2節 待っていたぞ哀れな者よ
──ここはどこだろう。
──いままでなにをしていたっけ。
──わからない。
──たいせつなことだったはずなのに。
──なにもおもいだせない。
◇ ◇ ◇
「……ん……」
朝霧が立ち込めるどこかの森の中、大木の幹に身を委ねるように眠っていた小さな存在の意識が、徐々に覚醒し始める。
ゆっくりと開かれていく重い瞼。その先の視界はぼやけていて、寝ぼけまなこを擦ると周囲に視線を巡らせる。
「……ここは……」
見渡す限りに生い茂る緑と樹木。辺りは鬱蒼としており、どう見ても森か林の中にしか見えなかった。
意識がはっきりしないまま、その場に立ち上がろうとした瞬間に『バチンッ』と、まるで電撃を受けたような猛烈な痛みが頭の中を襲った。
「ぐっ……あああっ‼︎」
両手で頭を押さえ、悶えながらその場に膝をつく。
「キィッヒッヒッヒッ! やっと起きたか小僧!」
頭が割れそうに痛む中、脳神経を逆撫でするような甲高い声がどこからか聞こえてくる。
「だ、誰だっ‼︎」
苦悶の表情を浮かべながら、周囲をキョロキョロと見回す。
「ヒッヒッ、どこを見とるんだマヌケが」
次に聞こえた声は、さっきまで寄りかかっていた大木の上方からだった。視線を向けると、そこには少年を見下ろすなにかがいた。
それはトンッと軽い足どりで木の枝から飛び、風に舞う木の葉のようにふわりと降り立つ。
「待っていたぞ哀れな者よ」
「な、なんだよお前は……」
薄暗くてはっきりとはわからないが、少年には赤色の尖った帽子と衣服を纏った老人のように見えた。
顔には皺があり、鼻と顎の下には細長い髭が伸びている。
しかしそんなこと以上に、少年は目の前に現れた存在を〝不気味〟だと感じた。
絶えず口角の吊り上がった口元と深淵のような真っ黒な目。それを見ていると言いようのない不安が込み上げてくる。
「ヒッヒッヒッ、ワシか? ワシの名は……まぁ、そんなことなんぞどうでもいい。それより小僧! お前、なにか大切なことを忘れていないか?」
老人は手に持っていた杖を少年に向けて突きつける。
「はぁ⁉︎ いったいなに言ってるんだ⁉︎」
「頭を働かせて、よ〜く思い出してみろ?」
そう言って老人は、自分の頭を指でトントンと叩いて見せた。
(忘れてる? 思い出す? ふざけてるのかこのジジイ。そもそもここはどこなんだよ⁉︎ ボクは今まで確か……確か……)
そそのかされて思考を巡らせた瞬間、ふたたび『バチンッ』と猛烈な痛みに襲われた少年は、頭を押さえながらその場に倒れ込んだ。
「ぐぁああぁぁあああっ‼︎」
「キャッハッハッハッ‼︎ どうした、なにも思い出せないのか⁉︎」
地面をのたうち回る少年を一瞥し、老人は勝手に語り出した。
「そりゃそうじゃ‼︎ その身体には、妖精の呪いが掛けられているんじゃからな‼︎」
「生前の記憶は封印されていて、お前の意思で引き出すことは絶対にできない‼︎」
「言っている意味がわかるか小僧?」
軽やかな足どりで楽しげに、小躍りしながら一方的にそう告げる。
激しく息を切らしていた少年は少しずつ状態が落ち着いてくるが、その耳には老人の意味不明な言葉など、ほとんど入ってきていなかった。
「……なんだよ。なにがどうなってんだよっ‼︎」
自分の身に起こっていることが理解できず、混乱し喚き声を上げた。
「ヒッヒッ、知りたいか?」
思いがけない一言に、即座に顔を上げ期待の眼差しを向ける。しかし、老人が漂わせる不穏な気配を感じ取り、少年の心は一転して更に不安に包まれた。
もともと吊り上がった口角が、ニヤリと鋭さを増す。
「残念じゃが今は教えられんな! 答えを知りたければ、その身に課せられた試練を乗り越えることじゃ」
老人はそう言い残すと霧のかかった森の中へ姿を消した。
「あっ、待てっ‼︎」
「(キィッヒッヒッ、このワシを失望させるなよ?)」
その言葉がまるで残響のようにどこからか聞こえてきた。
「なっ……あっ……」
唖然とする少年。そしてその様子を遠くから窺う、もう一人の老人がいた。
「フォッホッホ、レプラの奴め。あれでは余計に混乱させるだけだろうに、相変わらず性根の腐った男だな」
そう言いつつも、特になにかをするでもなく、口に咥えたパイプをふかしながら、事の成り行きを静観している。
「だが、避けては通れぬ道だ。果たしてこの森を無事に抜けられるかな?」
目元を覆うボサボサな眉から覗いた瞳は、少年へと迫る試練の影を捉えていた。
「クソッ‼︎ いったいなんなんだよっ⁉︎」
やり場のない感情を拳に込めて、地面へと振り下ろす。
「訳のわからないこと言いやがって……」
強く握りしめた拳を通して、身体がブルブルと震える。
「なにが課せられた試練だっ! ふざけるなっ‼︎」
声を荒げた次の瞬間、『ブオンッ』と風を切るような音が聞こえ、少年は凄まじい衝撃を受け前方へと吹き飛ばされた。
「がはっ⁉︎」
身体が宙を舞い、数メートル先の地面へ落下する。
「痛ぅ……。な、なんだよ今のは」
ゆっくりと上体を起こし、元いた場所を振り返る。一瞬そこに細長いものが見えた気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
その直後、少年がいた場所よりも更に奥のほうから、なにかが地面を這いずるような音が聞こえてきた。
森の中を巨大なものが蠢いているようで、徐々に少年のいるほうへと近づいてきている。
〝バキッ、ミシッ、ベキッ〟と音を立て、木々を縫うように接近する影。そして、それは少年の前へと姿を現した。
「う、嘘だろ。なんなんだよ、こいつは……」
自分よりも遥かに大きく長い図体。まるで触手のようにうねる撓やかな肉叢。
それは巨大なミミズの化け物〝ワーム〟だった。
頭に相当する部分には目や口が無いにも関わらず、まるで見えているかのように、少年のいるほうへ鎌首をもたげている。
一瞬のことだった。横からカサッと音が聞こえた気がして視線を向けると、なにかが物凄い勢いで迫っていた。
「おわっ⁉︎」
すんでのところでそれを避けると、目にも留まらぬ速さで頭上を通過していく。
風圧で落ち葉が巻き上がる中、反転したそれは頭上高くへと上昇し、次に起こることを直感した少年が全力で横に飛び退いた刹那、振り下ろされたそれは森の大地へと容赦なく叩きつけられ、強烈な衝撃音が周囲に響き渡った。
「ぐっ⁉︎」
飛び退いた際に打ちつけた身体の痛みに、小さな呻き声が漏れる。
土煙が舞う中、ゆっくりと持ち上がっていく黒い影からはパラパラと破片が落ち、ついさっきまで自分が立っていた場所には、衝撃によって深い溝ができていた。
心臓がバクバクと脈を打ち、全身から血の気が引いていく。
胴体が木々に隠れていてわからなかったが、目の前のそれは、恐らくワームの尻尾だった。
ゆらりと動く大きな影に少年はビクッと反応する。
蛇に睨まれた蛙のごとく、身体が萎縮して動けずにいると、ワームの頭部がたちまち膨らみ始める。
嫌な予感しかしないのにその光景から目が離せず、やがて膨らんだ頭部に亀裂が入るとそれが十字に裂け、言葉では言い表せないような悍ましい咆哮を上げた。
開かれた口からはよくわからない液体が迸り、その開口がぐるりと少年のほうを向く。
だらだらと涎のように滴る粘液。針の山のように口の中を埋め尽くす無数の棘。
その姿は正に〝捕食者〟だった。
「う、うわぁぁあああっ‼︎」
少年は絶叫し立ち上がると脇目も振らずにその場から逃げ出した。
なりふり構わず全力で、背中にビリビリとした殺気を感じつつも余計なことは一切考えず、緩やかな斜面を滑るように、ひたすら前へ前へと駆け降りた。
その様子を見物していた赤服の老人は、実に愉快そうな笑みを浮かべている。
「キィッヒッヒッ、逃げ足の速い奴め。……だが、まだまだこれからだ」
「さぁ、楽しませてくれよ!」
◇ ◇ ◇
「ぜえっ! はあっ! ぜえっ! はあっ!」
いったいどれだけ走っただろう。身体は疲労困憊で呼吸もままならず、頭は揺さぶられているかのようにクラクラとした。
まともに立っていられず、身を隠すように木陰へと入りもたれかかる。
呼吸をするたびに胸の辺りがズキズキと痛む。喉もカラカラで、唾を上手く飲み込めず何度も咽せた。
息を整えながら、自分の周囲や走ってきた方角の様子を窺うが、どうやらあの化け物は近くにいないようだった。
「……くしょう……」
「ちくしょうっ‼︎ ちくしょうっ‼︎ ちくしょうっ‼︎」
感情が心の底から湧き出す。現状において、それが身の危険を呼ぶ行為だったとしても、一度溢れ出したものは簡単には止められなかった。
「夢なんかじゃない。あの化け物……本物だった!」
ワナワナと震える自分の手を見つめる。
「──わからない。なんでボクがこんな目に!」
「なんでなにも思い出せない‼︎」
「ボクにいったいなにが起きたんだよっ‼︎」
がむしゃらに叫んだその瞬間、まるで金属が弾け飛ぶような〝キンッ〟とした感覚とともに、急速に視界が遠のいて辺り一面が真っ暗になる。
「なっ⁉︎」
あまりに突然の出来事で、それ以外の言葉が出てこなかった……。
──宙に浮いているような浮遊感。瞬きをして、目が開いていることを確認する。
瞳を右往左往させるが、どこを見ても黒一色で、それが近いのか遠いのかすらわからない。
恐る恐る前方に手を伸ばしてみる。すると、自分の腕をはっきりと視認することができた。
身体も足も、視界の及ぶ範囲ならその姿形をくっきり捉えられる。
光りなんてどこにも見当たらないのに、訳がわからなかった。
そんなことを考えていた矢先。暗闇の中に、幾つかのぼんやりとした白いものが浮かんでくる。
やがてそれは鮮明さを増し、その中に談笑している様子の男女と、笑顔で手を差し伸べる少女の姿が映し出された。
そこにいる人たちが誰なのかわからなかったが、少年は無意識に少女が差し伸べた手を掴もうとした。
だが、どんなに頑張ってもその手に触れることはできず、触れようと思えば思うほど距離がどんどん離れていく。
「待って‼︎ 行かないで‼︎」
必死に追い縋るように手を伸ばす。
しかし、瞬きをした次の瞬間には、今までいたはずの真っ暗闇から、元の森の景色へと戻っていた。
宙に浮いているような感覚もなく、地に足が着いている感触が確かにある。
「今のは……」
疲れすぎて、幻でも見ていたのだろうかと自分を訝しむ。だが脳裏には今の光景がはっきりと焼き付いていた。
そしてさっきの少女のことを思い出すと、言い知れぬ焦燥感が込み上げてくる。
彼女はいったい誰なのか、この胸のモヤモヤはなんなのか。そのことに思考を巡らせたとき、突然ポタポタと肩になにかが落ちてきた。
水のように透明だが水ではない。ヌルヌルとしていて不快な臭いを放っている。
瞬間、息の詰まるような悪寒とビリビリした殺気を背後に感じた。
振り向いたら間に合わない。
地面に張り付いた足を無理やり引き剥がし、横の斜面へと身を投げる。その直後、悍ましい咆哮を上げながら大地に喰らいつく化け物を横目に見た少年は、そのままゴロゴロと転がり落ちていった。
「ぐぅっ!」
揉みくちゃになりながら斜面の底へ辿り着くと、全身の痛みにも構わず、すぐさま上方を見上げる。
ワームは進路上の木々をその巨体で薙ぎ倒し、物凄い速さで少年へと目掛け近づいてきていた。
「クソッ!」
(こんな所で死ねない。なにもわからないまま死にたくない!)
少年はワームから遠ざかるように走りながら、なにか生き残る方法はないかと辺りをグルグル見回す。
そうこうするうちに背後から〝ドンッ〟と音が鳴り、自分の足元まで振動が響いてくる。
距離はそう離れていない。あのワームの速さならすぐに追いつかれてしまう。
(どうすればいいんだよっ⁉︎)
焦る心の中で何度も自問する。すると、日が昇り、薄くなった霧の向こう側に岩の壁が見えた。
だが、そこにあるのは延々と続く岩肌。袋小路の行き止まり……。
もう駄目なのかと少年の心は挫けそうになる。
しかしよく見ると、岩肌には縦に向かって幾つもの亀裂が走っており、その中の一つに自分がギリギリ入れそうなほどの隙間があった。
そこを目指すべきか否か。背後の存在がそんなことを考える暇すら与えてくれず、少年は残された力を振り絞り全力で走り出した。
地面を這いずる音がすぐそこまで近づいてきている。
少年が飛び込むように隙間へと滑り込んだ直後、ワームの身体は岩の壁に阻まれ、『ドォンッ!』と激しく打ちつけられた。
◇ ◇ ◇
「はあっ‼︎ はあっ‼︎ はあっ‼︎」
生きている……。
無我夢中だったからわからないが、一瞬でも飛び込むのが遅ければ間に合わなかったかもしれない。そう感じるほどに、すぐそこまで殺気が迫ってきていた。
自分が侵入してきたほうへと視線を向ける。ワームの巨体では、ここまで入ってくることはまず不可能だろう。
しかしワームはその場から離れる様子がなく、そこから外に出るのはどう考えても不可能だった。
少年は自分の身体を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。
遠くから見たときは小さい隙間のように思えたが、中は自分が直立する程度なら問題のない広さだった。
これからどうすればいいのか。そんなことを俯き加減に考え始めた矢先、突然『オォオォオォ……』と不気味な音が聞こえてくる。
「今度はなんなんだよっ⁉︎」
音は奥のほうから聞こえてくるようだった。こんな所にもさっきみたいな化け物が潜んでいたら、今度こそ終わりだ。
少年は唾をごくりと飲み込み、息を潜める。すると、奥のほうから〝ビュオッ〟と強い風が吹いてきた。
風は一瞬で吹き抜けていき、また『オォオォオォ……』という音が聞こえてくる。
どうやらこの不気味な音は、奥から吹いてくる風の反響音のようだった。
「はぁ……」と胸を撫で下ろし、肩の力を抜く。
なにも安心できる状況ではなかったが、緊張状態が続いたのもあって一息吐きたかった。もう叫ぶ気力も残っていない。
ちらりと奥のほうへ視線を向ける。まるでさっき見た光景のように、暗くてなにも見えない。
ふと、あのときの少女のことが頭に浮かぶ。
あれはいったい誰なのか、なぜこんなにも胸がざわつくのか、どうしてなにも思い出せないのか。
その理由を知っていそうなジジイはどこかへと姿を消し、すぐそこには化け物がいる。
この場でじっとしていれば、誰かが助けに来てくれるのだろうか?
頭をブンブンと横に振る。自分が誰かもわからないのに、誰かの助けを期待するなんてどうかしている。
それに少年はここに来て、違和感のようなものを感じ始めていた。まるでこの闇の向こうから呼ばれるような、引っ張られるような奇妙な感覚を。
不安も戸惑いも恐怖も消えてはいない。しかし少年は知りたかった。自分になにが起こったのか、あの少女は誰なのか。
ひと時の休息を終え、大きく深呼吸をした少年は歩き出した。
なにも見えない、暗闇へと向かって。