第一章 ユリシス、クビになる(5)
「少しもお酒が進んでいらっしゃらないわね。お口に合わないかしら?」
隣に座る女性がそう尋ねる。ユリシスは身を引き離すようにしながら、いえ、そういうわけでは、と律儀に答えた。
「あら、そんな逃げなくても」
彼女は言って笑い、ぴた、と張り付いてきた。少しユリシスが座る位置をずらして逃げる。彼女は再び張り付いて来た。
「照れちゃって、可愛い人」
「いや、だから・・・」
わずかに位置をずらすユリシス、追いかける彼女。同僚たちが気がついて面白がって笑い転げる。皆がはやし立てるものだから、ユリシスがいくら逃げても、許してもらえない。そのうちに、とうとう反対側に座ってオーナーに張り付いていた女性に当たってしまった。
「ほーら、捕まえた」
追いかけて来た女性が無理矢理ユリシスの腕を取り顔を寄せてくる。
「もう、逃げられなくてよ」
くっと一瞬ユリシスの表情が強ばる。
その辺りはさすがにプロ、というのだろう。ユリシスの心情変化を素早くつかみ取ると彼女はすっと身体を離した。
「もう、そんなに逃げなくても取って食べたりしないのに」
ころころと笑う。何とか面子をつぶすことなく、それほどつぶされることもなく過ぎてユリシスはほっと息をついた。どっと皆が笑う。
接待はユリシスが最も苦手とするところである。おべっかを使うのも、使われるのも苦手。アルコールを流し込んで騒ぎ立てるのも苦手。しかも何でもすぐ直言してしまう。とにかく半端でなく適していないので、ユリシスがこういう酒席に引きずり出されることは滅多にない。が、今日ばかりはそうは行かなかった。オーナー直々にユリシスを指名して来たのである。ダレス、即ちクラウス・シュールの本が立て続けにヒットを飛ばした、その慰労だと言われては断るに断れない。
「レディたちにそのように遊ばれているようでは、まだまだだな」
ソファに背を預け、両腕に女性を抱えたオーナーが鷹揚な口調で言う。
「経験不足という奴か?」
誰か紹介してやろうか、とそんなことを言う。ユリシスは丁重にそれを断りながら、一体この会はいつ終わるのだろうとそればかりを考えていた。
こういう席では、何も見てはならない、考えてはならない。オーナーが右手で右の女性のももを、左手で左の女性のももをなで上げるのが視界の端に入る。ユリシスが先刻ぶつかった右側の女性はまだいい。彼女はいわば本職であり、あしらいに慣れている。適当にオーナーを持ち上げながら、触らせながら、しかし一定以上には踏み込ませないよう巧妙に立ち回っている。
が、左側の女性はそうではない。
彼女は、同僚である。
オーナーお気に入りの。
しかしオーナーは彼女のお気に入りでは全くない。
これは犯罪行為だ、と心の底に思う。しかし、それを指摘するのはこの場では「不適切」な行為に当たる。合意の上だと言えば、合意の上だとも言える。上に言い含められて、彼女自身、不承不承オーナーの隣に座ることを肯んじた。隣に座ればどうなるかは、本人も分かっているはずである。だから、ユリシスが口を挟む場合ではない。
精一杯身体を強ばらせて、接触面を小さくしようとしているのが分かる。
何故このような。
苦しくなって来て、ユリシスは酔いが回ったふりをして手洗いに立った。
触ったところで減るものではなし。
人によってはそう言うだろう。彼女がそれでいいと思っているなら、ユリシスとて気にはしない。しかし、そうではないのである。
従業員はオーナーの私物ではない。けれど----
世の中には強い者と弱い者があり、理屈では割り切れないものに溢れている。ユリシスは用を足すと手を洗い、席へと戻った。あまり長く空けるといろいろ面倒なことになるのは今までで散々経験済みである。
「・・・というわけでな、ようやく奴も私の方が正しい、と認めた、というわけだよ」
オーナーが上機嫌でそんなことを言っている。左側の彼女を抱き寄せ、どうだ、すごいだろう、とでも言わんばかりの様子を見せる。
やれやれ、ユリシスが内心ため息をついて元の位置に戻ろうとした時、彼女のももをさすっていたオーナーの手が、今度はその胸元へ伸びた。襟元から差し込まれ、彼女がはっと息をのむ。
ほとんど反射的と言ってもいい行動だった。
「少々冗談が過ぎるのでは?」
後ろから回り込み、オーナーの手首をつかんで引きずり出す。
辺りは水を打ったように静まりかえった。
凍り付いたような時間の後、オーナーの少し引きつった笑い声が響いた。彼には私の高級な冗談が理解できなかったようだ、と。
それを潮にまた座に音が戻る。どこか盛り上がりを欠いたまま、そしてお開きとなった。
「困るんだよ、エデュエンシア君」
ノベル部の部長は苛々と歩き回って言った。
「もっと上手いやり方があっただろう。何も衆目の前で恥をかかせるような真似をせずとも。オーナーはカンカンだぞ」
「申し訳ありません」
ユリシスはそう詫びた。
「詫びるなら私にではなく、オーナーに謝罪することだ」
「それはお断りします。明らかに彼女は嫌がっていました。あれは犯罪です」
「彼女は気にしていないと言っている。酒の席の上でのほんの冗談だと」
部長の言葉にユリシスが軽く唇を噛む。
「とにかく、すぐ謝罪に行って来い。すぐには許してもらえんだろうが、とにかく、誠意を見せろ」
「彼女は嫌がっていました」
「君の意見など聞いていない。これは命令だ」
「不当命令です」
「何が不当命令だ!」
部長は強く机を叩いた。
「親切で言っているんだぞ」
「申し訳ありません」
「だから謝るなら私にではなく、オーナーに謝れと言っている」
「ですから、それはできないと・・・」
「できてもできなくても、だ。君はオーナーに大変な無礼を働いた。謝罪して来い」
部長の言葉に、しかしユリシスは肯んじなかった。間違っていたとは思わない。あのまま放っておいたら、どんなことになったともしれない。彼女は隣に座ることは了承したかもしれないが、あそこまで承知していたとは思えない。それが証拠に、彼女の顔はあの時真っ青に凍り付いていた。
部長は声を落とした。
「エデュエンシア君・・・私は君のことを買っている。だから言うんだ。謝れ」
「嫌です」
「嫌ではない」
はああ、部長がため息をつく。
「あのな、エデュエンシア君、オーナーは君を解雇せよと言って来ている。社長が今、それを何とか食い止めているところだ。分かるか?君は社長にまで迷惑をかけているんだ。君が平身低頭謝れば、丸く収まる」
ルパルス出版は、元は学術系が中心の出版社だった。しかし、昨今の出版不況と専門書を中心とする活字離れで、経営が立ち行かなくなってしまった。結局身売りする羽目になり、そしてやって来たのが今のオーナーである。やり手はやり手らしいのだが、とにかくやり方が荒っぽく、公私混同が激しい。
「分かりました」
ユリシスは落ち着いた声音で言った。辞表を提出します、と。
「馬鹿な!頭を下げて私が間違っていました、と謝ればすむ話だろう」
「部長・・・申し訳ありません。お気持ちはありがたいのですが、私にはそのような嘘はつけません」
「推薦状は出ないぞ」
脅すように部長が言う。次の職を見つけるのに、推薦状があるのとないのとでは全く違う。けれども、ユリシスはええ、と答えると黙って頭を下げ、部長の前を辞した。
「彼女が私の後任になる」
ユリシスは言って、隣に座る女性を紹介した。
「ヴィー・キュリアム君。私の一年後輩に当たる」
突然の交代劇にダレスは面食らったように二人の顔を見比べた。都合で仕事を変わることになったから、とユリシスは言っていたが、一昨昨日<<さきおととい>>会った時にはそんなそぶりもなかった。非常に急なことで、とユリシスはただそう説明しただけだった。
「個人的な事情で迷惑をかけて申し訳ないと思っている」
ユリシスはそう詫び、全てヴィーに詳細は説明してあるから、とそんなことを言った。
「悪いが断る」
ダレスは低く言った。ぎゅっと灰皿にたばこを押し当て、火を消す。
「断ると言われても」
戸惑った表情のユリシスにダレスはもう小説はやめようと思っている、とそう告げた。元々ずっとそう思っていた。担当がユリシスだったから続けていただけなのである。
「しかし・・・」
そなた、この間企画を一緒に立てたではないか、ユリシスが戸惑いながら言う。
「まあ、な。あれはお前があんまり熱心だから、一応話を聞いただけだ」
「馬鹿な。そなたが自分で決めたのだろう」
「お前が決めるとろくでもない話になるからな」
ダレスの言葉にユリシスの表情がくっと強ばる。
ユリシスはあまり過激な話を好まない。暴力的な話、残酷な話、残忍な話。その点では二人の意見が合ったためしがない。
「ダレス・・・」
「話は以上だ。他にないなら、帰ってくれ」
ダレスは言って話を打ち切ると、二人を追い出しにかかった。
どうねばろうともダレスの方はにべもない。二人はついにあきらめて帰って行った。
「夜分にすまない」
ユリシスが傘をたたみながらそう謝る。
「来るだろうと思った」
ダレスはタオルを投げながら言った。
「相当降っているようだな」
「ああ。台風が来るらしい」
「そうか」
ダレスは言うと軽くあごをしゃくって歩き出した。すぐにユリシスが後に続く。
「何か飲むか?」
ダレスは戸棚を開けながらそう尋ねた。
「いや、私は・・・」
ユリシスが言うが、ダレスは聞いていない。
「軽いものがいいだろう」
言いながら一本、ボトルを出してくる。それからマグを二つ引っ張り出すと机の上においた。
「それで・・・説明を聞こうか。一体どういうことだ」
ボトルの中身を注いでユリシスの方へ押しやりながらそう尋ねる。
「どこか別の出版社へ移るのか」
「いや」
「なら、どこへ移る?」
「・・・」
次の仕事のあてはまだない。カンカンに怒り狂っているオーナーは、ユリシスにそんな猶予を与える気などさらさらなく、引き継ぎが終わり次第さっさとやめさせろとそう迫っているらしい。社に迷惑をかけるのはユリシスとしても本意ではなく、明日にもやめるつもりでいる。
が、それにあたって一つ難点があった。ダレスである。目下、ダレスの作品はルパルスが独占的に扱っており、その売り上げはルパルスの中でも一、二を争う状態にある。そのダレスが抜ける、というのである、会社は一気に疑心暗鬼に陥っていた。ユリシスはダレスを連れてどこか他の出版社に再就職するつもりなのではないかと。
もとより、ユリシスとしてもそれは本意ではない。ダレスが小説家業をやめたがっているのだといくら説明しても、誰も本気にはしてくれなかった。それが意趣返しなのかと。
とりわけノベル部部長の怒りはすさまじい。お前初めからそのつもりだったのだな、と思い切りどやしつけられてしまった。そうではないといくら言っても聞いてもらえない。もしよそに移るようなら、引き抜き行為として裁判も辞さないだの何だのと言い立てられ、ユリシスはほとほと弱り果ててしまった。
いずれにせよ、この後ユリシスが出版業界に再就職しなければ、いずれ怒りも解けるだろうが、ユリシスとしては、ダレスの真意を糺しておきたかった。
巻き添えで一緒に叱られてしまったヴィーのことを思うと胸が痛む。ヴィーは何も悪くない。しかし、お前の力が足りないせいだと罵られて落ち込んでいた。
そんなこんなで、何とかダレスに翻意してもらえないか、と再びこうして尋ねてきたわけなのだけれども・・・
「まさか、まだ次の仕事が決まっていない、というのではないだろうな」
「いや、それは、その、一応・・・」
ユリシスが言いかける。ダレスはたばこの火を消し、低く言った。
「話にならんな」
また一本取り出し火をつける。ユリシスがたばこを嫌うので、ユリシスがいる時にはあまり吸わないようにして来ていたのだが、しかし、今回ばかりはあえてユリシスを追い込むことに決めていた。
「お前は嘘がつけない性質だ。すぐ顔に出る」
「いや、その、だから・・・」
「何があった」
ダレスは低く尋ねた。
「だから、一身上の都合、で・・・」
「便利な言葉だな。一身上の都合。どのようなことでも一身上の都合だといえば都合だ。たとえ事実上のクビだとしても」
ダレスの言葉にユリシスがぎくりとした様子になる。ダレスは内心密かに苦笑した。全くこれは分かりやすすぎる。少しカマをかけただけだというのに、こうも簡単に引っかかるとは。全くよくこれまで生活できていたものである。
「何があった。そうだな・・・正直に話せば、取りやめのこと、考え直してみてもいい」
ダレスの言葉にユリシスがはっと目を上げる。蒼い瞳が迷いに揺れていた。
「どうせ大した話でもないのだ、書こうと思えば適当に書いておくさ」
「大した話でないなどと・・・」
「お前だって本心では、いいと思っていないだろう」
「そのようなことは・・・」
半ば図星を指されてユリシスが少しばかり慌てた風になる。ダレスはくっと喉の奥で笑った。
「本当にお前は分かりやすい・・・まあ、事実その通りなのだから、何も隠すこともあるまい?ポルノに殺人、裏切りと破壊。そして破滅。あるのはそれだけだ。まさにジャンク、ラビッシュ<<ゴミ>>小説だ」
遠く視線を向け投げ捨てるようにダレスが言う。
「そのように言うな」
ユリシスは低く言った。
「そのように自らを貶めるな。そなたの本はよく売れる。それは、人々の心に訴えかける何かがあるからだ。でなくてはこれほども売れるものか。それを貶めるは、そのために金銭と時間を割き、読んでくれる人々をも貶めることになるのだぞ」
ユリシスの言葉に、ダレスは思わずユリシスを振り返った。
「確かに、私はそなたの書く小説に納得してはいない。流血が多すぎる、残虐に過ぎる、希望も喜びのかけらもなく、あまりに悲しすぎる。だが、だがな、ダレス、そなたの小説がゴミだとは思っていない」
「ユリシス・・・」
こんな彼だから、だから、続けてもいいと思ったのだ----ダレスはそんなことを思った。一つ仕上げるごとに、少しずつ喉を締め上げられるような感じがしていた。
自らの生み出すものが、だんだんがんじがらめに自らを縛り付けて来る。体内に滾る怒りとわけの分からぬエネルギーとを叩き付けるようにして書いた処女作。それを書いてどうしようと思ったわけでもない。ただ、そうでもしなければ、自分はとんでもないことをしてしまいそうで、それで、必死に内に荒れ狂う嵐を文字に移し込んだ。それがひょんなことから世に出ることになり----
まっぷたつに割れる評価。初めはそれを遠くせせら笑って見ていた。けれども、いつしか「期待」が身をさいなむようになり始めた。もっと過激に、もっと残酷に、もっと激しく。文字の上に人を切り刻み、世界を血の色に塗り込めた。当たれば、人は更に激しいものを求めて来る。話の中の絶望を人々は嬉々として食らう。貪欲なまでに。
身を削るようにして書き続け、そして疲れてしまった。絶望を書き続けることに。
ユリシスの温かさが、疲れ果てていたダレスにとって小さな安らぎだった。彼が来る、それ故に書き続けていた。彼が来ないのなら、それを続ける意味もない。
「ユリシス、一体何があった」
たばこを消し、真っ直ぐにそう尋ねる。
会社勤めはしたことがないが、しかし、彼のような人間が組織の中でどういう騒ぎを引き起こすかは大体見当がつく。本当に、今まで会社勤めができていたということ自体、驚異である。
「その、まあ、いわゆるセクハラ、という奴で・・・」
ユリシスの言葉にダレスの顔が険しくなる。
「何かされたのか」
「いや、私ではなくて同僚なのだが・・・」
「同僚?」
聞かれてユリシスはかいつまんで事情を話した。
「・・・で?それで辞める方を選んだ、と?」
聞く内にダレスが心底あきれた表情になる。
「まあ、そういうことになる・・・」
ユリシスはひどく居心地悪そうな様子で言った。
「分かっている、私が悪いのだ。いらざる口を出して場を凍り付かせ、謝罪せよとのアドバイスも受け入れられずに拒絶して・・・社の皆には本当に悪かったと思っている」
「馬鹿か、お前は」
ダレスはあきれたように言った。全くもって信じられない大馬鹿人間である。人のために割って入り、その助けた相手に裏切られ。謝罪すれば辞めずに済んであろうものを自分は間違っていないと頑固に拒絶して。
「第一、不当解雇だろうが」
「自分で辞表を提出したのだ、解雇には当たらない」
「なら解雇されるまで粘ればいいだろう。お前に落ち度があったわけではない」
「皆に迷惑がかかる」
「だからといってな!」
あきれてものも言えない。ダレスはぐい、とマグの中身をあおった。
「別に私には養わなければならない家族があるわけではないし、何か仕事さえ見つけることができれば、自分独り食べて行くくらいのことはできる」
「お前な・・・」
これは欲がなさすぎる。ダレスはそんなことを思った。潔癖、生真面目、無欲。今日日、天然記念物並の希少種である。ここまで来ると、会社勤め云々以前によくまあここまで生き延びて来たものだ、と妙に感心してしまう。
「分かった」
ダレスはもう何本目になるか分からないたばこを消して言った。
「なら、うちで家政婦ならぬ家政夫をやる気はないか」
「え?」
思いがけない申し出にユリシスが目を丸くする。
「どうせ次の仕事のあてもないのだろう。三食つきで、そうだな、家は借家か?」
「アパートを借りているが・・・」
「なら、空いた部屋もあることだし、住み込みで。朝と夜が忙しいからその方が都合がいいだろう」
「いや、そこまでしてもらうわけには・・・」
「何を勘違いしている?これはれっきとした契約だ。子どもの面倒という点では朝と夜の方が忙しい。通いで来てもらっても、肝心の時間が外れてしまう。そのくらいなら、住み込んでもらった方がこちらとしては都合がいい。もっともお前がどうしても住み込みは嫌だ、というなら別に通いでも構わないが・・・どうする?」
聞かれて、そういうことなら住み込みで、とユリシスは言った。
「それで、ダレス」
「うん?」
「その、小説のことなのだが・・・」
切り出したユリシスの台詞に、ダレスは思わず苦笑をもらした。おい、お前、それを聞く前にいろいろと聞いておくべきことがあるだろう。新しい仕事の報酬だとか待遇だとか。
自分のことより他人のこと。
どこまでも甘い人間である。全くもってどうしようもない馬鹿。
「分かった、当分は続ける。まあ、そのうち読者が飽きて出版社の方からもういらぬと言ってくるかもしれないが」
「それは・・・」
「そんなことよりユリシス、お前の方こそ本当に住み込み家政夫でいいのか?給料は、そうだな・・・いくらもらっていた?」
「20万ガドル」
「。。。安月給だな」
「放っておいてくれ。出版社というのはそう儲かるものではない」
「分かった、30出そう」
「ちょっと待った。それはいかになんでも高すぎる」
「そうか?安いぐらいだと思うが」
「そなたの経済観念は一体どうなっているのだ!」
今度はユリシスがあきれる番だった。
「高いのなら文句はあるまい?」
「駄目だ。ものには相場というものがある。食事付きで、部屋ももらうわけだし・・・」
「なら35」
「上げてどうするっ」
ユリシスが怒る。ダレスは思わず苦笑した。普通は雇う側がその賃金は高すぎると言い、雇われる側が安すぎると言ってもめるものなのに、何故かそれが逆になっている。
「住み込みはこちらの要望だ。まあ、すぐに逃げ出したくなるかもしれんがな。考えようによっては35でも安すぎるくらいだぞ。何しろ一日24時間勤務になるわけだから」
指摘されてユリシスがぐっとつまる。
「まあ、お前のプライバシーは一応守るよう注意はしておく。休日は・・・ないな」
「・・・・・・」
やめておけばよかったかしら、ユリシスが少しばかりそんな表情になる。くるくる変わる表情が面白い。
「何ならついでに結婚するか?」
ふざけて言った言葉に、ユリシスは危うく飲みかけていた酒を吹き出しそうになった。期待通りの反応にダレスがにやにやする。
「それは冗談として、いくらにする?」
「まあ、14、5といったところだろう」
ユリシスの言葉にダレスははーっと息をついた。こ奴、家賃と食費をさっ引いたな、と。
「分かった30だ。いいな」
有無を言わせぬ口調にユリシスがどこかまだ引っかかる様子を見せつつも気圧されて頷く。
「いつから来られる?」
「明日はまだ向こうに出なくてはならないから・・・」
「なら、明後日引っ越しだな。ルトが喜ぶだろう」
ダレスは言うとつと立ち上がった。
「今日はもう遅い。天気も悪いし、泊まって行くといい」