえ、違います。違うのです」
「そ、そう?」
心配する私を追い払うように、老人は右手を振った。
「早く帰りなさい。早く――」
「分かった。じゃあ、さよなら。元気でね、おじいさん」
老人に背を向けて、私は丘を降り始めた。そんな私の背中に、老人の声が小さく聞こえた。
「私も遺書を書きます。どうやら、そうしないといけないようです」
私は振り返って、微笑みながら言った。
「うん。凄く面倒くさいから、早めに手をつけといた方がいいよ」