GCC
西暦二一二四年一月二一日
「地球圏ですか?」
茗荷谷の話にヒト型ロボット〝エリィ〟が言った。スマートグラスに表示されているエリィの頭部は人間と言うより人形よりの造形をしていた。表情は何一つ変えなかったが、これは茗荷谷用の設定が反映されている。
しかし発言の抑揚は少しおかしなところがあった。個人専用設定と一般設定との選択の閾値が微妙なところだったのだろうかと茗荷谷は思った。
「数年はここに来られないと思う。もしかしたらもう来ないかもしれない」
「――分かりました。明日、出立される前に予約なさいますか?」
「いや、止めておく」
「分かりました」
少しだけ、無言の間が流れた。エリィの映像は微動だにせずまっすぐこちらを見ている。
「……右肘は普通に動くか?」茗荷谷が聞いた。
「全く問題ありません。あの時はありがとうございました」
エリィは、木星の衛星カリスト表面にある有人基地〝ガリレオコントロールセンター〟(GCC)日本居住区内の心理医療補助機器に分類される、女性型の精神安定用ロボットだった。普通は〝ラブドロイド〟〝ラブド〟の方が通りが良かった。男性型や非人間型もあったが、日本居住区内では女性型の二台が使われている。
二台には〝ドロシー〟と〝エリィ〟の固有名があった。最初は日本人の名前が付けられていたが、数人からやや遠慮がちな苦情が入ったので、外国人の名前でアルファベット順に割り当てられることになった。苦情の内容は公開されていない。
元々は〝クララ〟と〝ドロシー〟がいたが、GCC搭乗員の一人が使っていたときの偶然の事故でクララが壊れたため、予備の〝エリィ〟が導入されていた。
その部屋の前を茗荷谷が通りかかったのは偶然だった。目の前でドアが開き、右肘が逆方向に折れて構造材が皮膚から飛び出た状態のエリィが飛び出してきた。
エリィを抱き留めて室内をみると、クララが壊れたときに使っていた男が、工具を持って襲いかかってきた。茗荷谷は、カリスト表面の八分の一Gに対応した動きで男をねじ伏せ、保安ロボットを呼んだ。
カリストが属している木星系は、地球に電波を出して届くまで、近いときで三五分、遠いときで五〇分以上かかる。海と陸地に白い雲がかかって生命があふれる天体とは大きな距離で隔てられていた。
ヒトが生存可能なところは人工の設備の中しかない。「板子一枚下は地獄」とは漁師や船乗りの話だが、宇宙も似たようなものだった。轟音と強烈な水しぶきを伴う暴風や高波はないが、高エネルギー粒子や電磁波が音もなく忍び寄り荒れくるっている。何より宇宙は真空である。呼吸できる空気は手持ちの分しかない。天体表面にいて周りに水があれば電気分解で酸素を得られるが、エネルギーを使わないと得られない。装置が壊れて修理できなければどうなるかは明らかである。
食事や娯楽も限られたものしかなく、現地調達できるのは水くらいだが、不純物も多いので濾過しなければ使えない。放射線量にも気を払わねばならない。滞在を辞めたくなっても、好きなときにすぐ地球に帰れるわけでもない。
そのようなところである程度の期間を暮らすのはかなり難しいものがあった。ヒトの適応力は大きいものがあるが、ものには限界があるし、個人によっても限界値は違う。
ヒトに似たロボットは二〇世紀末から開発されており、二二世紀では街中を普通に歩いている。かなりの数は(非人間タイプと共に)介護用途に使われていたが、恋愛や性欲の対象として個人で所有しているものも多い。
こうした人造人間は、宇宙にも持って行かれた。二一世紀半ばまでの小さな施設では無理だったが、月や火星系、木星系に設置された大きな閉鎖環境では、そこで暮らす人たちの心理状態を保つため、各国がそれぞれ特徴のあるタイプを用意し、使用された。
男は冗談をよく言う方だったが、ここ最近は饒舌気味で時折黙り込むようになっていた。宇宙で長期間暮らす分には特に珍しいものでも無いが、男はストレス発散をロボットへの加虐の形で発散させてしまった。加虐行為を思う存分ぶつけられる用具もあるのだが、男はただのモノではなく人間に近いロボットを対象にしたのだった。
男は軟禁され、次の便――茗荷谷が月のハロー軌道上研究産業複合体、HORICXに行くのと同じ便――で地球に送還される。船内で他の乗客と顔を合わせることはない。
「修理は整備の江藤さんだが、まあ、良かった。俺の個人情報は消去を頼む」
「はい。消去は本日ではなく、明日出発の後にしようと思うのですが、よろしいでしょうか」
「構わない。――これで通信を切る。――大切にされることを願っている。今までありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
通信を切ると、スマートグラスからエリィの画像が消え、透過モードに入った。茗荷谷はグラスを外し、机において固定した。
最初は直接会いに行こうと思っていた。しかし現在は誰かが使用中だった。明日は出発時間まで空いているようだったが、その気にはなれなかった。
通話なら複数の相手と同時に違う会話ができるので、最後になるような気がする会話は通話で済ませた。気を遣う必要は特にない。相手はロボットだから。そうは思っていても、なにか釈然としない思いが一瞬よぎった。
長期間にわたって〇・一Gを出せる核融合エンジン〝NE-7〟の開発成功と、恒星間有人超光速宇宙船〝A2ロケット〟タイプ一の基本設計認可の話は、三時間前に聞いていた。
GCC日本宇宙機構代表の小淵から直接話を聞くのはこれが初めてだったが、以前から情報を小出しに聞いていたため、急という感じは無かった。茗荷谷自身としては、元々話が来たらやってみるつもりだったのだ。
(十年前に行くはずだったんだよ)小淵は言っていた。
超光速有人飛行の計画は以前からあった。無人の実験機で片道飛行の超光速飛翔体〝A1ロケット〟と、惑星間有人飛行用の核融合ロケット〝F1Bロケット〟をあわせた、〝A2ロケット〟が予定されていた。距離は理論から導き出される最小距離である八〇〇億キロメートル。
万が一、行きの超光速飛行に成功したが帰りが使えなくなった場合、当時の核融合エンジンでは〇・〇五Gの加速度が精一杯だったので、帰還に要する時間はエンジンの冷却専用期間を含めて七五〇〇時間、十ヶ月半かかる。
計画の責任者に任命される前から内々で行動していた中峰、船長に予定されていた小淵。彼らの努力は、通常エンジンでの帰還時に六二四〇時間以内で戻れるようにするという制約が決定したため、すべてが水泡に帰した。A2ロケット計画は白紙に戻り、中峰は火星の日本側責任者に、小淵はテストパイロットを辞めて木星での責任者になっている。
(君が乗員として行ってくれると私は安心する。ただ、船長ではなく操縦士になる可能性が高いと思う。それは覚悟して欲しい。大気圏内探査機の方にかかりっきりにさせてしまったので、惑星間飛行の経験が足りない)
(それは構いません。船長に固執する理由もありませんし。操縦士なら船外活動などの機会もあるでしょう。そちらの方が面白いかもしれません)
宇宙船は二〇世紀後半になって登場した、極めて新しい乗り物である。乗員の役割や用語は、宇宙船独自のものもあるが、舟や飛行機から借りているものも多い。飛行機自体、舟から用語を一部借りている。
宇宙船の船長は、宇宙船の責任者である。さらに、小型船舶の船長や飛行機の機長と同じく、自身が操縦を担当している。洋上の大型船や軍艦のように指示を出して操縦は操舵手が受け持つ、というものではなかった。
操縦士はあくまで船長の補佐だった。コンピュータがほとんどの作業をこなすとはいえ、訓練された人間による確認というのは今でも有効である。また、職務上常に船内にいなくてはならない船長に代わって船外活動を行うのも操縦士の役目だった。昔、アメリカ合衆国がスペースシャトルを運用していたときは船外活動はミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)が行っていたが、宇宙船の人員制限(生命維持にかかる手間を考えると少ないに越したことはない)のほか、宇宙飛行士の数が絶対的に不足している今、操縦士が様々な役目を負うのは必然といえた。
対消滅エンジンを使う最初のフライトの飛行距離が八〇〇億キロメートル。光の速さで三日と二時間かかる距離を一瞬で跳躍する。一五〇年近く前に打ち上げられ、今なお太陽系外へ向けて進むボイジャー一号探査機も、まだ七八〇億キロメートルも進んでいない。
太陽系全体で考えてみると――隣のケンタウルス座アルファ星系までの約半分の距離、二光年を最大半径として考えると――八〇〇億キロメートルは端までわずか二四分の一強動いたにすぎない。彗星の巣であるオールトの雲にも届かない。
それでもやはり八〇〇億キロメートルは遠い。それにこれは理論上うまく跳躍できる最短距離であり、成功すれば次からの一度の跳躍距離は桁違いに伸ばすかもしれない。
失敗は死に直結する可能性が大きい。
十一年前、茗荷谷は死の一歩手前を経験していた。航空自衛軍戦闘機パイロットとして太平洋上を飛行中、日本海戦争の残滓で発見されずに埋伏していた海中待機型対空ミサイル群の攻撃を受けて墜とされた。緊急脱出直後から意識が戻るまで三ヶ月。右足膝から下とテストパイロットへの道を失ったほか、婚約者もいなくなっていた。
その時と今度のはまるで違う。死につながる失敗のパターンをいろいろ考えてみたが、即死は少なく、時間がかかるものが多い。助かる可能性が完全に絶たれたら自分で処理するしかないだろう。
他国の超光速有人宇宙船が救助に来るという可能性もあるが、トラブルが発生したことは光速でしか伝えられないので、八〇〇億キロメートルなら三日強、一光年なら一年も後の話になる。遠くない未来には複数の超光速宇宙船が同時に同じ方向へ行くこともあるだろうし、それなら何かあっても救助は早いだろうが、それでもランデブーには時間がかかる。軌道力学は融通が利かないことでごく一部には有名だった。
自殺願望はない。それは本人もよく分かっているし、上の人間も分かっているのだろう。でなければ今回の話が来るはずがない。
宇宙船の特性を確認した後は、八〇〇億キロメートルを往復する。それだけだ。
移動は一瞬で終わるし、対消滅エンジンが突然爆発するようなことがあったらできることは何もない。
何かあるとすれば、行った先に何があるかだった。ただの空間なのか、それとも何かの天体を目標にするのか、それとも……。
寝るにはまだ時間がある。茗荷谷はもうしばらく、新しい宇宙船について考えることにした。
カリスト: 木星の四つの巨大衛星のうち一番外側を回る衛星。木星の放射線の影響が弱いため、カリスト周辺に有人基地をおいている。