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第二章 リューゼの不安(2)

 とは言ったものの。

 急に言って急に住処が見つかるはずもない。とりあえずどこかホテルにでも泊まるしかないか。ユリシスはそんなことを考えながら歩いていた。

 暗い夜空を見上げる。月もない空。

 呆然としていたリューゼを思い出す。可哀想なことをした、思えばひどく胸が痛んだ。彼女が今までどんな道を歩んできたのかは知らない。幼いながらに必死に生きてきたのだろう。そうしてようやくダレスのあの家にたどりつき、それなりの平穏を得た。それを、自分はうかつにもかき回し、破壊してしまった。

----ここはお前の家ではない----

ダレスの放った言葉。恐らくリューゼが最も恐れていた言葉に違いない。

 全く自分という人間は。

 ユリシスはほう、とため息をついた。何故こうも上手くできぬのだろう?何故こう気づくのがいつも遅いのだろう?もっと早くに気づいていれば、あの家に住み込みで入る前に気づいていれば、こんな悲劇は避けられたものを。元からリューゼはユリシスが入り込むのをひどく嫌っていたではないか。それを知っておりながら、自分はうかうかとあの家に入り込んでしまった。

 ユリシス自身、途方にくれていた、ということもある。疲れ果てていた、ということもある。一生懸命に働いてきた。その勤め先を追い出され、誤解とはいえ罵られ石もて追われるようにしてたたき出され、だから、来ても良いと言ってくれたダレスの言葉はひどくうれしかった。そうしてくれると助かると。

 トルファの橋まで来たユリシスは、ぼんやりと欄干にもたれかかって流れる川の水に目を落とした。ころころと水が流れて行く音がする。暗く遠い闇に伸びる筋。川の両岸の街灯がその筋に沿って続き、そして闇へと消えている。

 この先どうしよう・・・?

 顔を覆った時、不意に後ろから馬鹿なことはするな、と抱きつかれた。

「ちょっなっ何を・・・」

無理矢理欄干から引き離される。弾みで二人、地面に転がった。慌てて飛び起きて見れば、ダレスである。

「ダレス・・・」

「馬鹿なことは考えるな」

死んで何になる。いたたたた、したたかに腰を打ち付けたらしいダレスが、さすりさすり身を起こす。ユリシスは苦笑しながら助け起こしてやった。

「何を勘違いしている」

「え・・・」

「私はただ、川を見ていただけだ」

「そうなのか・・・?」

「私はそれほどやわではないぞ」

「いや、まあ、それはそうなのだが・・・」

後ろ姿があまりにも寂しげで闇に溶け込みそうだったとは言えずダレスは頭をかいた。

「その・・・すまなかった」

「そなたが謝ることは何もないではないか。謝るのは私の方だ。迷惑をかけた。とりあえず、私の方はいいから皆といてやれ。彼らはそなたを頼りにしているのだ」

「これほど頼りにならぬ人間もおらぬのにな。愚かな話だ・・・」

ダレスは言って小さくくっと笑った。

「ユリシス、子どもたちには今一度よく言って聞かせる。だから戻ってくれ」

ダレスの言葉に、しかしユリシスはかぶりを振った。

「私がいると彼らが混乱する。これ以上彼らを傷つけるわけには行かぬ。そなたの親切はありがたいが・・・本当に、私一人のことならどうとでもなる」

ユリシスは言うと、町へと歩き出した。


「はーー、一体何がどうしたってのさ」

椅子に腰掛け、足を組んだオリヴィアが尋ねる。リューゼはぽつり、ぽつりと一部始終を話した。

「んだよねーちゃん、んな馬鹿なことダレスのヤローに言ったのかよ!」

ゼファが怒る。

「だって!」

リューゼが叫ぶ。だって、仕方がない、と。ユリシスが来てからおかしくなった家の中。皆が奇妙に互いに気を遣い、ぎくしゃくとして・・・

「まあ、確かに、俺もあいつがいるのはあまり・・・だけどな、リューゼ、これは俺たちが口を挟んでいいことじゃない」

オルクが言った。

「この家はダレスの家だ。本当なら、ダレスは俺たちをここに置いておかなきゃいけない理由はないんだ。でも、奴はそれを許してくれている。だろ?奴がユリシスがいるのも許してやると言ったのなら、それをどうこう言うケンリなんてないんだ」

「でも、あの人は、何一つルールを守らない」

リューゼが抗弁する。今までの時間の中で、皆が作り上げてきた数々の暗黙の了解。それをユリシスは全て破壊してしまう。互いの事情に首を突っ込まないこと、互いのすることに余計な口出しはしないこと、各々が、各々の領域を守って領域侵犯はしないこと。

 そしてまた、ダレスが自分たちには許さないようなこともユリシスには許すのが、リューゼには理解できなかった。ユリシスは時にダレスの上にさえ立ってああせよこうせよと言う。さぞダレスは怒るだろうと思ったが、案に反して、ダレスはうるさい、と言いながらもユリシスの言うことにしばしば従っている。それどころか、面白がっているらしいことさえあって、リューゼは混乱してしまう。

 ダレスが変わってしまう----それは、リューゼにとってひどく不安なことでもあった。

 仕事中に一切近づいてはならない。その鉄則も、ユリシスには適用されない。他の誰も許されないが、ユリシスならば許される。ユリシスが何だというのだろう?ある日突然やって来ただけの、何も知らないあの人間が。

「俺・・・俺、さ」

ずっと逡巡していたらしいアンディが不意に手を上げて言った。

「ごめん、リューゼ、でも俺、あの人が来てくれて、ほんとはちょっと助かったって思ってた。俺たちが学校へ行ってる間、ルトは家で一人だろ。ちょっと心配でさ」

アンディは泣き疲れて眠ってしまったルトの髪をそっとなでながら言った。ルトはアンディにいちばんよく懐いている。

「ダレスは仕事になるとルトのことなんかほったらかしだし・・・それは仕方ないとは思うけど、でも、誰かいてくれるってのは心強いだろ」

「その割にアンディ、ユリシスに冷たかったじゃん」

とオリヴィア。

「そ、それは・・・だって、リューゼの気持ちも分かったから・・・」

アンディは言って肩をすぼめた。

「なあ、リューゼ、あの人は悪い人じゃないと思うよ。ちょっと口うるさいけどさ」

リューゼは何も言わない。沈黙が落ちた。

 悪い人じゃないと思う。アンディは言うが、リューゼにはそれを素直に信じる気にどうしてもなれない。この家に来る前の生活でも時折感じた不安、それに似た何かが胸の奥からこみ上げてくる。

 けれども、落ち着いてよく見回せば、どうやらユリシスを嫌っているのは自分独りのようだった。ルトは真っ先にユリシスに懐いていたし、アンディもあの通りである。オルクは分からないが、オリヴィアは明らかにユリシスが来て家の面倒を見なくてよくなったことを喜んでいた。ゼファは、本人の前ではああだこうだと反抗していたが、今のこの様子だと、むしろリューゼに反対している風がある。

「ねえ、リューゼ、あの人はああいう人なんだって、あきらめられないかなあ?」

オリヴィアが諭すようにそんなことを言った。

「口うるさいけどさ、面倒なことはみんなやってくれるじゃん。口うるさいのはタコか何かがごちゃごちゃ言ってるんだって思って右から左へ聞き流せばいいんだよ」

 本当は----

 皆はユリシスがいることに賛成なのだ、とリューゼは不意に悟り小さく唇を噛み締めた。ゼファさえも。

 居場所がない----

 リューゼはそのことに気がついて愕然とした。ユリシスが来る前は、リューゼはオリヴィアの片腕であり家の中を一緒に切り盛りしていた。それは決して完全なものではなかったけれど、ダレスに褒められ、また皆に感謝もされていた。そうして作ってきた居場所。それが、ない。皆は小さなリューゼの手より、大人であるユリシスの助けの方をよしとしている。ダレスでさえも。

「私・・・が・・・」

リューゼは低く言った。私が悪かったのですね、と。

「そんなことは言ってないよ」

優しい声でオリヴィアが言う。

「誰が悪いとか、そんなじゃない。リューゼ、リューゼの嫌だなと思う気持ちだとか、不安だとかも分かる。だけど、さ、ね、みんないるんだからさ、怖いことなんてないよ。アイツが何か本当にあんたを悲しませたり傷つけたりするようなら、私らが許さない。だから・・・」

 一生懸命慰めるように言うオリヴィアの言葉に、リューゼはほとんど泣きそうになっていた。居場所が、ない。ユリシスに対して感じた危機感は、それだったのかもしれない。

 ずっと不安だった。どこにいても。母親のところにいたころは、始終邪魔にされた。母親のところへやって来る男たちは大抵リューゼやゼファのことが嫌いで、何か気に入らないとすぐに暴力を振るった。中にはおかしな目つきでリューゼを見る者もあり、そんな男がいる時には、母親は狂ったようにリューゼをぶった。このあばずれが!と。何故母親がそんなに怒るのか、リューゼには全く理解できなかった。ある時、母親がいない時にやって来た男はリューゼを抱きすくめ、口づけて来た。嫌だと言ったにも関わらず彼は力任せにリューゼを組み敷き----

 ゼファがいなければ、どうなっていたか分からない。今思い出してもぞっとする。いつの間にかやって来ていたゼファはやめろと叫んでその男に身体ごとぶつかり、思い切り噛みついた。そんな騒ぎの最中、外出していた母親が戻り、男をものすごい剣幕で追い出した。

 ほっとしたのも束の間、今度は母親は泣き叫びながらリューゼを激しく折檻し始めた。ごめんなさい、ごめんなさい、いくら謝っても許されなかった。ねーちゃんは悪くない、突っかかったゼファまでもが折檻を受け・・・

 そして、リューゼはついにゼファを連れて家を飛び出した。ゼファは何も聞かずについて来た。

 痣だらけの顔で、同じく痣だらけのゼファの手を引いて現れたリューゼに、ダレスは何も聞かず、リューゼたちがここに住むのを許してくれた。

 ここにいてもいい人間であるために。

 リューゼはリューゼなりに必死だった。そうしてやっと勝ち得た居場所。けれど・・・

「私が・・・」

リューゼは震える声で言った。もう、ここにはいられない。

「私、が・・・」

言えない。リューゼはそれで、分かりましたと言って一人になりたいから、と部屋へと引き上げた。部屋はオリヴィアと共同である。後ろ姿を見送って、オリヴィアはほう、と小さく息をついた。


 ひたひた、ひたひた。

 後から人がついてくる気配がする。ユリシスは息をついて立ち止まり、そして振り返って言った。

「何故ついて来るのだ」

「お前が家出をするからだ」

「誰が家出だ、誰が。私はそなたの家の者ではない」

ユリシスの言葉にダレスが肩をすぼめる。

「別に家というほど大したものでもない。何、お前の行くところへ私もついて行くだけだ」

無茶を言うダレスに何っとユリシスが眉をつり上げる。

「寝ぼけたことを言うな!そなたの家は向こうだろう」

ばっとユリシスが家のある方角を指さす。

「あのような家など、もういらぬ。子どもらが欲しいというならくれてやる」

ダレスの言うことは滅茶苦茶である。はーっ。ユリシスは額に手を当て深いため息をついた。

「ダレス、ふざけている場合ではない」

「至って私は真面目だが?あれらといるよりお前の方が面白い」

「面白いとか面白くないとかそういう問題ではなかろう。そなたの子だろう、親なら親としての責任をだな・・・」

説教を始めるユリシスに、ダレスは鼻を鳴らして言った。

「別に私は親ではない」

「は?」

「親ではないと言っている。私は未婚だぞ」

「未婚でも子はできよう?」

「身に覚えがない」

ダレスの意味不明の言葉にユリシスはくらくらと目眩を感じた。身に覚えがあるとかないとか、そういう問題ではないはずである。

「酔っぱらっていたとでもいうのか。たとえそうだとしてもだな・・・」

「だから、私の子ではないと言っている」

「リューゼとゼファはそうだろうが・・・」

「全員、だ」

ダレスの思いがけない言葉にユリシスは硬直してダレスを見つめた。全員、彼の子ではない?

「お前にいらざる先入観を与えたくなかったので言わなかったのだがな・・・」

ダレスは軽くユリシスの腕を叩いて歩くよう促しながら言った。

「リューゼとゼファは、前にも話したように、妹の子だ。オリヴィアは知り合いの娘で、ちょっといろいろ家でごたごたがあったらしくてな。家出するというから、うちで預かっている。おかしなところに出入りされても面倒だからな」

「親は知っているのか」

「オリヴィアには言っていないが、放ってもおけぬので一応連絡は入れてある」

公園まで来るとダレスはベンチに腰を下ろした。つられるようにしてユリシスも隣に腰を下ろす。

「オルクとアンディは、死んだ知り合いの子でな・・・引き取り手がなく、施設に預けられることになっていたのだが、うちの方が良いというので置いたまでだ」

「よく役所が認めたな」

「あの二人が来たころは、まだ御大が生きていたからな」

「御大?」

「・・・あの家の元々の持ち主だ」

次々と明らかになる事実に、思考がついて行かない。ユリシスは呆然として話を聞いていた。何やらいろいろと複雑な事情があるらしい、とは思っていたがまさかここまで完全な寄せ集めだとは思ってもみなかった。

「ルトは?」

「ルトは、女友達の子だ。いわゆる未婚の母という奴で・・・子どもがいると働くこともできぬ、というので預かった。前は彼女の母親が面倒を見ていたのだが、他界して預け先がなくなった、というわけだ。もっとも、最近とんと顔を見ないがな」

思わぬ話にユリシスが絶句する。

「お前のような育ちのいい人間には理解しがたいことだろうが、な」

ダレスはそんなことを言って息をつき空を見上げた。

「だから、私は親ではない。リューゼは家が壊れる、と言ったが・・・もともとそのような家などありはしないのだ。まやかしにすぎぬ」

沈黙が落ちる。

「それでも・・・」

どのくらいたっただろう。じっと俯き何事か考えていたユリシスが口を開いた。

「それでも、そなた、一度は引き受けたのだろう?」

ダレスがユリシスを振り返る。

「ならば、途中で放り出すものではない。彼らは皆、各々事情は異なるとはいえ、ひとたび放り出されて来たのだろう?また、そなたまでもが彼らを裏切り放り出すというのか」

「・・・連中が勝手にいついただけだ」

「その気になれば、初めに断ることもできたはずだ。そうしなかった、ということは受け入れた、ということだろう。最後まで責任を持つべきだ」

「そう思うなら、戻って来い。お前だって一度は受け入れたのだろう?あの家にいることを」

「ちょっと待て、何故そうなる」

「受け入れたからには最後まで責任を持つべきではないのか」

「私が言ったのはそういう意味では・・・」

故意にずらされた意味に、ユリシスが戸惑った表情になる。ダレスは唇の端をわずかに上げて言った。

「お前が戻るなら私も戻る。お前の言うその『最後までの責任』とやらをお前自身が放棄して逃げ出すというのなら、私も放棄させてもらう。別に面倒を見たくて見てきたわけではない」

「無責任だぞ」

「そういうお前こそ」

「だから、私の場合は全く話が違うだろうが」

道理に則って話をしているつもりなのに、こうしてダレスと話をしていると自分の方がおかしいような気分になって来る。

 と、その時不意にダレスの携帯が鳴った。ダレスが眉を顰め、それでも一応取り出して電話口に出る。

「なんだ、オリヴィアか・・・何っ・・・ああ、・・・うん・・・それで・・・分かった」

何かまずいことが起こったらしい。ユリシスは胸騒ぎを感じながらダレスを見ていた。

「皆勝手に外へ行かぬよう、見ていてくれ。特にゼファには気をつけろ。これ以上探し人が増えてはかなわぬからな。大丈夫だ、私とユリシスで手分けして探す。ん、ああ、ユリシスがいるのだ。・・・ああ・・・ああ、分かっている。では、頼んだぞ」

ダレスは言うと電話を切り、リューゼがいなくなった、とユリシスに告げた。

「その、すまないが、探すのを手伝ってくれぬか」

「当然だろう。それで、心当たりはあるのか?」

「ほとんどない。しかし、子どもの足だ、そう遠くへは行ってはいまい。家の近くをとにかく探す他ないだろう」

「そうだな・・・しかし、まだバスが走っているからな。案外・・・」

ユリシスは、言いかけたが、ふと思いついたことがあり、ダレスに尋ねた。

「母親のところは遠いのか?」

「ん?ものすごく遠い、というわけでもないが・・・しかしいくらなんでもそこに戻ったりはしないだろう?」

「そうかもしれない。しかし、念のため探してみた方がいいだろう。場所を教えてくれ。先に私はそちらを探してみる」

ユリシスは言い、ダレスに場所を聞くと立ち上がった。


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