質問
スピーカーから聞こえてきたのは、ややハスキーな女性の声だった。七年と七ヶ月前、帰還不可能とみられた脱出カプセルの中で、当時一緒に乗っていた茗荷谷と共に聞いたときの声だ。
「承ります。どのようなことでしょうか」
「先ほど船首と船尾のRCSスラスタで前後を入れ替える回転をしましたが、もしもスラスタが不調ならどうなさっていたでしょうか」
そのような非常事態になれば、宇宙飛行士相手なら直接的な指示のやりとりで事態を処理するところだが、今回は技術者からの質問だ。しかも相手は答えを分かっているはずの人間だ。
少し長めの説明がいいだろう。彼女の隣の人間も聞いているかもしれない。長谷部は頭を宇宙飛行士から解説員へと切り替えた。
「まずは不調の原因を調べます。現在の位置ですとHORICX管制と連絡を取った上で診断テストを行い、作業ロボットを使って確認します。原因を特定しないと、新たな状態が発生する可能性がありますので。時間的には十分余裕があります。
ただ、RCSスラスタはレーザー水蒸気エンジンを用いておりまして、どこかのスラスタに不調があっても他のスラスタに影響を及ぼしにくいものになっておりまして、二次被害が出る可能性が低くなっております。RCSスラスタは、一基ずつ独立した非常用の電源と推進剤タンクが装備されておりますので、それらを使い、他のスラスタで回転できる可能性が高いと思われます」
「RCSスラスタがすべて使えなくなったらどうでしょうか」
「船首と船尾すべてが同時に復旧不能になるのは考えにくいことですが、もしもそのようなことになった場合は、メインエンジン用の四本の推進剤タンク間の配管を使って、推進剤――つまり水を一方向に循環させる方法があります。
通常は重心のバランスをとるためのものでして、実行時には余計なトルクが発生しないようになっておりますが、ロール及び若干ピッチ方向にトルクが発生するようなモードがあります。それを使えば、時間は若干かかりますが船体の前後を反転させることができます。
これの電気系統や信号系統は姿勢制御系と別ですので、姿勢制御系の影響を受けません」
「それも使えない場合は」
長谷部は思わず山崎と目を合わせた。これは何かのテストだろうか。
「……一番最初にHORICX管制と連絡を取った時点で、宇宙救助協定に基づき、HORICX本部と日本ドックで救助計画が立ち上がります。いずれも軌道間高速救助船アクエリアス三型を複数待機しておりますので、こちらで解決できない場合は少なくとも二隻が救助にきます。乗客の皆様は最初に到着したアクエリアスに移乗して近くの基地に送られることになります。乗り心地はあまり良くないものになると思いますが」
「あなたと山崎船長はどうなりますか」
「二隻目のアクエリアスが到着次第、この宇宙船の回転作業に入ります。ドッキングしたアクエリアスのRCSを使って前後を反転し、早めにメインエンジンを始動して減速を開始します。その後、船長と私は分離したアクエリアスで帰還し、この宇宙船は自動で日本ドック近傍に帰還させます。ただ……」
「何でしょう」
「RCSスラスタがすべて使えなくなるような事態と申しますと、重大な事故が発生している可能性が高いです。姿勢制御よりも乗員乗客の当面の生命維持を第一に考えなくてはならない事態になっている事が考えられます。その場合は、この宇宙船に搭載されている救命カプセルへの誘導と指定方向への射出が私どもの仕事になるでしょう」
間が少し空いた。終わりかな、と長谷部が思った途端に胡桃沢の声が入った。
「救助船も来ない、外部から何の助けも得られない場合、どうなるでしょうか」
〝コバヤシマル・テスト〟か? と長谷部は思った。いや、これは完遂不可能というわけではない。この程度ではまだコバヤシマル・テストとはいえない。
長谷部は再びちらりと山崎の方をみたが、何か連絡が入ったらしくキーボードを叩いている。特に操縦士が必要な緊急の件ではないらしい。長谷部は胡桃沢との会話の方に頭を切り替えた。
「推進剤タンクの非常バルブをあけて船外に流出させ、その反動を使って回転するという手もありますし、メインエンジンの磁気ノズルの磁場を調整してプラズマの方向と散開具合を調整し、回転する手もあります。いずれにせよ、我々は最後まで最善を尽くします」
我々は〝最善〟を尽くします……。長谷部は最初にこれを言おうとしたが、やめて最後に言った。いささか芝居がかった感じになって信頼度を落とす可能性を感じたためだった。どのみちこれは通り一遍の台詞ではない。乗員なら誰もが本気で思っており、淡々と実行するべきものである。
「先ほどの方法は今思いついたものですか?」
「いえ、最初のはこの〝ひばり三号〟であるF1Cロケットの技術仕様書に載っています。磁気ノズルの件はメインエンジンの〝ガンマ一一〇〟仕様書第六版に載っているもので、山崎と鳴川が試験を行ったものが記載されています。〝ひばり三号〟は昨年の改修時に磁気ノズルを改良しておりまして、磁束調整の範囲が通常より広くなっております」 それくらいはあなたなら知っているだろうに、と長谷部は思った。
「――分かりました。以上です」 また少し間を置いて声がしたあと、通話が切れた。
客席との連絡回線が切れているのを確認して長谷部が尋ねた。 「通話終了。山さん、何か連絡が入ったんですか?」
「日本ドックからだ。エンジン始動を一時間二〇分早めて一〇分後に行う。再始動ができるかどうか気になってるのかもしれんが」
確かにメインエンジンが再起動できず減速できなければ、現在の地球―月―太陽の位置関係と相対速度からして、太陽を一つの焦点とした長楕円軌道に入るだろう。あまりいい感じではない。とはいえ、メインエンジンに不具合が出そうな兆候は何一つ無く、問題が出るとは考えにくいが……。
「新しい軌道要素と加速量は入力して待機している。HORICX管制には話が通っていて、俺も確認した。長谷部は確認後に船内放送を頼む」
長谷部は新しい軌道要素をチェックして問題が無いことを確認した。このへんにデブリやメテオロイドなどの軌道はなく、他の宇宙船が交差することもないので、危険回避の意味もなさそうだ。
その後、乗客の一人から呼び出しがかかった。特に問題は無かったので、処理はコンピュータに任せた。長谷部は放送用の文章を作り、コンピュータにかけて放送した。
メインエンジンのガンマ一一〇に異常は検出されない。非常時の行動に移れるような心構えはいつでもしている。山崎は待機モードに入っているメインエンジンを稼働に持って行ける準備を始めた。
「確認完了。問題はありません。予定時刻にエンジンを始動できます」
「時間はまだ少し余裕があるな。先ほどの偉い人からの問いかけだけど……、どう思う?」 山崎が尋ねた。
「何らかのテストだったんでしょうか……。例のアレに関係するような」
「思い込みは危険だけど、そう考えるのが自然かもしれない。俺が返答に出てたらおまえに代われって言ったんだろうかなあ」
「次聞いてきたら山さんが出てみます?」 長谷部が苦笑しながら言った。
「やめとこう。乗客と対話をする場合は操縦士が担当するのが一応の決まりだしな。――しかしノズルの磁束調整で姿勢制御する方法、|こいつのエンジン《タンデムミラー型核融合エンジン》だとやりづらいのも当然知ってるよな」
「ええ。F1Cの方には載ってませんでしたね。何で追記改訂しないのか聞いたことあるんですが、変則的すぎるって返事でした。一種の裏技みたいな扱いにしてエンジンの方だけに書いとくようです。炉内の磁束の影響が大きいようですが」
「NE-5や7みたいな多段式磁場衝撃波圧縮型なら楽にいけるんだが。――その辺のネタが出てきたから話を切り上げたのかもな、あの人」
「と、言いますと?」
「おまえがちゃんと最新の仕様書を読んでるって話だよ」
「当然のことをしているか確認したと? なんとまあ」
「例のアレの仕様書はどれだけのものになるんだろうなあ。面倒くさそうなエンジンも付いてるし。それをさらに動かして正式な技術仕様書を作るとなると……。まあ、頑張れ」 山崎は少し笑った。
「いや、まだ決まったわけじゃないですよ」 長谷部がいぶかしげに否定してみる。
「例のテスパイなんてやれるやつは、おまえと木星帰りの他は、こっちでやってた物辺と曽我くらいしかいないだろ。後は誰が最初に乗るか、というか超えるかだよなあ」
「順番は……、特に気にしていませんが」
「二人の名前は歴史に残る。もう二人の名は忘れられる。どっちがいい?」
「日本が二番以降になったら四人とも残りませんよ?」
「今の分だと……、やれるのは……、あそこかなあ」
(救助船も来ない、外部から何の助けも得られない――)
胡桃澤純麗の目は前を向いていたが、どこにも焦点を合わせていなかった。
(八百億キロメートルの彼方―― なにがあったとしてもそれが地球の私らに分かるのは三日と二時間後――
災害における〝七二時間の壁〟を宇宙空間に適用できるかどうかはともかく、救命の可能性が低くなるのは間違いない――)
(救助にいったとしても、向こうが何もない空間ならば同じところに出現する確率は極めて低い――
大きな質量があって空間に多少のゆがみがあるならともかく――
そのため何かあった場合、救助できる可能性もかなり低い――)
(計画に関わる者はこのことを確実に認識していなければならない。そんなのは当然の話。しかし――)
長い息を吐きながら、意識は一つのことを考えている。
(私は、本当にそれを理解しているんだろうか)
胡桃沢は今まで宇宙に出たことがなかった。数十万の人間が地球外空間で仕事をし、年間数万人単位の人間が観光で地球低軌道を回る時代なので、胡桃沢自身もできれば行きたいと思っていた。観光ではなく、己が設計をする乗り物が活動する舞台をその身で知っておきたかったのだ。
ロケットや宇宙船の設計者は宇宙空間に出なければならない、ということはない。フォン・ブラウンもコロリョフも糸川も銭も宇宙には行っていない。しかし、今は二〇世紀ではない。
本当ならば初期設計が始まる前に来たかったが、今でも遅いことはない。今回の経験が設計に直接影響を与えることが無かったとしても。
長谷部の回答は教科書通りのものだった。資格はあるというものの、突然操縦士として乗ることになった宇宙船の最新の仕様書をよく読み込んでいる。
あの回答はただのパフォーマンスではない。すべて本気の内容であり、いざとなれば言ったことを粛々とこなすだろう。
無鉄砲とは全く違う。淡々としているようでいて、宇宙を飛ぶことにかけては自信しか無い連中。その自信を本物にするために、あらゆる困難に――仕様書を読んで理解するような地味なことも含め――挑戦する連中。そのうち、宇宙を〝跳ぶ〟ことにかけても自信にあふれるようになるだろう。
そういう連中が乗る宇宙船――。あと少しで設計は完成する。連中はあれを使えるだろうか。使いこなせるだろうか。
座席前パネルのマイクに何事かを喋っていた広報担当者が振り返って言った。「外部カメラをグラスに接続してもらいました。チャンネルA、B、Cに各国のドックが映っています」
回りが少し慌ただしくなった。胡桃沢も腕に指を這わせる操作をして、掛けているスマートグラスに映像を出した。
グラスにはアメリカ連合の宇宙船ドックがぼんやりと映っていた。チャンネルBには欧州のが、Cにはロシア共同体のドックが映る。
HORICXの各国施設群までまだ六万五千キロメートル近く離れている。距離がある上に施設に貼られている遮光シートの反射によって太陽光が散乱しており、ソフトフォーカスがかかった感じになって細部まではわからない。幾層もの作業フロア、肋骨のように伸びる数本の整備クレーン、インフレータブル構造物の工場施設が本来なら見えるはずだが、よく分からない。
それでも、カメラの力を借りているとはいえ肉眼でここまでの形を見るとこができたことに、幾人かは感慨深いものを感じていた。協力者たちであり、競争者でもある、あの施設群。
HORICXの各国施設群は、二〇七〇年代から反物質を地球外で保管、管理、研究する目的で作られた。太陽近辺で生成した反物質を地球上に下ろさず、地球からは見えない月の裏側である地球-月系ラグランジュ点二付近におくことで、何らかの事故がおきても地球に直接被害が出ないようにするための施設だった。
反物質生成方法〝プロメテウス法〟が公開されて以降、反物質に関してはかなり誇張された危険性が――反対派のデマの他、フィクションの演出や明らかな間違いを事実と誤認するパターンも非常に多い――修復不可能なまでに広がっていたが、プロメテウス法で生成するキログラム単位の反物質は確かに危険なことは間違いなかった。日本が反物質生成と保管に踏み切ったとき、非核三原則に抵触するなどの大反対があった事も、五十代以上の日本人はよく覚えている。特に二〇九五年の月面崩壊事件により、反物質保管への抗議は最高潮に達した。
二一世紀最後の年に超光速飛行が行われて以降、飛行方法の性質からEML2が超光速飛行の射点に選ばれ、各施設は一万キロメートル離れたハロー軌道を回るように軌道修正された。保管容器の改良と保管方法の工夫により、なにかあっても反物質や対消滅で発生するガンマ線が地球の方向に行かないようにできたため、地球が見える軌道上においても問題が無いようになった。月面崩壊事件による反発も多かったが、軌道修正は半ば強引に行われた。それ以降現在まで反物質による事故は発生していない。
船内放送がかかった。予定より早めにエンジンを始動するとのことだった。宇宙に出るのが初めての胡桃沢らにとっては無重力状態は面白い体験ではある。事前に薬を飲んでいるので宇宙酔いのようなことも起こらない。
とはいえ、それらは地球低軌道からゲイトウェイ・ワンまでの間に十分経験した。遊びならともかく仕事の身とあっては、たとえわずかであっても体が床に押しつけられる感覚の方が馴染みがあって安心できる。数分後にはその感覚が戻ってくるらしい。
「まだ距離があって、じっくり見るには少し気が早かったですね。チャンネルDには月面を映してもらいました。高地が映っています」 間を持たせるかのように広報の男が言った。
少し考えて、胡桃沢はスマートグラスの映像チャンネルを変えた。ほぼ全体を太陽光に照らされ、一面灰色の高地が見える。太陽光がほぼ真上から照らす位置のために影があまり見えず、凹凸の多い地形というのがイマイチよく分からない。
映像の真ん中やや上と下に明るい光条を広げている二つのクレーターが映っていた。上のはジャクソンクレーター、下のはクルックスクレーターだろう。
左手にある黒い染みはモスクワの海だろう。一昨日の夜、寮の窓から見た三日月にあった、えぐれて見えた箇所。数十億年前からつい三〇年ほど前まで、地球からは絶対に見えなかった箇所。
ここからは月面崩壊事件の大きな爪痕である、白く巨大な同心円はほとんど見えなかった。年配の人間にはあの模様を嫌うものも多いが、あの模様のある月しか知らない世代も増えている。
「しかし、なんですねえ」 広報の男がつぶやいた。
「あのドック、普通は宇宙ドックって言いますけど、ドライドックとも言うでしょう。なんで〝ドライ〟なんでしょう。どうみても〝フローティング〟ドックの方が合っているように思うんですが」
あの男、月面に注意を向けたと思ったらまだドックをみていたのか? 胡桃沢は思わずスマートグラスを外して広報の男の方をちらりと見たが、隣の男と語源について話をしているらしい。時折、昔の映画作品の名前が出ている。
胡桃沢は再びグラスをかけ直し、月面に意識を向けた。
あの大地にも人がいて働いてる。宇宙船の操縦を行う人間とは意識も行動もどこか違うのだろうか、胡桃沢はふとそんなことを思った。
また船内放送がかかり、エンジンが再始動した。
頭から座面へ、足へ向かって軽い力がかかる。腕が手もたれに自然にかかる。
月が少しずつ離れていく。代わりに、複雑な形をした巨大な構造物が徐々に大きくなっていく。
A2ロケットが誕生するであろう施設〝日本ドック〟は、陽の光を浴びて輝いていた。
ウェルナー・フォン・ブラウン: (1912-1977)ドイツ→米国の工学者。近代液体ロケットの祖となるV2ロケットやアポロ計画のサターンVロケットで著名。二〇世紀米ソ宇宙開発競争における米国側の中心的人物。
セルゲイ・コロリョフ: (1907-1966)ソビエト連邦の工学者。ロケット開発の後に冤罪でシベリアに流刑。釈放後V2ロケットの調査復元を行い、ソ連の宇宙開発を指揮した。二〇世紀米ソ宇宙開発競争におけるソ連側の中心的人物。
糸川英夫:(1912-1999)日本の工学者。設計技師として戦闘機の設計に関わった後、東京大学にてペンシルロケットから始まる日本の固体ロケット開発を指揮。
銭学森:(1911-2009)中国の科学・工学者。米国で核開発やロケット開発に関わった後、〝赤狩り〟において中国に帰還。中国の宇宙開発における中心的人物となる。
いずれも二〇世紀において、所属する国のロケット開発で非常に重要な役割を果たした人物。他にもロケット理論を打ち立てたコンスタンチン・ツィオルコフスキー(ソ連・1857-1935)、世界初の液体ロケット開発などで知られるロバート・ゴダード(米国・1882-1945)、初期のロケット開発に貢献したヘルマン・オーベルト(ドイツ・1894-1989)らの名前がよく挙げられる。