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道連れ 1


 水平線の向こうに、燃えるような夕日が落ちていった。ついさっきまで赤くきらめいていた海面を、端から暗い闇が染めていく。

 海列車の窓から見える景色は、もう30分ほど変わらない。続く水平線、空。海には果てがないのだろうか。「一番遠くまで」と言って買った切符が、私をどこへ連れて行くのか知らない。示される駅名は、もうずっと前から知らないものばかりだ。私は、私がいかに狭い世界で生きていたのかを思い知った。

 窓際に肘をつき、誰もいないコンパートメントの中で、ため息をつく。今頃になって、冷静になってきてしまった。

 持ってこられたのは、身の回りの最低限のものを押し込んだ小さなトランクと、薄汚れたスカートのポケットに押し込んだわずかばかりのお金だけ。衝動的に家を飛び出したので、仕方がないのだけれど。

 夜越しの窓ガラスに映った私は、疲れ切った顔に泥はねを付けている。指で擦ると剥がれるように落ちていった。解けかかった濃茶の三つ編みは、私の心を表わすようかのように胸元にだらりと垂れ、乾いた泥でところどころ白っぽい。はあ、だめだ。結び直す気力もない。足を動かすと、ぼろぼろの靴の底がザリザリと笑うように鳴った。ふん、笑いたければ笑えばいいさ。

 もう一度ため息をついたところで、列車は駅に停まった。久しぶりの駅だ。小さな駅のホームでは、この島の住民たちが列車の客相手に商売を始めている。丁度夕食時だ。見ているだけで腹の虫が悲鳴をあげるような、おいしそうな食事たちが湯気を纏いながら、窓のすぐそこを通り過ぎていく。

 一人の女性が、すぐ近くで立ち止まった。隣のコンパートメントの客が、サンドイッチを買ったようだ。窓越しにお金と品物をやり取りしている。お腹の虫が暴れた。うらやましい。ごくりと唾を飲む。けれど、スカートの中のお金では、サンドイッチ一つも買えない。私の財産は、この小さな切符一枚になってしまったのだから。一縷も腹を満たしてはくれない切符をポケットから引っ張り出し、うらめしく眺める。サンドイッチ売りの女性は受け取った金をしまうと、こちらに向かって歩き始めた。


「買わないのかい?」


 不意にそう尋ねられ、私は座ったままの形で飛び上がった。

 勢いよく振り向くと、コンパートメントの扉を開け、一人の男性が入ってきたところだった。

 品のいい黒いスーツに、ゆったりとしたコートを羽織り、スーツと同じ色の帽子を被っている。歳は30前後だろうか。とにかく年上であることは確かだろう。「失礼」と、コートを脱いだ彼が帽子を取ると、先刻の夕日のような深紅の髪がさらりと流れた。落ちた前髪をかき上げれば、髪色とは反対に深い闇の底のような、漆黒の瞳と視線がぶつかる。


「……こんにちは」


 とりあえず、挨拶をする。

 男性はこちらが気後れするくらい整った顔に微笑みを作ると、持っていた大きなトランクを荷棚に乗せて、前の席に腰を下ろした。挨拶はない。

 彼は「ふう」と息をつくと、再び


「それで、サンドイッチは買わないのかい?」


 と笑顔のまま尋ねた。

 ……それってそんなにも気になること? 目の前にこんな風に汚れた女がいて? このままサンドイッチについて答えない限り同じことを聞かれそうな雰囲気だったので、少し悩んでから、とりあえず本当のことを言うことにした。


「お金が、あまりないので」

「そうなのか」

「ええ、恥ずかしながら」


 本当に恥ずかしながら。サンドイッチ一つ買うお金もないなんて。

 男性は少し驚いたように瞬きをしたが、私が黙っていると、小さな子供でも見るように目を細めた。

おもむろに立ち上がると、窓を開け、立ち去ろうとしていたサンドイッチ売りの女性に声をかけた。慣れた様子でサンドイッチを二つ注文し、支払いを済ませて品物を受け取ると、再び窓を閉める。

 窓が閉まるとほとんど同時に警笛が鳴り、列車がゆっくりと動き始めた。


「さて、お一ついかがですか、お嬢さん」

「え?」


 サンドイッチの包みを一つ、男性が差し出した。


「あの駅のサンドイッチはなかなか美味いよ。お嬢さんもどうかな?」

「……いえ、結構です」

「なぜ?」


 男性は怪訝そうに首を傾げた。

 なぜ、と聞きたいのはこちらである。初対面の男性が差し出したものを「わぁ、嬉しい!」なんて無邪気に受け取れるほど子供ではない。さらに言えば、彼はこの広い列車で、わざわざこのコンパートメントに入って来て、わざわざ私の前の席に座ったのだ。随分前から、この列車を下りる人はいても乗ってくる人はほとんどいない。コンパートメントはそれなりに空いているはずだ。それなのに、わざわざ、よりによってこんな風に汚れた女の、前の席に。

 知らず知らずのうちに渋い顔になっていたらしく、「そんな顔しなくたって」と男性は吹き出し、サンドイッチを引っ込めた。


「他意はないさ。当然だけど、いまの僅かな隙に毒なんて仕込めない。ただの親切」

「いえ、別に毒が入っているなんて思いませんけど」

「そう? そういうものか」

「ええ、毒だなんて物騒な。ただ単純に、初対面の、名前も知らない人からサンドイッチをもらうのはどうなのかっていう話です」

「そういうものか」

「はい、そういうものです」


 男性は納得したようなしていないような、軽いトーンの返事をして、自分の包みを開け、サンドイッチを一口食べた。こんな気まずい(そう思っているのは私だけかもしれないけれど)空気の中で、よく平然と食事ができるな、と少し感心する。

 彼は口の中のものを飲み込むと、こちらを見てわずかに目を細めた。


「ルカだ。ルカ・ヴァイオ。よろしく」


 別に名前が知りたいわけではなかったのだけれど、名乗られたならばこちらも名乗らないわけにはいかない。私は探るように、自分の名前を告げた。


「ジータです。ジータ・ブレシオ」

「ジータ。いい名前だね」

「……どうも」


 流れるように名前を褒められ、つい眉をひそめる。この軽薄な笑顔、少しキザなセリフ、ますます怪しい。

 私の疑心に気付いているのかいないのか、彼―ルカ・ヴァイオ氏は、再びサンドイッチの包みをこちらに差し出した。


「どうぞ。これで名前を知っている初対面の人、だ」

「こじつけですね」

「だが、事実さ」


 ルカ・ヴァイオ氏の話に乗るのは癪だけど、サンドイッチに罪はない。

 私は包みを受け取り、美しきサンドイッチを、宝石でも扱うかのような手つきでうやうやしく取り出した。一口。ふかふかのパンの中から瑞々しい葉とぷりぷりの卵焼きが出て来た。ほんのりスパイシーな風味のソースが最後に鼻の奥をくすぐっていく。空っぽになってしばらく経った胃が喜び、全身の細胞が震えた。


「おいしい?」


 ルカ・ヴァイオ氏がどこか勝ち誇った様な顔で聞く。


「はい。とても」

「それはよかった」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 ルカ・ヴァイオ氏は包みの中から2切れ目のサンドイッチを取り出し食べ始めた。私も貰ったひとつを食べ進める。

 ――美しい所作の人だと思った。品のある顔立ちをしているし、着ている物も上等。となれば、彼はそれなりに裕福な家の人間なのだろうか。すみませんね、こんな薄汚れた女と一緒のコンパートメントで。

 勝手に卑屈な気分になりながらサンドイッチを食べていると、一足先に食事を終えたヴァイオ氏が、ちょうど通りがかった車内販売のワゴンを呼び止めワインを買った。1本のボトルに、グラスは2つ。


「どうぞ。パンばかりでは喉が渇くだろう」

「……ありがたくいただきます」


 実のところ、ワインを飲むのは初めてだった。というか、お酒を飲むのが初めてだ。いつもの私ならこんな風に初対面の男性からお酒をもらうようなことはしないだろう。けれど、「まあいいか」と思ってしまったのは、さきほどのサンドイッチにほだされてしまったのかもしれない。

 ぎこちない乾杯の後、グラスに口を付けてさぐるように一口。渋みが強く、アルコールの匂いも強い。「美味しい!」と喜べる味ではなかったが、乾いた口は潤った。


「ところで、ジータ嬢はどこまで?」


 ヴァイオ氏はグラスを揺すり、ぐるぐると回る水面を見つめながらそう尋ねた。

 私は一瞬答えに詰まる。「うん?」とヴァイオ氏の疑問を含んだ視線がこちらに向く。


「……しゅ、終点までです」


 私は答えた。ヴァイオ氏はゆるりと口角を上げる。


「だと思ったよ」

「え?」

「僕も同じさ。久しぶりのバカンスで、“三角島”まで行く」


 私は今初めて、買った切符が『三角島』という変な名前の島に繋がっていることを知った。

 いや、それよりも


「あの、なぜ……」

「うん?」

「なぜ私が、その三角島へ行くと思ったんですか?」


 行先の話はしていないし、切符だって見せてはいない。それなのになぜ。そんな私の疑問に、ヴァイオ氏は可笑しそうに首を傾げた。


「僕には、その疑問のほうが疑問だよ」

「え?」

「三角島は“訳あり”のための島みたいなものだからね。君の姿を見ればすぐに分かる」


 ヴァイオ氏の視線が体をなぞった。

 乱れた髪に、汚れてくたびれたワンピース。着の身着のまま飛び出したみたいに少ない荷物。サンドイッチを買うことさえ躊躇するような所持金。指折り数え、ヴァイオ氏は苦笑した。「見るからに、訳ありだ」と。

 私は開いた口がふさがらない。


「付け加えるなら、君、それなりにいいところのお嬢さんだろう。そういう所作だ」と、とどめの一言まで投げ込まれ、私は打ちのめされたように座席の背に倒れた。


「見ていれば分かるくらいには、君は分かりやすいよ、ジータ嬢」

「そんな……もしかしてヴァイオ氏は探偵ですか?」

「いいや。殺し屋さ」

「ころ……」


 今度は顎が外れた。

 ころしや。その四文字を口の中で転がし、咀嚼し、飲み込んでみたけれど、私の口からは「え」という間抜けな音だけが落ちた。

 ヴァイオ氏は笑みを深めもう一度、小さな子供を相手にするように


「殺し屋だよ、僕」


 と言った。物騒な言葉と、ヴァイオ氏の穏やかな雰囲気の乖離がすさまじく、わたしはますます混乱してしまう。思わず額を押さえ、待ってほしいと手のひらを彼に向けた。


「こ、ころしや?」

「そう、殺し屋」

「あ……あの、ころしやですか?」

「どの殺し屋かは知らないけれど、そうだね。多分、ジータ嬢が言うところの殺し屋で間違いないと思うよ」


 一瞬、世界から音が消えたような錯覚に陥った。けれど汽笛の音が響き、私はすぐに現実に引き戻される。車輪と波の音。対面に座るヴァイオ氏。テーブルの上では、グラスの底に残った赤いワインが、列車に合わせてちゃぷちゃぷと揺れている。

 わたしはどんな顔をしていたのか、ヴァイオ氏はくつくつと喉を鳴らすと「すごい顔だね」と能天気に言った。


「……えっと、」


 言葉がどこにもなかった。

 彼の表情とは裏腹に、「御冗談を」なんて茶化させない雰囲気が、ヴァイオ氏にはあった。美しさと上品さで完璧に作り上げられた彼は、それゆえに、どこか底知れない。

 固まってしまった私を目の端に残しつつ、ヴァイオ氏はワインをグラスに注ぎ直した。一口飲んで、ふう、と息をつく。


「それで?」

「……え?」

「ジータ嬢、君は?」

「きみは……?」

「君は何者だい?」


 そう聞かれ、心がざわついた。

 “何者”。今、この列車のコンパートメントの中に座る私は、一体何者なのだろうか。今の自分を作り上げたものは、全てあの街に捨てて来てしまった。

すっかり夜に染まった窓の外に視線を投げると、ぽっかりと浮かんだ月が飛び込んでくる。海面には月の道ができていた。月の道を渡ると楽園に行けると、昔父に教えてもらったような気がする。

 わたしは自らを殺し屋だと名乗る男に向き直り、導かれるように口を開いた。


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