全ては決まっていて、決まっていない
全ては決まっていて、決まっていない。まずはこれを名付けてみようと思う。
”運命決定未確定論”うーん。まあこんな感じでいいかな。後でいい名前があれば変えよう。
アージ―ヴィカ教の設立者マッカリ・ゴーサーラは運命は予め決まっている(運命決定論)と主張しました。それに対して、釈迦とマハーヴィーラは運命は業を落とす努力によって決まるとしました。
私はそのどちらとも正しいという立場をとります。
運命決定未確定論。全ては決まっていて、決まっていない。これだけ見ると意味不明なわけですが、それが真理です。全ては決まっていて、決まっていないはコントゥルー(コントゥルーは私が考えた言葉で矛盾が真理だという思想のこと)だと言えます。人間には自由意志があります。その自由意志の行為は決まっていません。自由です。ですが、神は人間が自由意志でどういう行動をするか全てご存じです。神の目から見れば、人間の自由意志は決まっている要素なのです。
人間から見ると決まっていなくて、神から見ると決まっている。そういう意味で全ては決まっていて、決まっていない。運命決定未確定論だということです。
人間が最後に幸福になることも決まっています。しかし、自由意志を行使してそこまで努力することがなければ、最後に幸福になる決定的な事実でさえ、薄くなってしまう。
決まっているからと言って、何もしなくていいというわけではないのです。
運命決定未確定論。難しい要素ですけど、極限まで真理を極めたものには理解出来る内容です。
結論、努力をし続ければ、最後は必ず幸福になることは決まっているということなのです