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火星 ―ダイモス

 火星暦二七四年十八月十六ソル(西暦二一二四年一月十九日)


 何も彼もを越えて広がりゆく、果ての無い時空間――宇宙。


 無数にきらめく星々も、あらゆる光を吸収する圧倒的な〝黒〟の前には、か細い灯火でしかない。


 その〝黒〟を背景に、半円状に輝く赤さび色の小さな星、火星があった。


 東西に四〇〇〇キロメートルと、地球のオーストラリア大陸の幅を超える長さを持つマリネリス峡谷は端まで全て日が当たり、西のタルシス地域にある巨大火山群はそろそろ朝を迎えようとしていた。


 火星の北半球は冬の季節に入っていた。この時期は大規模な砂嵐が発生して惑星全体を覆うこともあったが、今年はまだ発生していないため、二万キロメートル以上離れたところからでも峡谷などの地形はかなりはっきりと見えた。


 火星に重なって、同じく半分だけ太陽光が当たっている灰色の衛星、ダイモスの姿があった。ジャガイモにたとえられるその姿は、目立つような地形が少ないうえ色彩を欠いていることもあり、火星とは異質のものに見える。


 灰色のジャガイモから百キロメートルほど離れたところに、きらきらと(またた)く光点があった。そこは軌道間輸送船が行き交う軌道から離れており、普段は人工物がなにも通ることのない区域である。


 その光点は、制御が利かなくなったようにデタラメに回転している一隻の有人宇宙船だった。


 全長二十五メートルほどの円筒形、八階建ての建物に相当する大きさの宇宙船は、縦揺れ(ピッチ)偏揺れ(ヨー)横揺れ(ロール)方向と、三種類の複雑な回転をしていた。船体を包むように付けられている宇宙塵/デブリ防護板や補助用の太陽電池パネル、推進剤タンクや放熱板などが日向と日陰を繰り返し、太陽光を断続的に反射している。


 宇宙船は、その大きさの割には速く回転していた。船体表面から突き出ているセンサ類や放熱板は若干しなっており、基部への負担は限界に近づきつつあった。

 (メイン)エンジンの衝撃波タンデムミラー核融合エンジンは、異常な挙動を察知した際に自動で停止していた。それでも放熱板はにぶく光っており、エンジンの熱がまだ残っていることを示している。


「ミクロメガス基地、こちらハルモニア〇一長谷部(はせべ)全力複合回転(クラッシュスピン)テスト続行中。主放熱板のひずみが増大。放熱板基部の荷重が想定値に達する。三十秒後に制御をコンピュータに戻して経過を見る」

「こちらミクロメガス基地のハル。了解した。試験を続行してくれ」

「こちらハルモニア〇一長谷部、了解、実行する。通信状態も良好。連絡以上」


 構造材がきしむ、派手さはないが妙に耳に刺さる静かな悲鳴が幾重にも鳴り響く中、船長(コマンダー)を務めるテストパイロットの長谷部(はせべ)たかしは、いつもの落ち着いた口調で音声連絡を行った。右側には操縦士(パイロット)のノーマン・サントスが、ヘルメットのバイザーに映し出される表示を見つめている。額には脂汗が浮かび、呼吸が少し早くなっている。

 真空下でも短時間活動ができるヘルメット一体型の与圧服を着て、リクライニングシートのような操縦席にベルトで体を固定しているが、時折投げ出されるような揺れが襲うこともあった。


 操縦席前のモニタの一つは外の様子を映し出していた。表示部の端から火星やダイモスが現れては消え去っていく。


「二十秒前!」サントスが叫んだ。

「了解、制御移行準備よし。現在のところすべて順調(ノミナル)


順調(ノミナル)……)振動に頭を揺さぶられながら、サントスは心の内でつぶやく。


 船体の回転のため、二人には視野(しや)狭窄(きょうさく)が始まっていた。視界の周りの黒い縁が、普段より少し大きく、視界が狭くなっている。手のひらには汗がにじみ、血圧も若干上昇している。

 二人の生体情報はダイモスのヴォルテールクレーターにあるミクロメガス基地にリアルタイムで送られていた。三十五歳でベテランの長谷部は状況から見れば十分すぎるほど想定内の状態だったが、年下のサントスはやや興奮気味になっているデータがとれている。


 クラッシュスピンテストは新規の宇宙船の性能確認で最後に行われる試験であり、姿勢制御(RCS)スラスタを操作して船体を異常回転させ、状況を監視する。異常がなければ制御をコンピュータに戻し、姿勢が無事に回復するかどうかを確認する。一六〇年近く前、旧アメリカ合衆国の宇宙船ジェミニ八号で起こった事故をモデルにしており、新形式の宇宙船の半数がこのような試験を行っていた。


 取り返しの付かない事態になるところだったジェミニ八号の事故は訓練室で再現でき、宇宙船を操縦する資格を持つ人のほとんどはそのプログラムを受けていた。当時のクルーだったアームストロングとスコットの追体験をしたあと数種類のシミュレーションを行い、中にはいわゆる〝コバヤシマル・テスト〟(完遂不可能なテスト:1980年代の娯楽映画が元)も含まれている。このプログラムを受けた者は、無口で訓練室から出てくるのが通例であり、普段は温和な表情をしている長谷部や陽気なサントスも例外ではなかった。


 サントスが長谷部と違っていたのは、実際の宇宙船に乗って金属の悲鳴や振動を味わうのはこれが初めての経験という点だった。額に浮かんだ汗が、船体の動きによって〝横〟へ〝上〟へと揺れる。しかし精神的及び肉体的にはまだ余裕があり試験の続行に支障はないと、ミクロメガス基地の人間や支援AIは判断していた。


 長谷部の右手が手元のスイッチへと伸びた。左手は少し前から腰の辺りにあるレバーにそえられている。通常の操作系統をカットし、独立した命令系統のコンピュータと信号線でエンジン類を操作して、近隣の基地へと軌道を取るための非常用帰還装置始動レバーだ。これを引けば試験は中断され、宇宙船は有無を言わさずミクロメガス基地へ向かう。


「五、四、三、二、一、ゼロ。終了」サントスが言った。

「了解。制御移行(コンプ・ハブ)」長谷部は言い終わると同時に右手のスイッチを押し、宇宙船の制御をコンピュータに移譲した。とたんに黄色のランプがともり、甲高い一定の警告音が響く。


制御移行アイ・ハブ。現在の挙動は異常と判断、回転を停止します」


 中性的なコンピュータの声がすると同時に、遠くで小太鼓を素早く叩くような音が聞こえてきた。ハルモニア〇一の姿勢制御(RCS)スラスタであるレーザー水蒸気エンジンが動いている音だった。


 ノズルの奥で、宇宙空間に一瞬さらされた小さな水面にレーザーが照射され、爆発的に発生した蒸気が機体を動かしはじめた。進行方向を軸にした回転がゆっくりと収まってくる。


 続いて縦、横方向の大きな回転にゆっくりとブレーキがかかった。鳴り続けるRCSの音とは逆に、構造材のきしむ音は徐々に小さくなり、下半身の締め付けも緩くなってきている。同時に、暗く狭くなっていた視野も徐々に回復していった。シールドモニタの表示では加速度を示す数値がゆるやかに減少している。長谷部は頃合いを見計らって警告音を消した。


「姿勢制御の経過はすべて許容範囲内。サントス?」

「こっちも問題なし」

「センサの感度は」

「あー、現在のところ異常なし。RCSの飛沫の影響は出てないように見える」

「了解、このまま続行」


 サントスの返事に長谷部は満足した。RCSがはき出す水蒸気の一部が船体に配置されているセンサ類に付着し、誤った数値を出すことがあった。設計段階でシミュレーションをしているはずだが、部品の加工精度や取り付け、想定外の現象の影響など、実際の運用ではうまくいかない事が出てきたりする。長谷部らテストパイロットの仕事は、そういった不具合をあぶり出して欠点を改善するだけでなく、コンピュータ・シミュレーションの精度を改善することにも繋がっている。


 回転が体では感じられない速度まで落ちていき、やがて計器でも回転が止まったことが示された。

 長谷部は、非常用帰還装置の始動レバーにかけていた左手をゆっくりと離した。


「クラッシュスピンテスト終了。(メイン)エンジン、待機モードで始動準備開始」


 長谷部が言い終わると同時に主エンジン内の不純物除去作業に入った。高温の水素ガスが円筒形の核融合炉内に噴出されて反応炉内を掃除する。


 ついでエンジンの始動スイッチが入れられた。重水素とヘリウム3の極めて希薄なガスが炉に入り、数ミリ秒後に加熱システムが始動する。長さ四メートルほどの円筒形の反応炉に、超高温のプラズマが一瞬で形成され、温度が上昇していく。

 温度条件が満たされると融合炉内の磁力線が変化し始めた。複数の磁場衝撃波が次々に作られては後方へと進む。衝撃波が重なる波面では磁場で抑えられる以上の圧力が生じ、そこで核融合反応が起き始めた。操縦室内で核融合反応が起きたことを示すランプがともった。


 磁場衝撃波の生成が二ヘルツ――一秒間に二回――のままで留め置かれる。核融合反応で生成された陽子とヘリウムの原子核は、炉内の磁力線に捉えられて磁気ノズルへと向かい、広範囲に噴射された。ノズル内にある発電用電磁誘導モジュールは効率を最大に上げており、居住区船殻を覆う固体電池への蓄電が行われているが、そのぶんプラズマはかなりの速度を失っている。


 長谷部とサントスは、ライトだけでなく、エンジン関連の数値からも核融合炉が動き始めたことを確認した。プラズマの放射熱が二枚の放熱板へと輸送されつつあることが、モニタにアニメーションで示されている。かなりの負荷を全体にかけたクラッシュスピンテストのすぐ後でも、エンジン系統は異常なく動いている。

 あとはエンジンを推進モードに移行し、基地への帰還軌道に乗るだけである。基地とドッキングして乗員が移乗するまでは気を抜けないが、かなり肩の荷が下りたことは間違いなかった。


「主エンジン、起動を確認……。ミクロメガス基地、こちらハルモニア〇一長谷部。第三十一回試験飛行の項目を全て終了。指示はあるか」

「こちらミクロメガス基地のハル。試験項目完了の件、了解した。追加の指示はない。そちらに異常が無いことはこちらでも確認した。帰投してくれ」

「こちらハルモニア〇一長谷部、了解、標準の帰投手順に移行する。連絡以上、交信終了」


 長谷部が言い終わると同時に、数名による歓声と拍手がスピーカーから流れてきた。試験中は基本的に音声回線は常時つながっており、連絡以外の時でも互いの音が聞こえている。管制室には西部アメリカ、南部アメリカ、日本の人間が十名足らずしかいないが、ほぼ全員が叫んでいるのだろう。ハルモニア〇一試験飛行の責任者であるハル・ウォーカーはあまり表情を変えずに黙っているはずだが、と長谷部は思った。仕事中は完全に無感情の鉄面皮であり、たとえ乗員が無事帰還して握手をする時でも感情を表す事はない。


 歓声と拍手は急速に小さくなり、やがて聞こえなくなった。音声回線が切れた事を示す表示がともった。操縦室内の記録は常に行われており、関係者だけでなく広報目的で一般にも公開されたりする。しかしこのあとは単に記録されるだけで管制室の人間には届かない。あとでコンピュータによる解析があるものの、後に事故などよほどの事がおこらない限り、公開される事はない。


「いつもの三十分コースだ。軌道の算定を頼む」

「ああ、終わった。……確認してくれ」


 少し疲れたかのようなサントスの声が少し気になったものの、長谷部は軌道の再計算を淡々と行い、サントスの計算結果と合っているかを照合した。問題がないことを確認し、ミクロメガス基地に帰還軌道の詳細を送ると、すぐに承認が帰ってきた。


 ハルモニア〇一の船首と船尾にあるRCSスラスタから白く輝く小さなジェット流が一瞬現れ、船体が向きを変え始める。やがて反対側のRCSスラスタが作動し、ゆっくりと止まっていった。


 炉内の磁場衝撃波の生成速度が上がる。二ヘルツから四、八、十六、三二と上がり、二五〇を越えた。

 二枚の放熱板の色が変わり始めた。すでにある程度の熱を発散していた暗赤色の表面が徐々に明るくなっていく。


 磁気ノズルの磁力線が絞られ、目には見えない陽子とヘリウムの超高速プラズマが後方へ一直線に伸びる。数秒後、エンジンの熱をもらって蒸気となった水が、ノズルの最後尾から噴射してプラズマにたたきつけられて船体の運動量を増した。宇宙船はゆっくり、毎秒毎秒〇・四九メートルの加速度を得て、小さな衛星ダイモスへと帰還する軌道に乗った。


 ゆっくりとした加速に入り、体が軽く操縦席に押しつけられる感覚が戻ってきた。視界の隅で、ゆらゆらと動きながら空気清浄機へと吸い込まれる少量の細かい埃が、一斉にまっすぐ動いていく。


 二分ほど稼働した後、コンピュータが言った。

「推進剤カット、エンジン停止。慣性飛行に移ります」


 体がすっと前に押し出された後、船内は無重力状態になった。操縦室内をまっすぐ後ろに漂っていた埃が一瞬停まったかと思うと、ゆっくり空気清浄機へ進み始める。


「エンジン待機モードに移行。異常……なし」長谷部が確認すると同時にサントスも同じく確認した。二人はヘルメットのバイザーを上げると、ほぼ同時に深い息を吐いた。


「少し気になる点はあったが、まあこんなもんだろう。二、かな」長谷部が十段階での評価をつぶやくと、サントスが顔を向けていった。

「俺も二だな。……で、船長。ちょっと質問が」

「うん?」長谷部は前方モニタの端に移る船内環境表示に一瞬視線を向けた。基地への通信はオフになっている。


「今日は何度操縦桿を握った? どの程度自分で宇宙船を操った?」

「ほとんどないのはサントスも見ていると思うが。それで?」

「いや……、このままでいいのか考えるところがあってね」


 長谷部は相棒の横顔を見つめた。いつものように陽気な顔ではあるが、少し陰が差しているように思えた。ドロップアウトの前兆だ。まだ初期状態ではあるものの、多くの退職者が最初に通過したところだ。


「このまま、というのは具体的にはなんだろう? 宇宙船の指揮や操縦などの有り様についてか? それともサントス自身の今後の身の振り方?」

「ああ……、こいつが航空機と違うってのはよくわかってるから、操縦に関しては何も言わない。軌道決定なんざ、勘ではどうにもならんし。姿勢制御でもコンピュータの支援が常に必要ってのはよくわかる。ただ、やっぱ違うんだよな」

「どこが?」

「操縦桿、スロットルレバー、ペダルを操作して返ってくる手応え。あの感覚がなにもない。フィードバックが何もないんだ。いや、スラスタを噴射すりゃ反動はあるよ。ただそれが違うんだ。航空機とも。ボートとも。〝カシィ〟も航空機を操縦してたことがあるんだろ? ならわかるんじゃないか?」


 タカシと発音しにくいという理由で〝カシィ〟と言われている長谷部隆は元々民間航空機のパイロット候補生だったし、サントスは軍のパイロットだった。長谷部は入社してまもなく上司との軋轢から自己都合退職している。宇宙飛行士を選んだのは、たまたま募集がかかっていたのを知ったからだった。サントスが宇宙飛行士の宇宙船操縦関係に鞍替えした理由が子供の頃に見た月への憧れであることを長谷部は知らない。


「手応えと言ってもな、グライダーとか手こぎボートとかなら分かるが……。そう思うようになったきっかけがあるのか?」

「これって、チャレンジングな仕事なのかってね」


 長谷部はサントスの目を見たまま黙っていた。


 宇宙飛行士は知力体力ともに高いレベルを求められ、狭い職場は壁一つ向こうが生命の住めない世界。精神的にも肉体的にもかなりキツい職場である。そこで自分の能力をぶつけることができればいいが、実際にはほぼすべてがコンピュータの管理下に置かれていた。特に宇宙船の操縦席はすべてが記録されて一部は一般に公開される。映像音声だけでなく身体機能なども記録する〝監視〟デバイスによる無言の圧力。


 やりがいが少なく給与も取り立てて良いわけではない。貯金を使うにも宇宙にいては選択肢があまりにも限られている。この時代、宇宙飛行士――特に宇宙船の操縦関係は人気の無い職業だった。


「目標はあるし、こっちも努力している。こいつが危険で、困難だってのもわかってる。だからこそのやりがいってのも感じている。でも、なんか違うんだよな」

「何が違うんだろう」

「何でもさ、コンピュータが入り込むんだよ。途中から奪っていくんだよ、俺の意思を。こう動かしたいって言う意思を」

「コンピュータは手助けだろう?」

「手助けどころか、コンピュータの方がうまいじゃないか。百八十度ターンにしてもこいつらに任せた方が一発でうまくいく」


 サントスは手を操縦パネルの方に振って見せた。タッチパネルと、トグルスイッチやボタン類が共存した操縦パネルは、なにも言わずにただそこにあった。


「それはマーキュリーやジェミニの頃から言われてたんじゃなかったっけ。有人じゃない方がいいだろうっていうのは。ただあれは――」

「暇なんだよ。ひま。何もやる事のない時間が多すぎ。今みたいな試験の事じゃない。軌道間操縦の時もだし、地球から火星や木星に行くときだってそうだ。チェックはするけどさ、何もしない、意味の無い時間が多すぎるんだよ。俺は……」


 サントスは遮るようにしゃべり、少し黙ってから、ぽつりと言った。


「俺は、必要なのか? ここで必要なのか?」


長谷部はしばらくサントスの方を向いた後、ゆっくり静かに言った。


「今、ここで、俺は、とても必要としているぞ。俺一人に何もかも押しつける気か?」


 うつむいていたサントスは長谷部をみると少し笑い、ため息をついた。


「宇宙ってのはなんなんだろうなあ、カシィ……。地球はただのゆりかごなんだろうか。もしかしたらヒトにとっての地球は……、世界のすべてなんじゃないか。そこから出て行くのは機械の方が向いてるんじゃないかってなぁ」


「サントス……、わかっていると思うが、今はまだ飛行中だ。テストパイロットの仕事の時間だ。気を楽にできる時間であっても、たとえコンピュータが全権を握っていたとしても、冷静さを失ってはならない。わかるな?」

「……了解、船長」

「今現在の音声は記録されているが、異常事態が起こらない限り分析されるようなことはない。だからあえて聞くが……、いや、カウンセラーに話を持って行くべきか」

「そう、だな……」


「どのみち、チームが解散したら一度話しに行くようスケジュールが組まれてたよな。人間の先生もいるし、気が乗らないのならAIのでも……、いや、人間の方がいいか」

「そう、だな……」


「もし、俺を含めて人間関係とかでメンタルに影響を与えているとかなら、早めに言っておいた方がいいと思うが」

「いや、それはない。あんたも含めていいチームだと思うよ。いい奴らだ。ハルは、まぁ、つまらんが頼りにはなる。本当にすごい奴らだ……。なんでこんなやつらがこんなところでこんなことを」


 サントスの目の前に一本の指が立てられた。手袋の指の腹の汚れがはっきり見えるところまで迫ってきたため、サントスは少したじろいだ。


「今からレポートを書け。これは命令だ」

「あー……、了解。悪かった。……ちょっと一つ、いいか?」

「ああ」

「その手袋、洗浄した方がいいぞ」


 一瞬固まった長谷部は、指を鼻に近づけた。思わず顔をしかめた長谷部は腕を組んで悔しそうにうなった。


 あとは軌道半ばで船体を反転させ後ろ向きのまま進み、基地に近づいたところでエンジンを再稼働、減速する。そしてダイモス表面にあるミクロメガス基地に着陸するのみ。

 この辺はすべてコンピュータ任せであり、ヒトの介在する必要は基本的にはなかった。


 ハルモニア〇一は、ハーモニー計画で誕生した試験用の宇宙船である。


 米連合宇宙局(UNSA)日本宇宙機構(JSA)による火星圏内軌道間高速輸送船の開発計画「ハーモニー計画」において、誕生した宇宙船の愛称が「ハルモニア」だった。名称はギリシャ神話の女神から取られており、フォボス、ダイモスと同じくアレス――ローマ神話だとマルスに相当し、火星を表わす――の子である。


 火星の衛星フォボスとダイモスの間を航行するために作られており、老朽化が進んでいるグルス(つる座)型宇宙船の代替として計画されていた。簡単な改装を施すことで、月と地球周回軌道を回る宇宙ステーション間や、木星圏の宇宙ステーション間を結ぶ軌道間輸送船への転用も狙っていた。火星圏と木星圏とでは活動範囲や環境がかなり異なるが、ハルモニアは性能でもコストでも十分対応できる設計になっていた。


 あとは実際にどう動くかである。意図した動作がきちんと行われ、意図していない動作は起こらないという組み合わせが最高の設計ではあるが、この通りに行かないこともある。意図していなかった優れた動作をする場合もたまにあるが、それはたまたまうまくいっただけであって、歓迎すべきものではない。


 あらかじめ決定された正確な操縦を行ってどのような結果が出るかを徹底的にあぶり出し、すべてを明らかにした上でレポートを作成し、関係者に理解させる役割を担う職業がある。


 それらはマニュアル作成の任務にもつながる。宇宙船を製造する企業も手順説明書を作成するが、それは設計段階で考えられたものであり、実際の挙動とは異なる場合も出てくる。挙動の範囲、限界を見極め、一定の知識や技量を持ったものならば誰が使っても安全な状態で効率よく性能を引き出せるような手順を明らかにし、文書化する。文書にすれば、省く箇所、付け足す箇所、注意する箇所、それらが明らかになり、改善しやすくなる。


 長谷部やサントスは、そういったテストパイロットの仕事を生業としていた。


 そして今、テストパイロットとしての仕事の一つが、計画中止という形で終わろうとしていた。


火星暦: 火星圏で施行されている暦。一火星年が六六八ソルで二四ヶ月、閏年が二年に一回以上ある。


ソル: 太陽日。地球なら一ソル=二四時間=一日。火星の一ソル=二四時間三九分三五秒。


レーザー水蒸気推進: 水の薄膜に高強度のレーザー光をあてて蒸気を爆発的に発生させ、推進力とする方式。化学推進より高速な噴射速度が得られる。


核融合推進: 核融合によって生じた高速のプラズマを推進力とする方式。核融合燃料とは別に推進剤(水)を共に噴出させることで推力向上が図られている。


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