なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?についての私の解答
哲学の第一の問いとも言われてるこの問題。
無限退行まで生み出したこの問題に私の視点を加えてみます。
その前にこの問題に取り組んだ哲学者達の見解を先に取り上げます。
まず初めに私の師匠こと。ゴットフリート・ライプニッツさんです。
彼はこの哲学の第一人者と言ってもいいです。
神は必然的に存在する。だからこの世界はありうるというのが彼の見解みたいです。
次にイマヌエル・カントさん。
この問題についてライプニッツさんを批判した人物です。
この問題は理性では取り扱えない。が彼の見解みたい……。
次にアルトゥル・ショーペンハウアーさん。
”意志と表象としての世界”を執筆したドイツの哲学者さん。
なぜとは問えない。つまりなぜこの世界が存在するかは問うことは出来ないが、彼の見解みたいです。
次にアンリ・ベルクソンさん。
19、20世紀を生きたフランスの哲学者さん。
無いは無いという見解には私は驚かされました。
次にマルティン・ハイデッガーさん。
こちらも19、20世紀を生きたドイツの哲学者。
存在の問題こそ最も重要であるとして、この問題を反復した。
次にルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインさん。
オーストラリアの哲学者さん。
この問題を語るべきではないと捉えた。
次にロバート・ノージックさん。
アメリカの哲学者さん。
この問題は分からないけど挑戦するというのに私は好印象。
他にもこの問題に取り組んだ哲学者さんはいたのかもしれませんが、主に取り組んだのは上記の哲学者さんたちです。
さて、ここから私の見解に移ります。
この世界の存在理由。それは法則。
神が法則を利用してこの世界を作ったと私は考えます。
じゃあその法則とは何ぞやって話になりますが、一つ言えることは法則は最初から存在していたということ。で、神と法則の関係。法則が神を作ったとも言えますが、私の解釈では法則に人格性はない。つまり何かを作ることはない。だとしたら神は自然発生したと考えるのが自然です。しかし、それも法則によってそうなったのではという意見も出そうですね。だとしたらこう考えましょう。自然発生と法則は違うもの。相容れないものとして捉えるべきです。
で、そう考えると最初から法則があるのだから、無は存在しないなとなりそうですが、そうとも限りません。私は消滅も何もない世界も存在すると考えます。人間は寝ている時何も感じません。つまり寝ている時は無の世界を体感していると言えます。でもここで矛盾が生じます。「君の論理なら有なはずなのに、なぜ無の世界があるというのかね?」と。
そこで、私は独自の見解を主張します。”矛盾は真理”という見解です。
私は今まで考えてきて、こういう矛盾に何度もぶち当たりました。そうなるたびに考えることが嫌になり、「なぜ分からないのだろう?」とずっと思ってきました。ですが、矛盾が真理と考えれば、全てが丸く収まります。でその理論から行くと、有の世界も無の世界もどっちも存在しうると言えるのです。
さて、本題に戻りましょうか。なぜ何もないのではなく何かがあるのか?
結論はこうです。
何もない世界もあるし、何かある世界もある。
で、ある世界は神が法則を利用し、作ったと。
私のこの結論が皆さまの知的好奇心を埋めてくれたのなら幸いです。
もうちょっと話を続けます。
無限後退について、法則のことを考えると始まりはないとも言えます。法則は最初からあり、ある意味ではそれを始まりと捉えることも出来ます。つまり法則が最初からあると捉えればこの問題も解決するわけです。法則もこの世界の真理です。で、その法則はどこから来たの? と問う人に言いたいのですが、私は法則を始まりだとも捉えてません。神が始まりです。でこの世界の始まりは神が法則を利用して作ったところからです。
仮にその法則まで無限後退しようとするなら、この世界の存在意義まで問われてしまうことになります。
この世界の存在意義は神と法則が持たせたと考えてもいいでしょうね。神と法則がなければこの世界の存在自体ありえなかったというわけです。
私の主張は以上です。
欠陥があれば、コメント欄で受け付けます。




