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木星 ―成層圏

 西暦二一二四年一月十九日


 茗荷谷(みょうがだに)正高まさたかは、オレンジ色の与圧服に身を包み、操縦席に沈み込んでいた。

 狭い耐圧殻内には席は一つだけ。外を直接みる窓はなく、目の前には機外の環境値や機体の様子を表示するモニタ、腰の脇には操作用のスイッチやレバーの類いがあるのみ。


 視線はモニタに表示される情報を追っている。右手はサイドスティックに、左手は操作パネルのキーに軽く添えられている。ときおり、場所を確認するかのように推力制御兼ヨーイング(左右方向)操作桿に左手をすえてはキーに戻すという仕草を何度か繰り返している。


 空調のファンの音が軽く響いていた。室内の音と言えば、あとは茗荷谷自身が発する一定の呼吸音くらいである。


「三〇秒前」

 女性の声がヘルメットのスピーカーから聞こえた。ヘルメットのバイザーの端に視線を移して、表示されている時刻と予定を確認する。水平飛行に入ってから五分が経過していた。この室内の静けさもあと少しで終わる。


 茗荷谷は、ヘルメットのバイザーを、透過から機外の可視光カメラ表示に変えた。

 視界いっぱいに、黒と白、コスモス(秩序)カオス(混沌)の広大な風景が出現した。




 宇宙と大気圏との境界は、ほぼ一直線のぼやけた帯となって左右に伸びていた。両端がほんのわずかに丸みを帯びているのが分かる。


 上の方、漆黒の中に星はほとんど見えない。太陽光を真上から浴びる〝昼〟の位置にいるため、星々の光はほとんどがかき消されていた。かろうじて三つの星――左手にカペラ、右手にベテルギウスとリゲル――が確認できる。


 手前に視線を移すと、細長く白いアンモニアの雲が幾本もうねりたなびきながら向こうへと伸びていた。うねりからは触手のように枝分かれした雲が隣の雲と重なり合い、干渉し合い、マーブリングで作ったような複雑な模様を描き出している。


 その下には、赤みや黄色みを帯びた硫化水素アンモニウムの雲の層が幾重にも重なっていた。雲の切れ間からはさらに下にある水の雲が見える。災害を連想させる凹凸の激しい重い雲だった。灰色から黒にいたる重々(おもおも)しいそれらの雲には、時折巨大な稲光が走っていた。雲の層を一瞬照らし、複雑な輪郭があらわになる。〝魔女の大鍋〟や〝地獄〟という例えが似つかわしい。




 太陽系最大の惑星、木星。

 地球の十一倍の直径、一三〇〇倍以上の体積、三〇〇倍以上の質量の巨躯が深黒の中に浮かんでいた。

 星の表面を、白や赤系の縞模様がおおっている。それは無反射の黒い布に置かれた瑪瑙(メノウ)を連想させた。縞模様は自転と同じく東へ回っているものもあれば逆に回っているものもある。それらの境界付近では猛烈な嵐が吹き荒れ、高気圧性や低気圧性の渦――大きさは地球の大陸にも匹敵する――が無数にうごめいていた。


 メノウの赤道回りに、赤道領域(EZ)と呼ばれる白っぽい帯――地球一個がそっくり入る幅――がある。他の地域と比べると静かな方だが、それでも雲の無い成層圏には時速六百キロメートルに達する強風が吹いていた。周りは水素とわずかなヘリウムの混合ガスで、〇・一気圧、気温はマイナス一六〇度しかない。


 雲の頂上から五〇キロメートルほど上空の成層圏に、長い機首を持つ三角形の機体があった。〝チュウヒ〟という猛禽類の名前からはあまり想像ができない、細長いカモノハシに似ているようなその機体は、全長三〇メートル強と、回りの気象要素と比べて塵にも等しい大きさだった。しかしその機体は大気圏突入に匹敵するマッハ三二――マイナス一六〇度の水素音速との比――もの速度で風を貫き駆け抜けていた。


 膨大な速度は薄い大気にもかかわらず強烈な空力加熱を引き起こし、水素と極少量のヘリウムの透明なプラズマが機体から広がっている。細長い機首と側面にある電磁断熱システムが強力な磁場を発生させ、高熱でプラズマ化した大気を機体から遠ざけることで、機体の温度上昇を防いでいるが、放射による熱負荷はかなり大きくなっていた。


 平坦な機体下部の中央には、大気圏突入速度でも稼働するアトラムジェットエンジンの空気取り入れ口があった。くさび形の空気取り入れ口には、電磁断熱システムの磁場によって追い込まれた高速高温の水素プラズマが入り込み、タンク内の液体酸素と一緒になって燃焼を起し、リニアスパイクノズルからわずかに青みがかった透明の噴射炎と白色のショックダイヤモンドが遠く後方へと伸びている。




 「木星大気圏内有人飛行計画」は、木星大気中からの水素やヘリウム採取に先立つ調査と技術実証で始められた。

 木星はガス惑星で、八割が水素、二割弱がヘリウムで構成されていた。両方とも有用な元素で、特に重水素とヘリウム三は核融合反応で基本的に中性子を出さないため、核融合ロケットの燃料として需要がある。


 しかし木星大気からの資源採取はリスクが非常に大きなものがあった。巨大な磁気圏が生み出す強力な放射線帯は機器類に影響を与え、地球の二倍半近い表面(・・)重力と複雑で規模の大きな気象は採取と運搬を困難なものにしている。


 地球からロケットを打ち上げる際、地球の自転速度を借りるため東へ打ち上げるものがあるように、木星脱出速度の五分の一にも達する赤道付近の自転速度を利用することも考えられた。しかしコストを考えると、衛星表面にある水の氷を材料にして重水素やヘリウム三を製造した方が相対的に安く付いた。


 それでも、木星大気にそのままで存在する元素類は魅力的であった。


 木星大気資源回収システムの将来的な構築に向けての布石――。現時点の技術力でなんとか対応できる、雲の無い成層圏までの調査が行われた。ほとんどは遠隔操縦と自律行動を組み合わせた無人機によるものだったが、地球のスケールとは段違いの電磁場や風、雷と言った気象のため、調査の達成率はそれほど良くはなかった。


 そこに出てきたのが有人飛行計画だった。マッハ十五が限界のスクラムジェットエンジンではなく、大気圏突入速度で有効に動作するアトラムジェットエンジンの開発成功が、計画を後押しした。超光速飛行の実現により具体性を帯びてきた太陽系外惑星大気圏飛行計画の予算も少量であったがつぎ込まれ、応急で作られた母機と共に木星大気圏へ乗り込むことになった。




 バイザーに表示されている風景の右下が一瞬乱れた。が、すぐに戻った。機体表面に散らばっているカメラの一台が熱で破損したため、他からの映像ですぐに補完される。映像回路は壊れたが透明シールドは支障なしのため、飛行に影響はない。

 

 あまりにも地球と違うスケール、異質の自然。地球産の生命の来訪を拒絶しているのか無視しているのかも分からない、圧倒的な圧力が機体の下に広がっていた。


 そうした圧力を茗荷谷は無視した。水平線とモニタの姿勢指示表示が一致しているのを確認し、他に問題がなさそうなのを確認すると、機外の映像をあっさりと切り、数値などの表示に戻した。


 左手がいくつかのキーをしっかりと押したあと、警告表示テストスイッチを押した。警告表示がすべて赤の表示になったのを確認すると、テストスイッチを戻して表示を消し、確認スイッチを押した。新たな表示を確認して茗荷谷がつぶやいた。

「警告表示すべて緑(オールグリーン)。大気圏離脱準備よし」


 ヘルメット内に声が響いた。

「オオトリ〇一からチュウヒ〇一へ。そちらの機体を追尾中。現在のところ異常なし。離脱試験の開始を許可する」

「こちらチュウヒ〇一、了解。離脱試験開始」


 茗荷谷は息を一つ吐くと、左手の推力操作桿を奥へと押した。

 機尾のリニアスパイクノズルから吹き出るプラズマが増大した。速度表示の数値が上がっていく。振動がやや増えたものの、特に問題は無い。

 茗荷谷は右手の操縦桿を軽く引いた。機首が少し持ち上がり、機体は緩やかに上空へと駆け上っていく。


SRB(固体ロケットブースタ)点火シーケンス開始」茗荷谷がつぶやくと同時にスイッチを押す。


「点火指令確認。条件許容範囲内。SRBの点火秒読みを開始します。五、四、三、二、一、点火」


 機体両脇の固体ロケット四基が炎を吹いた。

 二基が合わさってくさび状になっており、それぞれが両脇について、安定翼としての役割も持っているロケットが、最初で最後の仕事を果たし始めた。

 加速度計の数値は一気に上昇した後、七.九と八とが交互にせわしなく表示される状態になった。

 木星の空にオレンジの燃えさかる炎が輝き、伸びていく。炎の出現点は上昇していき、ぐんぐん速度を増す。


 操縦室内には轟音と共に絶え間ない振動があらゆるものを揺さぶっていた。与圧服は膨らんで茗荷谷の下半身を押さえつけ、失神を防ごうとしている。

 一分が過ぎ、二分が過ぎた。視界は視野狭窄によって周りがうごめく闇に包まれている。しかし意識ははっきりしている。まだ問題は無い。まだ問題は、無い。

 三分。不意に体への圧力が少し軽くなった。SRBの燃焼が終わったのだ。


 音がした。爆発ボルトが作動してSRBを構造から切り離し、固定ピンが作動して機体から分離した音だった。

 アトラムジェットエンジンはすでに木星の大気を流入しておらず、機内にあるシャーベット状の水素を気化し、燃やしている。

 加速度計は四・九五を表示していた。先ほどまで感じていたものとは別物の軽い(・・)感じではあったが、機体は着実に木星から離れていった。


 SRBを切り離して二分。体への圧力が消えた。茗荷谷の下半身に加えられていた圧力もなくなり、視界も急速に元に戻った。

 茗荷谷は間を置いて何度か現在位置を確認し、機体がカリスト周回軌道まで届く長円軌道に乗ったことを確認した。


「こちらチュウヒ〇一、SRB燃焼終了後の分離(セパレーション)確認。主エンジン停止。操縦者も異常なし。予定通り長円軌道に乗った。そちらでも確認してほしい」


「こちらオオトリ〇一。軌道要素確認中。現在のところ順調(ノミナル)。こちらは予定通り回収試験の準備に入る。まだちょっと早いけどお疲れさん。しばらく休んでてくれ」

「こちらチュウヒ〇一了解。一旦交信終了」


 木星大気圏離脱試験は成功した。SRBはその役割をきちんと勤め上げ、長い待機期間の後に短い活動期間を終えた。機体は木星の脱出速度には到達していないものの、かなりの長円軌道に乗っており、途中で母機のオオトリ〇一と合流する。仮に合流が失敗しても、遠木点(アポジョブ)までは三日と三時間もあるし、そこで秒速〇・九キロメートル弱の遠木点噴射(アポジョブキック)を行えば木星周回軌道に乗れる。誰かが拾ってくれるまでの酸素や食料は十分にある。


 母機とのドッキングは、木星大気圏内探査機が動けないことを想定して、すべて母機が担当することになっていた。問題があれば機体側で姿勢制御などを行う事になっているとはいえ、ほとんどのことは終わった。あとは慣性のみが機体を走らせる。




 茗荷谷はふと、後方カメラの視界をシールドに映し出した。分離した二本のロケットは、ゆっくりと回りながら離れていく。しばらくは楕円軌道で木星を一周するが、気体分子の抵抗で徐々に軌道は下がり、そのうち木星大気の中へ消え去るだろう。

 視界を側方カメラと前方カメラに変えた。あらゆる光を吸収する深黒が広がっている。


 表面も底も見えない底なし沼。昔の宇宙飛行士が対談記事の中で宇宙のことをそう言っていたのを茗荷谷は読んだことがあった。

 ここは底なし沼の途中だ。どちらが上かも判らない。底に足を付ける事もできない。途中のどの辺りかも判らない。上に近かろうが底まであと少しだろうが、そこにたどり着くことは永遠にない。


 あまりにも広すぎる。

 宇宙は、人間にとって、あまりにも広すぎる。


 ふと思い出したようにシールド表示を透過に戻し、右膝辺りに手を置いた。与圧服の対G機構が、大腿骨下からの義足にも圧力を加えていたことを思い出した。義足自体は問題は特にないだろう。生体接合面(マウント)が少し痛むが、これも気にするようなものでもない。


 意識を前方に移した。操縦室内のモニタに表示される数値に問題が無いとこを確認し、別のチェック作業に戻る。後は再び、測定監視装置としての自分の役割を、役割のみを果たす。

 チェック作業が終わり、異常が無いことを確認すると、思考を機体の評価作業に向けた。

 カメラが一台壊れたものの、現時点では他に問題は無い。今後何度も試験を行えばいろいろと癖が見えてくるだろうが、少なくとも現時点では問題は見当たらない。

 もし次も乗るかと問われたら、ためらいなく承諾するだろう。




 木星大気圏内有人探査機計画は、予算削減により今回の試験を持って中止。今までに得られたデータは無人探査機の性能向上に活かされることになる。

 このことは今回の試験前に言い渡されていた。それでなくとも、噂の段階ではあったが、こいつは一回空を飛んだだけで終わりになるそうだと言われていた。茗荷谷は噂は無視していたが、二回目以降の木星大気圏離脱試験が白紙に戻った時点でこうなることを理解していた。




 母機がランデブーに入るまでまだ時間がある。茗荷谷は一人、音もなく虚空を進んでいった。


マーブリング: 水面に墨汁や絵の具を垂らしてできる模様を紙に写し取る絵画の技法。油や洗剤と交互に付けることで同心円の模様ができ、軽く混ぜることで様々な模様が生み出される。


マッハ三二: 木星大気圏で雲頂五〇キロメートル付近だと秒速二六キロメートルほど。気圧が似たような地球の高度三万メートルだと秒速十二・一キロメートルほど。音速は大気成分や高度(気温)によって異なる。


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