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常しえの夕空

作者: 穂踏日和

 私は経験してしまった者の義務としてこれを残す選択をした。この決断に至るまでどれほど自問を繰り返したのかは計り知れず、意識がある内は当然として、無意識下でさえこれに束縛されていた。これは日が経つにつれ記憶から遠ざかるどころか克明に私を蝕んでいった。おかげで今も視界のきかない暗闇、葉が踏まれる音、集団の話声をこの身に感じるだけで肌が粟立つ。以前から私は一人でいる時間を多く望んだが、より一層その癖が強くなったのは言うまでもない。それでもまだ私は私自身を完全には取り戻すことはできないでいるのだ。もしかしたらこの先、私が平穏を取り戻す事など不可能なのではないか。そう未来に怯え今も手を震わせながらこう綴る叫びを私は信じてほしいのか?違う、文章という形で消化できるのならば、と必死に生きようと足掻く焼けたアスファルトに這い出た蚯蚓の様に体を捩らせているのだ。人がどう思おうと1ヵ月前に起きた災いを、私の気が確かなうちに私を証人とした事実を記しておく。




 9月、私は祖父に呼ばれ彼の出身地である山間の村に足を運んでいた。現在私が住んでいる土地からは車で2時間半かかる場所に祖父の家はある。行く道中は車窓から見える景色をラジオから流れる音楽とともに楽しんでいた。間に一回の休憩をはさみ、祖父の家に着くと彼はにこやかに出迎えてくれた。小さなスーパーと郵便局くらいしか金銭の使い道のなさそうなこの村で彼は畑と田圃を手入れしながら一人で生活している。

 軽い挨拶を終えると祖父は村のお地蔵さまにお参りしてこいと私に言った。親戚等の血縁関係にある者の家へ上がった際に仏壇に手を合わせる風習はそう珍しくないものと認知されているが、ここではその風習の代わりに村の中央付近にある地蔵に手を合わせる。

 分かった。と返事をして私は祖父の家に車を置かせてもらい、徒歩でその地蔵のある場所へ向かった。歩き始めて15分程経った頃その場所は見えてきた。道の途中に建てられた小屋へ地蔵は祀られている。簡素な扉を開け、私は手を合わせた。数秒そうした後に改めて地蔵の姿を見る。どこにでもある地蔵のようだが、この村の人々は深く信仰の対象としている。その表れとでもいうべきなのか地蔵の足元には真新しい菓子や、包装された果物が置かれていた。そっと扉を閉め、私は来た道を戻る。


 前に祖父と会った時私が、地蔵はどんなご利益をもたらしたのか質問したところ彼は少し考える顔になった後にこう答えた。

「この村のお地蔵さんはなぁ、こう何かご利益をくださるのとはちょっと違うんだな。なんというかその、ある種の指標とか、道しるべになってくれている存在なんだ。」

 一つの信仰により、村の人間が穏やかに暮らせている。細やかな心の拠り所としての存在。この信仰は緩やかな秩序としてこの村に人同士の結びつきを与えているのかもしれない。しかし、その結びつきも年々弱くならざるを得ないらしい。例外なく若者は次々と村の外へ行き、昔から村にいた人は少しずつ少なくなっているという。今では村に子供さえ一人もいないらしい。私も、外に出た者の一人だ。それでも祖父や村民は優しく接してくれた。この地を訪れてくれるだけでも彼らにとっては充分に嬉しいのだろう。


 祖父の家に着くと彼は何やら準備をしていた。どうやら、きのこを取ってくるつもりらしい。以前に同行した時、場所や取り方は教わっていたので私一人で取ってきてみると進言した。祖父は心配したが大丈夫だと言ったら、道に迷わないように気をつけろよと言って車を出す私を見送ってくれた。

 10分程走らせると以前きのこ取りをした記憶にある場所に到達した。適当な場所に車を止め、鍵をしてから早速探してみる。木の陰や落ち葉の下などをよく探して見ると見覚えのある笠が目に入った。


 しばらく没頭し、どれくらい取り続けただろう。向かい風に吹かれふと顔を上げる。手元のかごには二人で食べるのには十分な量の収穫があった。来た道よりも奥に来てしまったみたいだ。再び向かい風に吹かれる。風上に目をやると少し先に黒いものが見えた。動く様子はなく、どうやら生き物ではないらしい。近づいてみるとそれは、真っ黒い祠だった。手入れなど全くされていないようだが塗装だけはしっかりされたらしく、森の中ではこの異様なほどの黒がよく映える。祠に付けられた扉は今にも開きそうだ。指で摘まむ様にして開くと、中には何も置かれていない皿が一枚あるだけだった。その瞬間また強い風が起きた。顔を腕で覆う。道草をくうのはこれくらいにしよう。私は来た道を戻った。追い風が心地よかった。


 正確に来た道を戻ったはずだった。それなのにあるべき場所に私の車はない。辺りを何度もよく探したがそれらしい物は何一つなく動物すらも見かける事はなかった。もっと下の方だったか。そう山を下って行くうちに山の入り口まで来ていた。これ以上探しても見つからない気がした。日は傾きもう夕刻の空色だ。歩いて帰り、祖父の車で山まで来てもらい、もう一度一緒に探してもらおう。

 疲労に纏わり付かれた足を動かしながら村を歩く。しかし、いくら歩こうとも祖父の家へは一向に辿り着かない。目に映るのは見覚えのない家ばかりだった。どれも人のいる気配がなく、そもそも村に入ってから人を見ていない。この辺りに違う村は存在しない。他のところに来てしまったということもあるはずがなかった。額を汗が流れる。心臓の脈が嫌に加速していく。おかしい、おかしい、おかしい。


 ふと前を見た。道の先に人影が見える。私は安堵の溜め息をつき、足早に近づいて行く。それは少年の後姿だった。短髪で真っ赤なTシャツを身に着けていた。後ろから声を掛ける。振り返った彼を見て私は息をのんだ。彼の眼は真っ赤に充血し、血が滲み出そうな程だったのだ。一瞬身を固くした私に少年は笑いかけた。そして、何かはっきりとは聞き取れないような曖昧な声を発した。声の大きさではなく、発音された言葉が全く分からなかった。少年は一度言葉を発した後、嬉しそうにもう一度その言葉を発した。それでも私は分からなかった。

「申し訳ない。君がなんて言っているのか分からないんだ。もし君が私の話を理解できるのなら、少し聞きたいことがある。」

 少年は赤い眼でじっと私を見ていた。そして声を出した。表情を変えずに。

「あえおう」

 私が聞こえなかったと思ったのか私の方に近づき、もう一度はっきりと声を出した。あえおう、と。

 誰か他の人に会えということなのか。それなら彼の案内に従おう。彼は歩き出した。私はその後ろに続く。少し歩くと小屋が見えた。あれは、村の地蔵が祀られている小屋だ。どうやら私は迷ってはいなかったらしい。来た道にあった、見覚えのない家々もただの勘違いだったようだ。

 私は小屋の前で立ち止まり、扉を開けた。その瞬間、中から腐敗臭と共に羽虫が飛び出してきた。腕で口と鼻を覆う。山に行く前はあった真新しい菓子も包装された果物もそこには無かった。原型を留めていない供え物が虫に集られていた。地蔵を見ると苦痛の表情を浮かべていた。苦しそうな目に気圧されあとずさる。地蔵の手は私の知る形ではなかった。その手は私が歩いて来た道の方向を指差していた。

 ここにいてはいけない。

 私が来た道を戻ろうとした時、少年は私の腕を強く握りしめていた。その手は焼けるように熱く、細い体からは想像できない力だった。必死に振りほどき、私は走った。追う足音は聞こえない。今のうちに少しでも遠くへ逃げなければ。


 家々を過ぎ、村を出て、山の入り口にさしかかる。見上げた深紅の空はあの少年の眼を思わせた。そして山に入った途端、木々の葉によって日の光は殆ど遮られた。山の中は外の夕焼けが嘘のような闇で満たされていた。目の前はおろか足元すら見えない。それでも歩き続けるしかなかった。前方の木にぶつからないよう手を前に出して慎重に直進する。

 後方で話し声がした。足を止め、振り返る。遠くに、赤い、小さな点の様な光が無数に見える。その光は人の目の高さくらいで、何かを探すように、上下左右に動いていた。集団の足音、話し声は確実に私へ近づいてきている。漏れそうになる嗚咽を抑えながら足音を可能な限り殺し、歩いた。手が震え、頬を流れる水滴はもう汗か涙か分からない。

 前に出していた手が何かに当たった。塗装された物の手触り。これは、間違いない、あの黒い祠だ。祠の扉は開いていた。私は祈るようにその扉を閉めた。




 気が付いた時に私は村の小さな病院のベッドで寝かされていた。椅子に座った祖父が心配そうに私を見ていた。祖父の話によると、私の帰りが遅く心配になり車を出して山に行き私の車を見つけた。そして辺りを探したところ、私が倒れていたらしい。急ぎ私を病院まで運んでくれて、その時はかなり苦労をかけてしまった。体に異常はなく食欲もあるということで私はその日のうちに退院した。ただ、赤い眼の少年から握られた方の腕を捲ってみるとそこにはくっきりと手形が残っていた。


 祖父にはとても感謝している。私はこの上なく幸運な存在だったといえよう。こうして回想を巡らせることで気持ちはとても安らかになった。だからこそ今は理解できる。あの少年が私にいったい何を伝えたかったのかを。ああまでして何故私を引き留めたのかを。彼は最初、私にあの世界で生きるための名前をくれたのだ。ここに書き記すことのできない、あの世界でのみ使うことができる名前。それを理解できずに私は、私の言葉で少年に質問をしたのだ。私の使った言葉がどういう言葉だったのかきっと少年はあの時思い出そうとしたのだろう。そして私に言ったのだ。「帰ろう」と。

 私は行かなければならない。あの黒い祠の扉を開け、彼に、彼らに再開しなければならない。あの変わることのない深紅の空が、静かな村が、少年の眼が私を呼んでいる。

 急がなければ、私の気が確かなうちに。


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