プロローグ
深く暗い森の中、夜の闇を月明かりが照らす広場の中心。草花が生い茂る中に、一人の少年が横たわっていた。
少年の瞳は虚ろで呼吸が浅く、引き裂かれた衣服の下からは血が滲み出ている。
(急がないと……)
心の中で自分にそう言い聞かせ、身体に力を込めようとする。……だが、上手くいかなかった。
手も、足も、指先も、金縛りにでもあったかのように動かすことができない。
(なんとかしないと……)
そう思うほどに焦りが募り、焦りは不安を掻き立てる。
少年は視線の先を見つめる。汚れた手の中には、引き千切られた数本の花が握られている。
(これを届けないと……)
ふたたび起き上がろうと力を込める。しかし、引き裂かれた傷の痛みに、呻き声を発することしかできなかった。
(急がないと……あいつに追いつかれる前に)
そのとき、森の茂みの向こう側から「グウルルルル」と、低い唸り声が聞こえた。
『ドクンッ』と心臓が大きく高鳴り、ガサガサと草が揺れる音が近づいてくる。茂みの中から現れたのは、全身が灰色の深い体毛に覆われた、四足歩行の魔獣だった。
魔獣は片目が潰れていて、滴る血で顔の半分が赤黒く染まっている。
(動けっ! 動けっ! 動けっ‼︎)
心の中で何度もそう唱える。だが、どんなに強く念じても身体が動くことはなく、激痛のみが全身を駆け巡る。
「グウウウ……」
威嚇するような低い唸り声とともに、魔獣がゆっくりと歩み寄る。
恐怖、焦り、後悔、怒り……。さまざまな感情が心の中を埋め尽くし、涙が溢れて零れ落ちる。
魔獣は大きく口を開くと、鋭い牙を少年へと向けた。
(姉さん……)
◇ ◇ ◇
ドクン…… ドクン…… ドクン……
とある森の中、丸い帽子と深緑のケープを身に纏った老人が、大木の枝に座りのんびりとパイプをふかしている。すると、老人の長い耳がピクンッと小さく揺れた。
「キィッヒッヒッヒッ! 今のを感じたか、ファーよ?」
「……レプラか」
とんがり帽子と真紅のケープを身に纏った老人が、不気味な笑みを浮かべながら、パイプを咥えた老人を下から見上げていた。
「若くて愚かな人間の魂だ。久々にいい玩具が手に入るわい」
「フォッホッホッ、どうだかな。また無駄骨に終わるかも知れんぞ?」
「ヒッヒッヒッ、今にわかるわい」そう言ってレプラは踵を返した。
「どこへ行く?」
「決まっとる。花の所じゃ」
◇ ◇ ◇
ドクン…… ドクン…… ドクン……
「キィッヒッヒッ! 来とる来とる。森中の魔力が集まっとる!」
半球状の空間の中央には、大きな花のようなものが生えており、その花の太い根が四方八方へと伸びている。
「どうじゃこの隆々たる脈動! 素晴らしいと思わんか?」
「いつもと同じだ。なにも変わらん」
「ヒッヒッ、んなことわかっとるわい偏屈ジジイ!」
レプラの口の悪さに、ファーは若干イラッとした様子を見せつつも、フンッと鼻息を鳴らすにとどめた。
「久しぶりの胎動じゃぞ? 待ち遠しいじゃないか!」
「相変わらず悪趣味な奴だ」
肩を竦めるファーの横で、レプラは満面の不気味な笑みを浮かべている。
「さあ……哀れな魂よ、ワシのために早く生まれてこい‼︎」
まるで嘲笑うかのような、甲高い笑いに引き寄せられるように、その日、一つの魂が神秘の花の下へと舞い降りた。