道連れ 2
「5年前、父が亡くなりました」
ヴァイオ氏はなにも言わなかったが、続きを促すように小さく頷いた。
「母は元々体が弱かったようで、私が物心つく頃にはもう居ませんでした。ずっと、父と屋敷の使用人たちに育てられてきました」
薄情だと思われるかもしれないが、母親がいないことを寂しく思ったことはあまりない。それほど、父や周囲の人々は愛情深く、わたしはいつも満たされていた。あの女がやって来るまでは――
「8年ほど前、私が10歳の時です、父は再婚しました。継母とは、まあそれなりに上手くやれていたと思います。彼女の連れ子たちとも。妹や弟たちはとてもかわいかった」
「へぇ」
「父が亡くなって半年もたたないうちに、継母はうちに男を連れ込むようになりました。昔からの使用人たちは次々に首を切られ、屋敷には新しい使用人たちがやってきました。継母は父の生前とはまるで別人になったかのように、私に冷たく当たりました」
自分の慣れ親しんだ家が、自分のものではなくなっていく感覚。帰るべき場所が失われていく感覚は、心臓をゆっくり握りつぶされていくような恐怖と不快感があった。私はほとんど無意識に、スカートを強く握りしめていた。
「……わたしは、家での立場を失い、次第に使用人のような扱いを受けるようになりました。よく分からない理由で手を上げられたことも、何度もあります」
そこまでほとんど一息に言い、私は言葉を切った。口の中に溜まった不快な唾を飲み込む。
ヴァイオ氏は「なるほど」とつぶやいて、残ったワインを飲んだ。空になったグラスを、手元で遊ばせる。
「古今東西、どこかで聞いたような話だ」
「ええ。そうだと思います。演劇のテーマにもならないような、ありふれたお家乗っ取りですよ」
「それで君は家を飛び出した、と」
「はい。家中泥まみれ。ひどい有様ですよ」
「……うん? 泥まみれ?」
ヴァイオ氏が怪訝げに、眉間に皺を寄せた。
私は今朝の出来事を頭の中でなぞり、苦笑交じりに事の顛末を話す。あれはまさに、私の中のコップの水が溢れた瞬間だった。
「私はいつも通り、継母に廊下の掃除を任されていました。彼女は別に、廊下を綺麗にすることが目的ではなく、なんだかんだと難癖をつけて私をいびることが目的なので、今朝もよく分からない理由で殴られました」
私は前髪を軽く上げる。三本入った赤い線は、彼女の長い爪が掻いた痕だ。それを見たヴァイオ氏は、かすかに顔を歪めた。
「いつも通りの朝です。こんなのいつものことなんです。けれど今朝は……なぜでしょう。自分でもよく分からないんですが、殴られて床に倒れた瞬間、腹の底から今まで感じたことのないような、激しい怒りを感じたんです」
あの時の私はどうかしていた。
私は立ち上がりざまに、汚れた水の入ったバケツの中身を継母に向かってぶちまけたのだ。
あぜんとする彼女を突き飛ばして、わたしは庭に出た。前日まで降り続いた雨のせいで、庭には水たまりがいくつもできていた。物置の中からバケツを持ち出し、泥水をすくい上げ、再び屋敷の中に戻って、私を探していた使用人に向かって思いっきり撒き散らした。
泣いていたような気もするし、笑っていたような気もする。奇声をあげていたような気もする。私を怒鳴りつけた継母も、羽交い締めにして止めようとしていた使用人達も、最後は化け物を見るような目で私を見て、私が何度も庭と屋敷を往復し、部屋中に泥水を撒くのを誰も止めようとはしなくなった。
屋敷のありとあらゆる場所を泥まみれにした私は、屋根裏の自室に戻り、僅かばかりのお金と洋服を小さなトランクに押し込め、悲鳴や罵声が飛び交う家を飛び出した。
列車に飛び乗って切符を買うまで、一度も振り返らなかった。
「……正直なところ、自分がなにをしたのかはっきりとは覚えていませんが、家はひどい有様だと思います。冗談ではなく帰ったら殺されるでしょう」
継母の金切り声は耳にこびり付いている。目を閉じなくとも、今帰れば自分がどうなるかは容易に想像できた。
ヴァイオ氏は私が話を終えると、「なるほど」とゆっくり頷き、唇の端をつり上げた。それは先ほどまでの紳士的なものではなく、まるで勝利を得た同志に向けるようなものだった。
「失礼したね」
「何がですか?」
「僕は君がただの、ありきたりなお家乗っ取り騒動に負けて逃げてきた哀れなご令嬢かと思っていたが」
「事実ですよ。自分がどこに向かうのかも分かっていなかった、愚かな敗走者です」
「いいや、あまり自分を卑下しすぎるものじゃない。君は戦い、しっかりと自らの手でケリをつけた」
「あれを“ケリをつけた”と評していいのかは疑問が残りますが」
「充分さ。君の継母殿は自分よりも強いものに立ち向かうような度胸はないだろう」
そんな風に褒められたものではないのだけれど、と心の中で苦笑したが、悪い気はしない。
ヴァイオ氏は鞄の中から手のひらサイズのボトルを取り出した。血のような深い赤色の液体が、黒いラベルの向こうに見える。ラベルの白い文字は、みたことのない形をしていた。
「これは僕のとっておき」
歌うように言って、ヴァイオ氏は空になった2つのグラスを引き寄せ、中身を注いだ。離れていても、アルコールの強い香りがした。その一つを私に渡し、もう一つを軽く掲げる。
「乾杯しよう」
「何にです?」
「君の勝利に」
私は思わず吹き出した。
「勝利って……こんな薄汚れてよろよろ姿の勝者なんていませんよ」
スカートを軽く持ち上げると、乾いて白く浮いた泥が足元にさらさらと落ちた。
「勝利さ。君は自らのクソったれの運命に勝った。おめでとう、何者でもなくなったジータ。今、君はたしかに汚れているけれど、これからどんな自分にだってなれる」
なぜだろう。不思議と、そんな気がしてきた。喉に刺さっていた魚の小骨が抜けたように、なんだか清々しい気分だ。
飲んだこともないお酒。正面には自らを殺し屋だという男。終着駅を知らない列車。
――うん。新しい人生の最初には、こんなのも悪くない。
わたしはヴァイオ氏にならってグラスを持ち上げた。
「乾杯」
ヴァイオ氏が言った。
「乾杯」
わたしも続く。
流し込んだお酒はさっきのワインとは比べ物にならないくらいアルコールが強くて、ずっと深い味がして、最後に少しだけ苦みが残った。ぜんぜん美味しくなくて、ちょっと笑えた。
汽笛が鳴る。窓の向こうに目を向けると、夜の海の真ん中にぽっかりと、暖かな色の灯りに彩られた島が浮かんでいた。「もうすぐ着くね」ヴァイオ氏が独り言のように言った。「楽しかったよ、ありがとう」
私はヴァイオ氏の顔を見る。彼の視線は窓の向こう、口元には緩い笑み。私も視線を窓の向こうに戻し、小さく答えた。
「私も、どうもありがとう」
***
島に唯一だという駅は、世界中のあらゆる建造物を無理やり繋ぎ合わせたような、不思議な形をしていた。改札から先はほとんど迷路で、人間の姿をした生き物だけでなく、二足歩行の獣のような生き物や形がはっきりしない生き物がひしめきあっていた。まるで突然、空想小説の中に飛び込んでしまったような……思わず頬を抓ってみたが、普通に痛かった。
そんな私を見て、ヴァイオ氏は「言っただろ。“訳あり”の島だって」と笑った。
この島に来られる方法は多くない。島には太古の魔法使いがかけた結界魔法が何重にもかけられている。君は偶然、この島へ入るための数少ない方法の一つを実行したんだ。島へ繋がる列車はだいたい3か月から半年に1本。その車両に乗ったら、ある乗務員から「一番遠くまで」と言って切符を買うんだ。多分、君がしたのはこれだろう? よかったね。
そんな彼の説明を、私は視線をあちらこちらへ向けながら聞いた。目に飛び込んでくるものすべてが新しいもので、私の脳はごうごうと音が聞こえてきそうなくらいよく動いていた。
迷路のような駅を出ると、ヴァイオ氏は私に一通の手紙をくれた。
「それを持って『ソレリア』という宿屋を訪ねるといい。この手紙を見せれば、しばらく置いてくれる」
それだけ言い残すと、こちらが礼を言うのも待たず、瞬きの間にヴァイオ氏は消えてしまった。
私は宿屋を訪ねた。
街は駅の中よりもずっと無秩序で、どこもかしこも継ぎ足し継ぎ足し作られたようなカオスだったが、『ソレリア』は少しだけ落ち着いた雰囲気の通りにある煉瓦造りの建物だった。扉の横には小さな花壇があって、淡い青の花が咲いていた。
オーナーはズックという、腕が丸太のように太い強面の男性だった。父と同じくらいの歳だろうか。彼は手紙を読むと、驚いたように手紙と私の顔を交互に見比べた後、地鳴りのような声で笑った。
「いやあ、そうか。お嬢ちゃん、君は運がいい。きっとこれからの人生、素晴らしいものになるよ!」
「……あの…しばらく置いていただけますか?」
「もちろん、さあ座りな。腹が空いているだろう。簡単なものしかないが、食べなさい。もちろん、金の心配はいらない」
そう言って、ズックさんは温かいパンとスープをくれた。ずいぶん長い間こんな食事をしていなかった。細かく刻んだ野菜が入っただけのシンプルなスープだったが、今まで食べたどんな食事よりもおいしく感じられた。私は声を上げて泣きながら、涙ごとパンもスープも飲みほした。「いい食べっぷりだ」ズックさんは笑いながら大きな手で背中を撫でてくれた。
「人間は食べたもので出来ている。お嬢ちゃんは今日生まれたも同然。たくさん食べないとな」
限界まで食べた後は、風呂とふかふかのベッドが待っていた。
ベッドに横になっても、なかなか寝付けなかった。目を閉じるたび、鼓動の音と一緒に不安がやってきた。その度、あの親切な殺し屋さんのことを思い出した。ルカ・ヴァイオさん。もう一度会えたら、ちゃんとお礼を言おう。
――かくして私は、三角島の住人になったのです。
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