大草原の小さな宿
広い広い草原のまん中に、小さな駅がありました。
駅と言っても、駅舎は無く、駅員さんもおらず、ただホームがあるだけです。
そのホームにくっつくようにして、一軒の宿と小さな畑がありましたが、それ以外には本当に何もありませんでした。
この駅に列車が停まるのは、多くても一日に二回です。
お客さんが宿を訪れる時と、帰る時。
この宿には一日に一組しか泊まることが出来ないので、お客さんが来ない日は、列車は通り過ぎてしまうのです。
ある時、日がまだ高いうちに、列車が駅に停まり、その日の宿泊客が降りてきました。
降りてきたのは、陰気そうな顔のビジネスマンひとりだけでした。
そこまで大きくないカバンを携えて駅のホームに降り立つと、そのまま宿の中へ入っていきました。
彼はとても優秀なビジネスマンでしたが、仕事の無理がたたって具合が悪くなり、休養をとるように言われたです。
しかし、どうすればゆっくり休むことが出来るのかが分からず、知人に相談してみたところ、この宿を紹介されたのです。
このビジネスマンは、こんな何にもないところに何日もいられるわけがないと考えました。
なので、一泊だけして、明日には帰ってしまおうと考えていました。
宿に入ると、主人と思われる男が出迎えてくれて、部屋に案内してくれました。
ビジネスマンは宿の中をざっと見回してから、主人の案内した部屋にすたすたと入って、そのままベッドに寝転がりました。
ですが、何もせずベッドの上で過ごすというのも、彼にとっては逆に落ち着かないものでした。
ふと、この宿の広間には暖炉や本棚、それにソファやロッキングチェア等もあったことを思い出して、部屋を出てみることにしました。
広間に着くと、主人がコーヒーをすすめてくれました。
それを受け取ったビジネスマンは、何となくこの主人の事が気になりました。
年の頃は、自分と同じくらいです。
他に人の気配がないため、おそらく主人一人だけでこの宿を切り盛りしているのでしょう。
しかし、家族などはいないのでしょうか。
この宿の近くには町や村どころか、他の建物すらありません。
ここに主人しかいないのであれば、彼はどこか別の所に家を持っていて、そこに家族と暮らしているという事なのでしょう。
ですが、こんなへんぴな所に来るのは、そう簡単な事ではありません。
ビジネスマンは、主人にこう聞いてみました。
「君は普段はどこで生活しているんだ?」
それに対して、主人は何の屈託もなくこう答えました。
「私にとっては、ここは自宅であり、職場でもあります。ずっとここに、一人で暮らしているんですよ」
「こんな何もない所に、一人で?」
「はい。まったく私一人です」
「すると君は、妻も子どももいないという事なのか?」
「ええ、まあ……そういう事になりますね」
ビジネスマンの質問は失礼なものでしたが、主人は照れくさそうにするだけでした。
主人の答えを聞いて、ビジネスマンは彼の事を内心であざけりました。
少なくとも自分には、だれにでも自慢できるような美しい妻がいる。
有名な大学に通っている息子もいる。
様々な業界の著名人とのつながりもある。
同じくらいの年齢でありながら、妻も子供もおらず、こんな寂しい場所で宿屋の主人をやっているようなこの男より、自分の方が格上だと考えました。
しかし、それと同時に、自分はなぜここを訪れるように言われたのだろうかとも思いました。
正直なところ、この宿には何もありません。
テレビや最低限の電化製品はありますから、おそらく発電用の設備などがあるのでしょうが、そもそもここには電線すら引かれていません。
本棚に並んでいる本は、主人の趣味で選んだものなのでしょうが、自分が暮らしている都会にある大きな書店の方がずっと興味深い本がたくさんあります。
客室も料理も、おそらく都会の高級ホテルの方がはるかに質の良いものが提供されるでしょう。
なにせ、この主人は厳しい修行を積んだ料理人にも見えませんでしたし、一流のおもてなしが出来る人材にも見えないのですから。
考えてみれば、ずいぶんとまぬけな話です。
折角の休みなのですから、リゾート地や高級なホテルを訪れるという方法もあったでしょう。
ですが、自分がいるのは、線路以外に何もないだだっ広い草原のまん中にある小さな宿です。
おまけに景色が素晴らしいとか、宿そのものが美しいとか、主人が興味深い人物であるといった事もありません。
そのくせ宿代も、決して安くはありませんでした。
何を思って、知人はこんな場所を自分に紹介したのだろうか。
もし帰ったら、ウソでもいいから『素晴らしい宿を紹介してくれてありがとう』と言うべきなのだろうか。
そんな考えを追いはらうように、本棚から適当な本を選ぶと、ソファに座ってそれを読み始めました。
たまにコーヒーをすすりながら本を読んでいると、いつの間にか夕食の時間になっていました。
辺りはすでに暗くなっており、窓からは星が見えます。
ビジネスマンが読んでいた本は、そこらの古本屋でも手に入るようなものでしたが、そんな本でも時間を忘れて読みふけっていたという事に、彼は少しおどろきました。
他の事を考えずに本を読むことが出来たのは、かなり久しぶりだったからです。
食事の内容には期待していませんでしたが、出された料理は一品一品がきちんと作られていました。
この宿の隣にある畑でとれた野菜のサラダやスープの他に、魚料理や野生動物のグリルなどもありました。
それらの料理をもくもくと食べ終えて、ビジネスマンは少しこの宿に対する認識を改めることにしました。
人によっては、こういうのをありがたく思う事もあるだろうし、もう一泊してみるのも悪くないかもしれないな、と。
食事が終わり、後は寝るまでの時間を気ままに過ごすだけとなりました。
暖炉の前にあるロッキングチェアに座り、若い頃に読んだことのある哲学書をぱらぱらとめくっていると、段々と眠くなってきました。
こういう感覚を味わえることも、一種のぜいたくなのかもしれないな、とビジネスマンは考えました。
確かに自分の暮らしている都会には何でもあるが、こういう風にゆったりとした時間を過ごすことが出来る場所は、そうそうないのかもしれない。
そんな風に考えていた時でした。
「外に出ませんか」
外とうを持ってきた主人に、そううながされました。
正直な所、暖炉の前にいたかったのですが、折角声をかけてもらったので、主人についていってみることにしました。
ビジネスマンは、主人と一緒に駅のホームまで来ました。
背中には宿の明かりがありますが、目の前には何もありません。
どこまでも広がる暗闇と、遠くに見える山の影と、満天の星空があるばかりで、頬をなでる夜風の冷たさばかりが気になりました。
「そろそろ見えるはずです」
そう言うと、主人は顔を夜空に向けました。
一体何が見えるのかね、とたずねようとしたその時。
ひとつ、ふたつと星がきらめきながら夜空に線を描いていきました。
ビジネスマンは、星が流れていくのを心の中で数えながら、夜空をじっと見ていました。
辺りにはさえぎる物が何も無く、夜空が自分の足元まで広がっているかのように感じられます。
「今日は、流星群の日なんですよ」
それを聞いて、どこかでそんなニュースを聞いたことを思い出しました。
しかし、仕事が忙しかったのと、折角休みをとっても気持ちが落ち着かなかったのとで、今日がその日だという事に全く気が付きませんでした。
星を見ていると、なぜだかとても懐かしい気持ちになりました。
昔もこうやって、流れ星を見に行った事があったな。
それは、彼が父親と一緒に天体観測に行った時のことでした。
大学に入る前に亡くなってしまった父親との、数少ない思い出です。
もうずいぶんと昔の事だというのに、その時の光景がありありと目にうかびました。
気が付くと、彼の頬を一筋の涙が伝っていました。
悟られないようにそれをぬぐうと、主人にこう声をかけました。
「ご主人、素晴らしいものを見せてもらって、本当にありがとう」
ビジネスマンの言葉に、主人は静かに答えました。
「ここは本当に何にもないんですよ。でも、その何もないという事そのものがここにはある。だから、何度も訪れてくれる方もいるというわけなんですよ」
「何もない、があるとは、一体どういう事なのかね?」
ビジネスマンが主人の方を向くと、主人は星を見ながら静かに語り始めました。
「お客様が暮らしてらっしゃる所には、確かに何でもあるでしょう。洗練された料理も、人が集まる場所も、優れた芸術に触れる機会もあり、様々な刺激にあふれていると思います。そうした場所の事を考えると、こういう場所は何もない、ありふれたつまらないもののように感じられるかもしれません」
少し考える様子を見せてから、主人が続けます。
「ですが、その『何もない』というのも、決してありふれたものではないのです。何もないと言われる場所それぞれに少なからず違いがあり、この宿にはここだけにしかない『何もない』があるのです。あなたのお知り合いも、その価値を分かって下さっているからこそ、あなたにここを紹介なさったのでしょう」
「……そうかもしれないな」
そうつぶやくと、ビジネスマンは再び顔を上げて、星が流れていくのを見つめました。
小さな宿と駅、それと星空以外には何もない空間で時が流れていくのを感じるのは、確かにここでしか味わえないものでした。
翌朝、朝食を終えたビジネスマンは、予定の列車に乗って自分の家に帰ることにしました。
結局、一泊しかしなかったものの、少しすっきりしたような顔をして、列車に乗り込みました。
「ありがとう。貴重な体験をさせてもらったよ。主人も達者でな」
「またいつでもいらして下さい。何もない宿ですが、ここにしかないものをきちんと用意して、お待ちしております」
ビジネスマンは、列車の窓ごしに主人に礼を言いました。
去り行く列車を、主人はいつまでも見送っていました。