4 「どうか元気で」
完全に行くべき道を見失ってしまった。辿る道があやふやでも目的地がはっきりしていたのでなんとか行き着くことが出来たけど、目的地があやふやだと人はどこにも行けなくなるらしい。それでもノラの安住の地は見つけないと行けないので、足の向くままに歩き続けた。
そうしているうちに、完全に日が暮れてしまった。昼間が快晴だったから、夜でも星と月とが煌々としていて明るい。私はいつの間にか住宅街からやや離れた、人気のない山林地帯に来ていた。だから街灯もろくになくて、月が出てなければ足下が暗くて危なかっただろう。
「どうしようかなあ」
いい加減お腹が空いてきたし足の痛みもしんどくなってきたので、どこかに腰を下ろしてサンドイッチを食べたい。しかしこんな道端で食べるのもなんだし、こんなところでじっとしていると嫌なものが出てきそうだ。
嫌なもの――と、思うと急に背筋にゾクッとしたものが走った。人はいつ命を失ってもおかしくない、というのは私がほんの昨日学習したことではあるが、今の状況もその一つなのではないだろうか。
「ノ、ノラ――」
心細くなって、唯一の心の拠り所に目を向ける。
瞬間、ノラが大きく吠えていきなり走り出した。
突然のことに私のリードを握る手が緩み、するりと掌を通り抜ける感触を覚える。「あっ!」と思った時にはもう、ノラは私を置いて走り去ろうとしていた。
「待って! ノラ! 待ちなさい!」
中型犬の白い背中が小さくなる。僅かな隙に視界から消える。落ち着け、今のは右に曲がったのだ。破れたガードレールから獣道に突っ込む。もうとっくにノラの姿は見えないが、鳴き声だけは聞こえる。それだけを頼りに草むらを分け入り走り抜けた。
「きゃっ!」
足下に蔦が巻き付いて私は転んだ。それでもそのまま這いずるようにして前方の草を突っ切った時、一気に視界が開けた。短い草が絨毯のように敷き詰められた、小高い丘の上だった。ノラがその上に立ち、月に向かって吠えていた。
私は見とれそうになりながらもハッと我に返り、ノラの元にそっと近づきリードを腕に二重に結びつけてしっかりと握り直した。
「もう、あんたって狼の末裔だったわけ?」
私のリードを振り解いて走り出すほど月に思い入れがあるとは知らなかった。てっきりただの雑種だと思ってました。いや、実際に一銭の値もつかない由緒正しき雑種犬だ。
でも、こうやって月に向かって吠えているノラは、本物の狼みたいだ。
私はノラの横に体操座りして、一心に吠えているノラの鳴き声を聞いていた。
「おや、先客がいましたか」
がさりと草を踏む音してそちらを見ると、くたくたの服を着た六十過ぎほどの丸眼鏡をかけた老人がこちらに向かって歩み寄ってきていた。
「ごめんなさい。おじいさんの場所だった?」
頭を垂れる私に、老人は優しげに微笑んだ。
「いえ、構いませんよ。ここで月を見ながら酒を飲むのが、私の趣味でしてな」
老人はそう言って右手を上げた。手には紙パックの日本酒を持っているようだ。
「ここでお月見してるのね」
私は空を見上げた。満点の星と月が夜空に広がっていて、宝石を散りばめたみたいだ。
こんな美しい景色がこの世にあるんだな、と本当に思った。
「お酒――は飲めませんね」
老人は私の横に腰を下ろして言った。
「ごめんなさい。でもお茶があるから大丈夫。おじいさんはこれ、どう?」
私はリュックからサンドイッチを取り出して老人に差し出す。老人はしばし目を丸くしたが、嬉しそうにそれを受け取った。
「ありがたい。一人でもここの月は美しいが、二人でものを分け合いながら見るのもまた格別です」
「そうね――」
老人は虚空に向けていた視線を下界に下ろしてから、尋ねた。
「ところで、お嬢さんはこんなところで何を?」
「えっと、話すと長いのだけど――」
昨日、スズメバチの件から思い立って遺書を書こうと決めたこと。それにあたってノラの処遇が不安になったこと。いっそ自由にした方がいいんじゃないかと、昔住んでいた町まではるばるやってきたこと。
「でも、目的地がもうなくなっちゃってて、全然違う場所になってた。思い出の場所だったんだけど、もうないんだなって思ったら悲しくなって」
老人はうんうんと頷く。
「変わった地も、また新たな人の思い出の場所となるのですよ。あなたの思い出は胸に留め、場所は違う人の新しい思い出として譲ってあげるといい」
「新しい思い出――」
この星空を、私はずっと忘れないだろう。大切な思い出として、はっきりと胸に刻み込む。
そこでふと、さっきの赤ちゃんのことを思った。私はあの公園がなくなってしまってとても悲しい。それは間違いのないことだ。だけど、さっきの赤ちゃんは新しく出来た公営住宅で幼い時間を過ごす。あの子にとって大切な思い出の場所は、公園ではなく公営住宅なのだ。