運命の赤い糸
十二歳の誕生日。
満開の桜がきれいに咲いていた今日の昼、僕は恋に落ちた。
でも、これはクラスのみんながヒソヒソ声で話すような淡く儚い初恋の話なんかじゃない。照れくさい言い方になるけど、これは運命なんだ。僕には確信がある。僕は将来あの人と結ばれるんだ。
僕は気持ちを落ち着けるため大きく深呼吸をすると、ベッドの中で再度寝返りをうった。
春の夜。あたたかくなってきたから、家族も近所の人もみんなぐっすり寝ているんだろうな。静かすぎて、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
眠れない。部屋にだれもいないくて良かった。勝手ににやけ顔になってしまうのを、必死に抑える。傍から見れば変な奴と思われるに違いない。
気がつくと僕はまたあの人の顔を思い出していた。
明日からまた学校がはじまるんだから、もう眠らなきゃ。そう思い目をギュッと閉じた僕は今日の出来事をもう一度、思い返すことにした。
昨日の夜、ある夢を見たことがすべてのはじまりだ。
それは、奇妙な夢だった。たくさんの鳥居が空にフワフワと浮いている。僕は宙に浮き、その鳥居たちをくぐるようにビュンビュンと飛び回っているのだ。
そして、不思議なことに僕はそれが夢であることを確信していた。夢だと自覚できる夢を見ている時、その内容を自在に操れる、という噂を聞いたことがある。僕は試しに目を閉じると、いつも願っていることを強く念じ、叫んだ。
「なんでもいい。とにかく、何か特別な力を持ちたい!」
目を開けると、僕は宙に浮いたまま、一つの鳥居の前にとまっていた。その鳥居は僕の願いを聞き届けたと言いたげに赤く光ると、淡い光の玉を宙に放出する。光の玉は幽霊のように僕の周りをフワフワ漂い、覚悟をきめたように急加速して僕の胸の中に飛びこんだ。
次の瞬間、凄い衝撃を感じて、僕はベッドの上で弾むように飛び跳ねた。ハッと気づくと目の前には見慣れた天井が見える。窓の外からは小鳥たちの鳴き声が聞こえてきた。
せっかくの誕生日になんて変な夢を見たんだろう。
じっとりとかいた汗を拭こうと、右手を顔に当てる。ふと、右手の小指に何か見慣れないものが見えた。
それは、赤い毛糸、だった。結び目もないのにしっかりと小指に巻き付いている。寝ている時に、母さんがいたずらしたのだろうか。この糸の先に誕生日プレゼントがおいてある、とか。
眠い目をこすりながら、糸の先を目で追ってみてギョッとした。糸はまるで実在しないかのように、部屋の壁を貫通していたのだ。思わず糸に触れようとしたが、僕の手はまるで雲をつかんだかのようにすり抜ける。
まだ夢を見ているのだろうか。ほっぺをつねろうと右手を顔に近づけた時、一階から聞きなれた母さんの声が聞こえた。
「朝ごはんできたわよー。早く降りてらっしゃい」
僕はキツネにつままれたような気分で、朝ごはんを食べに下の階に降りて行った。
台所で両親を見て、僕はまた驚いた。二人とも小指の先に一本の赤い糸が巻き付いているのだ。両親はお互い強く結びつけられているようにその糸でつながっている。
もしかして、昨日の夢の中で僕は特別な力を得たんじゃないだろうか。
運命の赤い糸。聞いたことがある。将来結ばれる男女は赤い糸でつながっているんだ。
でも、運命の赤い糸が見える力、かぁ。確かにすごい力だけど、どうせ特別な力をくれるなら漫画のヒーローみたいにもっとかっこいいのがよかったな。僕は心の中で神様に文句を言った。
「春休みだからって寝坊しちゃだめよ。さぁ、朝ごはんを食べなさい。今夜はお寿司をとってあるんだから、あまり遅くまで遊ぶんじゃないのよ」
いつもどおりの朝の風景。やはり母さんたちにはこの糸は見えてないみたいだ。
僕は食卓につくと、運ばれてきた朝ごはんを食べはじめた。
ふと、何の気なしに父さんに質問する。
「ねぇ、父さんと母さんはどこで知り合ったの?」
「なんだ、やぶからぼうに。そうか、お前も今日で十二歳だもんな。そういうのを気にする年頃になったか」
父さんは読んでいた新聞から顔を上げると、僕をからかうようにニヤリと笑った。
「そういうんじゃないよ。ただ、ちょっと気になっただけ」
父さんのからかうような言い方に少しムッとしたが、僕はそれを表情にださないよう努めて冷静に言った。
「ははは。まぁ、そう怒るな。しかし、考えてみればお前には母さんとの馴れ初めを話したことはなかったな。母さんと知り合ったのは病院だよ。ほら、母さんは父さんと結婚するまで看護師をやっていただろう。そこで知り合ったんだ。父さんはその時、バイクで事故を起こしてしまってね。生死の境をさまよっていたんだ。母さんの献身的な看護のおかげでなんとか九死に一生を得た、というわけだ」
と、ここで、さっきまで台所をちょこまか動いていた母さんもやっと食卓につき、話に加わった。
「懐かしいわねぇ。奇跡の看護、でしょ。実は、母さんの勤めていた病院では、看護師が懸命に看護した患者さんと恋に落ちるっていう話はよくあったのよ。あんまり多かったんで病院の七不思議、なんて言われていたわ」
懐かしそうに話す二人の間で、赤い糸がゆらゆらと揺れた。
その日の昼、僕は自分の赤い糸が誰につながっているか確かめに行くことにした。
せっかく特別な力を得たんだから、これを使わない手はない。自分の赤い糸を辿って大通りをのんびりと歩いていく。
あっ、あのカップル、仲良さそうに歩いているけど、赤い糸がつながってない。へぇー、ってことは結局別れちゃうのか。あっ、あそこにいるカップルはちゃんとつながってる。感心、感心。
こうやって、人の将来が見えるってのは案外楽しいものだ。街行くカップルたちを見つけては、その赤い糸をチェックする。将来は占い師にでもなろうかな。きっと大金を稼げるぞ。
と、そんなことを考えている時だった。突然、僕の赤い糸が巻き取られるようにパタパタと高速で動くと、その伸びている方向を変えた。
あっ、近いぞ。相手は逆方向に動いてるんだ。とっさに大通りの向かいにある歩道を見てみたがそれらしき人はいない。そのかわり、赤い糸は今さっきすれ違った車に向かって続いている。
あの車の中に僕が将来結ばれる相手がいるのか。なんだか緊張してきた。遠目からその車を眺めていると、近くのアパートの駐車場に入っていく。僕はドキドキしながらその車の後を追った。
アパートの門の入口に立った時、ちょうど車の主が降りてくるところだった。
隠れる必要もないのに、なぜか反射的に門の裏側に隠れてしまう。僕は大きく深呼吸をすると、左半身を門に隠しつつ、遠目からその人を見つめた。
それは、若い女性だった。若いと言っても僕よりずっと年上だ。大学生か、働きはじめの女性だろう。そして、びっくりするほど美しかった。
後ろのドアから僕と同じ年頃の女の子が出てくると思っていた僕は面食らった。その車には、その人一人しか乗っていなかったのだ。
動揺した僕は、つい、また門の裏側に隠れる。あんなに年上の女性、それもとびきり美人の女性と将来結ばれるなんて。不思議な感覚にとらわれ、しばらくボーっとしてしまう。
少し経って気を取り直した僕は、また遠目からその人を眺めた。どうやら部屋に入っていくらしく、共用廊下を一人歩いている。赤い糸はその人を指し示すように廊下の壁を貫いていた。
決まりだ。あの人が運命の相手に間違いない。と、同時になんだか恥ずかしさに似た感覚が全身を覆う。顔が真っ赤に染まっていくのが自分でもわかる。本当に美しい女の人だった。一目ぼれってこういうことを言うのかな。なんだか自分が自分じゃないみたいにフワフワしている。
僕はどうしていいか分からず、来た道に向かって走り出した。
それから、どうやって家に帰ったのか、覚えていない。ずっとあの人のことを考えてしまっていた。
誕生日のささやかなパーティも、それまでずっと欲しかったゲームのプレゼントも、なんだか夢の中の出来事のように霧がかかっている。それほど衝撃的な出来事だった。
僕は今日の出来事を思い出し終わると、枕元のデジタル式の時計へ目をやった。時刻は午前零時をまわっている。明日から学校なのに、色々考えているうちにこんなに夜更かししてしまった。本当にもう眠らなきゃ。始業式から遅刻するわけにはいかないもんな。
それに、僕がウジウジ考えていたって、あの人と結ばれることはすでに決まっていることなのだ。そう考えるとなんだか心強くて、安心できるような気がした。
翌日、目を覚まして僕は驚いた。昨日、あんなにはっきりと見えていた赤い糸が全く見えなくなってしまったのだ。
最初は自分の運命が狂って、僕の赤い糸だけがなくなったのかと思った。しかし、朝、両親の小指をまじまじと見てみても、また、通学路で道行く人々を眺めても、その人たちについているはずの赤い糸は最初から存在しなかったかのように影も形もない。
せっかく特別な力を得ることができたのに、一日限定の力だったのか。神様もケチくさいことをするものだ。僕は少しガッカリした。
学校に着き、自分の教室に入ると、同級生たちが元気にはしゃぎまわっている。最上級生になったのに全く変わらない日常の風景を見ていると、なんだか、だんだん不安な気持ちが大きくなってくる。
もしかすると、昨日の出来事は夢や幻の類だったのではないだろうか。もしかして、昨日見たあの人は存在しないんじゃないか。そう思いはじめるとなんだか昨日の出来事は全部夢だったかのような気がしてくる。
そんな不安を抱きつつ、僕は同級生たちと始業式が執り行われる体育館へと向かって行った。
一学期の始業式。
校長先生の長い長い話がやっと終わり、僕はあくびを噛み殺す。
次は新しく学校に来る先生の紹介、か。一人ずつ登場するから長いんだよなぁ。ちょっとくらい寝てしまってもバレないかな。毎年恒例の行事がはじまるのを寝ぼけまなこで見つめる。
と、一人目の先生が登場した時、僕は全身に稲妻が走ったかのような衝撃を受けた。
「あっ」
思わず、小さく声が漏れる。そこには、昨日見た例のあの人が立っていたのだ。例のあの人、つまり、その先生は今年から教師になり、三年生を受け持つことになった、とたどたどしく自己紹介した。
やっぱり昨日の出来事は夢なんかじゃなかったんだ。昨日のあの人が新任の先生だなんて、偶然にしちゃ出来過ぎてるもんな。きっとこの一年で僕と先生の間に何かあるに違いない。
様々な妄想が頭の中を駆け巡る。もしかすると、あの先生が僕のことを意識するのは今日かもしれないのだ。そう思うとドキドキがとまらなくて他の先生の自己紹介なんて全然耳に入ってこなかった。
そんな僕の期待とは裏腹に、始業式の日、その先生と知り合いになることはできなかった。いや、その日知り合いになれなかっただけじゃない。気付けば、最上級生になってもうすでに数週間が経ってしまった。
その間、僕も何度か先生に話しかけようとはしたのだ。しかし、先生の担当は三年生。学年の違う僕が先生に話しかけるチャンスなんて全然巡ってこなかった。
この一年の間に絶対に何かが起こる、というのは間違いないはずなのに。僕はやきもきしながら先生と知り合う運命の日を待っていた。
そんなある日のことである。同級生たちと昼休みに鬼ごっこをしていた時のこと。僕は同級生の一人を追って学校の廊下を走り回っていた。よし、もう少しで手が届く。あともうちょっとで鬼交代だ。
と、同級生に手を伸ばしかけたちょうどその時、僕が待ち望んでいた、あの声が廊下にこだまする。
「こらっ。廊下を走っちゃだめでしょう」
あっ、この声はもしかして。僕の体は金縛りにあったように硬直する。
同級生はチャンスとばかりに僕の手をするりとかわすと一目散に逃げていった。僕は同級生を追おうともせずに、声のした方向を振り返る。やっぱりだ。そこには例の先生が立っていた。
「あ、あの、す、すいません」
「何年生なの?」
先生は僕に近づいて僕の名札を確認する。
「六年生じゃない。最上級生にもなって、廊下を走るなんて。危ないでしょう」
「そ、その、ごめんなさい」
だめだ、緊張して先生の顔を見ることができない。顔が真っ赤になっているのが自分でもよく分かった。
「もう、話をする時はちゃんと相手の顔をみなさい。あなたは先生の足と会話をしているの?」
「い、いや、そういうわけでは……」
こんな出会い方をするなんて、まったく予想してなかった。妄想の中ではもっとロマンチックな出会いをしていたのになぁ。なんだかかっこ悪くて、自分が情けなくなってくる。
「全く、あなたは最上級生なんだから、下級生のお手本にならないと。遊んじゃだめって言ってるんじゃないのよ。でも、他の人の迷惑になるようなことはしてはいけません。最上級生らしく下級生の子と遊んであげるとか、図書室で本を読むとか、お昼休みはそういう風に使うものよ」
先生の言葉にハッとする。かっこ悪い出会いだったけど、やっぱり今日が先生と知り合う運命の日だったんだ。お説教を受けながら、僕の頭の中に先生と仲良くなるための一つの案が浮かんだ。
「あ、あの、じゃあ、たまに先生のクラスに行って遊んでもいいですか?」
突然こんなことを言われて驚いたのか、先生は一拍間を置く。しかし、すぐに笑みが混じった声でこう言った。
「そうね。それでこそ最上級生よ。男の子なんだから年下の子や女の子を守ってあげないといけないわ。ほら、ちゃんと顔をあげなさい」
上手くいった。僕は内心ホッとした。安心した僕は、うつむいた顔を少しだけあげる。
「もう、今度は先生のお腹と話すつもりなの?」
先生はあきれたように声を出して笑った。その笑い声を聞きながら僕は心にこう誓う。
下級生だけじゃないさ、将来は運命の人を守ってあげる男になるんだ、と。そして、きっとそうなる、という予感めいた確信もあった。
それから一学期が終わるまで、僕はちょくちょく先生の教室に遊びに行った。結果として、先生と話す機会も飛躍的に増えた。
最初の方こそ照れてしまい上手く話せなかったが、他の先生と比べ年齢が近いということもあり、すぐに仲良くなることができた。
しかし、それはあくまで先生と生徒の関係の上で、ということだ。どうにも恋愛に発展するような感じはしない。もしかしたら、卒業した後に再会するのかもしれない。つまり、この一年は将来の関係のための土台作りなのかも。まぁ、いずれにしても、将来何か恋愛関係に発展するような大きなきっかけがあるはずだ。
そんなことを思いながら先生との楽しい日々を過ごしているうちに、あっという間に一学期は終わり、夏休みに入った。夏休みの間はもちろん先生に会うことはできない。また先生と会うことを待ち焦がれながら、僕は小学生最後の夏休みを送った。
そして、待ちに待った二学期がはじまった。
これで先生の教室にまた通うことができる。そう思い、僕は早速、最初の昼休みに先生の教室の前まで行った。しかし、ドアの前まで来て、なんだか照れくさいような感覚に襲われた。人間というものは、よく通っていた場所にしばらく行かないでおくと、再度行くとき少し勇気がいるらしい。
僕もご多分に漏れずドアを開けて教室に入るのをためらってしまう。久しぶりに会って、僕は最初になんて声をかけたらいいんだろう。僕の十二年の経験では、その一言が思い浮かばない。
ええい、入ってみれば何とでもなるさ。と、ドアに手をかけようとするのだが、どうしても二の足を踏んでしまう。
結局、その日は昼休みが終わるまで先生の教室に入ることができなかった。
自分の教室に帰る時、僕の頭は、都合の良い言い訳で埋め尽くされていた。僕が将来先生と結ばれることは決まっているんだ。自分で積極的に先生と仲良くなりに行く必要なんてないじゃないか。また、気長に運命の日を待てばいいのさ。
先生と一度仲良くなったことで確信を深めていた僕は、また運命の日を待つことにした。
二学期がはじまってから二カ月経った時、つまり、先生と会わなくなってから三カ月半たった時、その日は突然やって来た。
その日、日直をしていた僕は放課後に学級日誌を担任に提出するため職員室を訪れた。
普段、入り慣れてない職員室の中はなんだか非日常の風景みたいで不思議な感覚がする。僕は担任に日誌を提出すると、この非日常の世界から普段の世界へと帰ろうとする。その時、僕の耳に、慌てた教頭先生の声が聞こえてきた。
「そうですか。それでは、そうとう危ないんですね。分かりました。すぐに病院の方へ向かいます」
誰かが怪我でもしたのだろうか。少し興味を覚えた僕は、教頭先生の前を歩くスピードを少し抑える。
すると、僕の耳に衝撃的な一言が聞こえてきた。僕の、運命の、あの、先生が、危篤? そんなはずはない。あの先生は僕と将来結ばれるのだ。こんなところで亡くなるはずがない。
と、すれば、だ。もしかしたら、これが先生との仲が恋愛関係にまで発展する、そのきっかけかもしれない。
僕の脳裏に、両親の馴れ初めの話がよぎる。懸命に看病した人に恋するのはよくあること。それは病院の七不思議と呼ばれている。
僕はいてもたってもいられず、電話を置いた教頭先生の前へ行くと、必死に頭を下げる。
「あの、先生が危篤って本当ですか? お願いします。僕も連れていって下さい。先生が心配なんです」
最初は、ダメだ、と言っていた教頭先生も、僕の熱意に折れたのか、しぶしぶ僕のお願いを受け入れた。
最初に病室に着いたとき、先生はベッドの中で眠っている、ように見えた。
となりで一人の男性がうなだれながら座っている。この男の人は誰だろう。先生のお兄さんとか、かな。教頭はその男の人に声をかける。
「あの、私は小学校で教頭をやっている者ですが……」
男は教頭の方を向き、力なく答える。
「あぁ、では彼女の職場の。そうですか」
今にも泣きだしそうな声だった。なんだか雰囲気が重苦しくて、僕は何も言葉を発することができない。なんなんだろう、この雰囲気は。これじゃあ、まるで。いや、そんなはずはない。僕は自分の頭に浮かんでくる最悪の考えを必死に否定した。男は僕の方を見ると教頭先生に向かって尋ねる。
「えっと、その子は?」
「あぁ、彼は彼女の生徒の一人ですよ。先生が心配で、どうしても様子が見たいと言ってきかないものですから」
「あぁ、そうですか」
その男は僕の方に目を向けると、力なく笑顔を作った。
「きみの先生は最後まで頑張ったんだよ。僕は彼女と結婚できたことを誇りに思う。最期にかけがえのない宝物を僕に残してくれたんだ」
えっ、この人は何を言ってるんだろう。先生は将来、僕と結ばれるんだ。これは運命なんだ。結婚って、どういうことだ。それに、そんな言い方では、まるで先生が亡くなったみたいじゃないか。僕は軽くパニックになった。
「せ、先生はどうなったんですか」
時計の音が大きく聞こえるその部屋で、男は力なく首をふった。
その病室の静寂をやぶったのは、病院の医師たちだった。頭が真っ白になって何も考えられなくなっていた僕は、突然の物音にハッとする。医師たちは男の前に立つと、まるで喜ばしい知らせを持ってきた、というように胸を張ってこう言った。
「産まれたお子さんはなんとか命をとりとめました。もう、安心ですよ」
「そうですか。ありがとうございます」
やっと笑顔を見せた男を見つめながら、僕は何が起きているのか必死に頭の中を整理していた。
医師たちは続ける。
「お子さんのお顔、見に行かれますか?」
「はい、お願いします」
男はすっくと立ちあがると、教頭先生の方を向き、軽く頭を下げる。
「それでは、私は失礼します」
教頭先生も黙って男にお辞儀を返した。
「あ、あの、産まれた子供って、先生の子供ってこと、ですか」
やっと状況が飲みこめてきた僕の口から出たのは、思いもよらない言葉だった。
「あの、僕も見に行っていいですか」
先生の子供は可愛らしい女の子だった。なんだか顔立ちも先生に似ているような気がする。
ふと、先生の言葉を思い出す。
「男の子なんだから年下の子や女の子を守ってあげないといけないわ」
僕は赤ちゃんから目を離さずに、となりにいる男に声をかける。
「あの、僕、たまに遊びに行ってもいいですか」
「あぁ、そうだね。この子も母親がいなくてさみしいだろうから、そうしてくれると助かるよ」
男の声からはその男が嬉しいのか、悲しいのか、判断できなかった。
その子を見つめながら僕は心にこう誓う。
先生の代わりにこの子を一生かけて守ってみせる、と。そして、きっとそうなる、という予感めいた確信もあった。