なぜ私は両方の論理を取るか?
運命決定未確定論のように全ては決まっていて、決まっていない。私はそう主張します。しかし、論理的に考えてそれはおかしいと思われることも事実です。論理的に見るなら、決まっているなら決まっていて、決まっていないなら決まっていない。そう見るのが自然です。
ですが、全ては決まっていて、決まっていないを論理的に説明出来るのは可能ではないか? 私が今からそれをしてみます。もし、運命が決まっているものなら、人間の努力など無意味なものとなってしまう。だけど、決まっていない。努力で何でも出来るとすると、全部自分で出来る。つまり神の要素を省いてしまう。
決まっていて、そこに向かい神の力を借りながら努力する。それがベストな道ではないかと思うのです。決っているけど努力するのです。最後は皆幸せになることは決っている。ですが、そこまでの努力を怠ると幸せの道へは至らない。「幸せになることが決まっているなら、努力しなくてもそうなれるのでしょう? だって決まっているから」地上の人間の論理だとそういうことになります。
私はまだこの論理の入口にしか入れてません。しかし、この論理の入口にすら入れてる人が地上の人でどれくらいいるでしょうか? たぶん少ないでしょう。だから理解されないのです。論理がおかしいで片付くのです。
これだけの内容で論理的に説明したことにはならないか? ならないと見る人もいるかもしれません。神ならもっと楽にこのことに関して説明できるでしょう。今の私の頭脳ではここまでが限界です。ですが、私の頭脳は進歩します。進歩した頭脳ならより一層詳しい説明が可能になるかもしれません。
前の私はこんな考えにはならなかったのです。ある意味、決まっていると思っていました。運命なんて才能だと。幸せになる人は幸せになって、幸せにならない人は幸せにならない。私は幸せにならない側なんだと。
ですが、今の私は違います。神の力を借りつつ、努力してるのです。最善の手段を用いているのです。だから幸せなのです。
皆さんも私の言ったことを参考にして頑張ってみてください。必ず幸せになりますから。