劇的なことはなにもなく
谷を越えるために用意された十メートルほどの鉄橋。橋の下の流れは緩やかだけど深い淵が広がっている。見慣れた光景だ。
確かもう少し山の奥に入れば滝があったはずだ。もっとも最近はここに近づくのは私ぐらいだ。少し前なら未来を慕っていた子が何人か来ていたが、私に見られるのが嫌なのか最近はやってこない。
それでいい。死は恐ろしいものだ。そんなものを身近に感じる必要はない。
それこそ私みたいに生きてる理由を求めたくなってしまう。何のために生きてるのか。生きる必要がないなんてくだらないことを意識してしまう。
橋のわきの斜面が少しだけ踏み固められ、谷に降りられるようになっている。そこを下り水辺近くの大きな岩の上で靴と靴下を脱ぎ、素足を水につける。川の水はひんやりしていて気持ちいい。
河童でもいて、水に引き込んで私を殺してくれればそいつのことを恨めるのだけど、水奥には何もいない。日差しが傾いたからか、川の一部だけに日が当たってギラギラ光っている。
多分これも感情を持て余しているって言うんだろうな。未来のことばかり考えて、それしか見えてない。
バシャとわざとらしく水面を叩く。波紋が浮かび、消えていく。たとえばこのまま落ちてしまえば私は死ねるだろうか。いや無理だ。そのつもりなら最初から橋から落ちている。それにしても高い位置とはいえ水面も深い。岩にも当たっていないし、そんな簡単に死ぬものなのだろうか。
いや考えすぎだ。彼女が落ちた時は水温も冷たかったし、打ち所が悪かった。何より彼女が死んだことをみんな知っているじゃないか。
疑ってしまう。それは私のあの日の記憶が混乱しているから。だからこそ疑える。あの日、誰が救急車を呼んだのか。私だと思っていたけど、本当は違ったのではないか。疑念を抱いてしまう一番の理由は結局、未来は自分から死ぬような人間じゃなかったから。
「なにしてるんですか!」
考え事をしていると橋の上から怒鳴り声が聞こえた。そちらを見ると涼しそうなワンピース姿の愛真がこちらを見ていた。
私はあいさつ代わりに片手をあげて、水面から足を上げた。鞄からタオルを出して、足を拭き靴を履きなおす。じっと見てくる愛真に悪いので、急いで橋の上まで移動する。
「どうしたの?」
「どうしたじゃないです!なにしてたんですか!」
「考え事かな」
場所が場所で相手が相手なので、申し訳ない気分になってしまう。
「本気で言ってるんですか?」
心配するような目は消え失せ、能面のような表情で尋ねられた。失望しているような、絶望しているような悲しそうな眼をしていた。
「冗談で言ってどうするの」
私は平静を装って肩をすくめてみせた。
「お姉ちゃんは死んだんですよ。あの何でもできて、みんなから好かれていたお姉ちゃんが死んだんですよ」
淡々と彼女は口にするが、私の心には響かない。
「どうしてあなたはそんな風に生きていけるんですか?お姉ちゃんのことどう思っていたんですか?」
彼女は何が言いたいのだろう。言い返すことも忘れて、暗い目と目が合う。未来の目とは全然違う。曇っていて、光を感じないそんな目。
「あなたがお姉ちゃんを殺したんじゃないんですか!」
彼女は言い切ると私の肩をポンと押した。当然私の体は重力にひかれる。
私も死ぬのかな。だったらそれでもいい。そこで未来にでも聞いてみよう。あなたがどうして死んだのか。
「死ぬも殺すも変わらないよ。命を奪うんだから。そういう目は絶望しているか人間として死んでるだよ。ただ違うのは希望に向かう死かな。私死ぬなら心中が良いなぁ。一番確かに愛を感じられるんだもの」
あぁ未来はそんなことを言ってたな。お得意の妙に説得力のある話。
だったらそうだね。自分のことを信じてみよう。賭けてみよう。
一瞬のことだけどその決意だけはした。やってくる衝撃に覚悟だけして私は目を閉じた。
破裂するような水音、強い衝撃。右肩から落ちたのかすごく痛いけど、そのおかげでここが水の中であることを自覚できる。息苦しさから逃れるように腕を振る。
私の意識ははっきりしている。ただ今は上へ。体が重いとか知らない。場所をイメージして光がまぶしい頬を目指す。
「プハッ」
目にやけに眩しい光が当たる。さっきまで見ていた気の隙間から漏れていた光だ。
痛い。体が痛い。なんとか岩にしがみつき落ち着こうとする。精神はまともだ。どうやら生きているようだ。というかやっぱり死ぬような高さじゃない。私の場合は山肌に近くて、ぶつかっていたらヤバかったけど、橋の中央からなら簡単には死ねない。そういえば死因とか聞いてなかった。あの時は寒かったから、心臓麻痺でも起こしたのかな。それにしては変だ。私はこの降り口のことを知っていた。
やけに早く到着した救急車。けど未来の姿を思い出せない。あの日私はここにいたはずなのに、ここであったことをほとんど思い出せないのはなんでだ。
あっそういえばと思い首を上げる。橋の上には誰もいなかった。
「逃げたんだ」
それは正しい。もしかしたらあの日の私も怖くなって逃げ出したのかな。けど自分はそんなことはしない気がする。
あぁ制服が重たい。体も痛い。幸いなのはまだ日が暮れるのには時間があること。さすがにこのカッターシャツでは帰りにくい。体を引きずり、近くに落ちていた自分のカバンを拾う。幸い水には落ちずに、崖際の草むらに引っかかっていた。なんとかこちらに持ってきて、携帯電話である人物に連絡する。
相手は安井君だ。未来のせいでこんな目に遭っているんだから、彼ならきっと助けに来てくれるだろう。
突き落とされるとは思わなかった。愛真は未来のことになると感情が不安定だった。私も不用意に煽りすぎたかな。いやそんなことないな。彼女が勝手におかしくなって、私がその被害を受けただけだ。人生にたくさんある理不尽の一つだ。気にする必要はない。
寒いからか少しだけ震えた。ここで未来は死んだ。だけど私は生きている。
じゃあこれは私の勝ちでもいいじゃないかな。人間生きてれば勝ちだ。
「おーい生きてるか」
上から安井君の声が聞こえたので返事をする。
「酷い格好だな」
彼は私を見つけるとそういい、タオルを私に投げつけた。濡れた部分を拭きとると今度は服を投げつけた。
「ここで着替えた方がいい?」
さすがにそれは気恥ずかしい。
「頑張れ」
安井君はこともあろうかそういった。背中を向けて見張りのつもりなのだろうか。信じられない。制服が濡れただけなんだから、そこまでしなくていいじゃない。持ってこられた服を見るとどう見ても女物だった。
「これどうしたの?」
「未来のだ」
どうやら返事を用意していたようだ。
「やるよ」
「いらない」
「俺もいらない」
言い合ってお互い黙った。しかたない。諦めて私はそれを着るにした。未来らしい明るい色だ。
「なんで持ってるの」
「未来が俺んちで泊まるから」
「もう死んだのに?」
「捨てられるかよ。そんな簡単に」
こういったとこが、彼が未来のことを本当に好きだったんだと思わしてくれる。けどさっきのあとなら別のことを思ってもしまう。
「未来は死んだのかな?」
「何言ってんだお前」
呆れて振り替えようとする彼を、
「見ちゃダメ」
と静止した。さすがに下も変えないといけないだろうか。スカートは黒いから気にしないければいいか。大丈夫になってから声をかける。
「いいよ」
彼は最初に、
「変な奴」
といったので、
「そうなのよね。変なのよ」
と答えてやった。彼の更なる質問を期待したが、何も言ってこなかった。私はそんなに変だろうか。
「死にかけたのにケロッとしすぎなんだよ」
心を読んだように呟かれてしまった。
そんなことはないと思うけど。結局喉元過ぎてしまえば熱さ忘れる。死ぬ瞬間は覚悟したけど、そのあとは今まで通り生きているんだ。今はむしろ死にぞこなって変にテンションが高いぐらいだ。
「未来が心配するぞ」
「変なこと言うのね。未来はそんなこと言わないわよ」
未来が本当に死んでるなら、そんなこと言わない。きっと「なんだもう来たんだ」って向こうで答えるんだ。
「お前未来が生きてると思ってるのか」
安井君は睨むようにこちらを向くので、人差し指を唇にあて笑いながら答えてる。
「うん。なんか生きてそうな気がする」
「御影未来は死んだよ」
安井君のその言い方もなんだか含みがあるように思えてしまう。
「そういえば私、愛真に殺されかけたんだ」
「聞いたよ」
不機嫌そうだが話はきちんと聞いてくれているようだ。
「どうして彼女が私を狙ったのかな」
「そんなもん、お前が未来の最期にいたからだろう」
そういうことなのかな。それよりは前に安井君が言ったことの方がしっくりくる。
「あの子何見て生きてるんだろう」
「自分のことだろう。誰だってそうだ。お前みたいに視野が広い方がおかしい」
相変わらず嫌われているようだ。ただ私は視野が広いわけじゃない。ただ興味が向かないだけ。自分の人生も進路も、命も大して興味が持てない。死を覚悟したからなのか、私は一つの想いを抱いている。
私は死にたくないだけ。生きてやりたいことなんてない。わざわざ死にたくないだけ。それぐらいには私は私のことが好き。それだけの普通の人間。
つまらない人生は受け入れるし。少しの努力でマシに生きてけるならそれだけでいい。夢も希望も持ってなくて、願いもないから絶望もない。未来が隣にいない私はそんなつまらない人間だ。
あぁそっか。未来がいなくなったから愛真はあんな顔をしてたのか。彼女は未来に負けた人間だったから。未来が先にいなくなったことが辛かったんだろうな。
「なーんだ。可哀想なだけなんだ」
納得したからか口にした声は弾んでいた。
「どうしたお前。頭おかしくなったか?」
「そんなことないよ。ただ未来が姉で、その姉が先に死んだらきっととっても惨めなんだろうなって思っただけ」
「えげつないこと考えるな」
「そう?」
「あぁ。覗かなくてもいい暗闇をわざわざ見る必要はない」
それは彼も愛真のことを哀れだと思っているのかな。思えばこの間あった時も安井君は愛真に厳しいことを言っていた。
「妹さんのこと嫌いなの?」
「お前が言うのかそれ。殺されそうになった相手だぞ」
それもそうか。私が彼女のことを気にする必要はない。
ただ愛真は追いつめられているのだろう。だからあんなことをした。けど逃げた。きっとますますよくない方向に向かうことだろう。ただ殺されかけた相手だ。私が心を砕く必要はない。
「彼女が死んだらどうしよう」
「だからそれを気にしてもしかたないだろ。お前は自分が殺そうとした奴が助けに来ると思うのか」
はは。さすがにそれはありえない。私が打つ手はないのだ。それを受け入れよう。
「傷つきやすい奴が」
「別にそんなことない」
とっさに否定した。
「未来が言ってたんだよ。お前のことをそんな風に」
「知ってる。だから声をかけたって聞いたよ」
友達にしたんだって。
「それだけじゃないけどな。知ってるだろう」
知ってる。だって未来は私をちゃんと見ていた。対等に対抗心を持っていてくれたから。だからこそ私は彼女に負けたくないように戦えたんだ。だから今も、彼女が死んだことが許せなくて探している。彼女の死の直前の言葉の意味を求めている。
「まったくお互い苦労するね」
彼に投げかけてみると、
「はっ」
吐き捨てるように笑い、
「あいつに目をつけられるならついてたよ」
と答える姿はとても嬉しそうだ。そんな彼を見ていると私の頬も緩む。
変わった友達。変な奴。だけど凄い奴。そんな奴が私たちみたいな取るに足らない存在を特別に思っていてくれた。それってなんだかとても幸福なことだ。
家族は選べないけど、人間関係は多少は選べる。未来が私たちを選んだことが、私たちは嬉しいのだろう。
「さて帰ろうか」
「お前帰れるか?」
「なに心配してくれるの?」
「死にかけてたからな」
それもそうか。けどなんだろうな。体は痛い。しばらく話し込んでたから服とかは大分乾いたけど、冷静になった分だけ鈍い痛みがはっきりしてきた。
「なぁこれは俺の意志ではなくて、ある人物が言ってみないかと言ってきやがったことなのだが」
安井君は回りくどい言い方で続ける。
「俺と付き合わないか?」
「やだね」
考えるよりも先に答えが口から飛び出た。
「そういうと思った」
彼も欠片もそんなつもりはなかったようだ。
「理由は?」
と彼に改めて問われて考えてみると、未来の顔が浮かんだ。
「未来のお古とか絶対にいやだ」
私はとても単純だ。私は未来に負けたくない。未来が死んだからって、それを勝ち逃げだなんて認めたくないんだ。
夏休みだが、受験生の私にはこれといってパッとすることはない。一番仲の良かった未来が死んだのも関係しているのだけど。思い出を作りたい相手はもういないのだ。
友達がダメなら彼氏はどうだろうか。心当たりもない。悲しいとは思わないけど、男性の親しい友人は皆無だ。まだ女子からのほうが人気がありそうだ。
もともと未来を慕っていた子たちが私を慕うようになったのが若干鬱陶しい。最近は落ち着いているけど、未来が死んだばかりの頃は真似て自殺しようとするバカも多かった。
意味が違う。たとえ死んでも結末も意味も全然違う。そのことに誰もわかっていないから、私も本気で怒ったものだ。
それにしてもだるい。暑いとあれだよね。やる気なくなる。
うーん。あんまり行くなと言われたけど、また山行こうかな。虫はそんなに気にしないし、川は流れているし緑も多い。日陰ならばそこまで暑くもない。図書館みたいに時間を気にしなくてもいいし、邪魔者もいない。
夕方息抜きに結局山に向かうことにした。
親友が死んだ場所なのにどうして私はこんなにも率先して向かってしまうのだろう。やっぱり認められてないからかな。
むっとした気温から逃げるように進む足が速くなる。
目的地は数日前に来た時と変わっていない。
いや誰かいる。山の奥に向かう橋の上に誰かがいた。背格好から多分女子。相手もこちらに気づいたのか、私と反対の方向に向かい急いで山を下って行った。あの橋は山の奥地に向かうためのものだ。その場所で止まっていたということは、また未来のことを忘れられない誰かだろうか。
まったくいい加減にしろと思う。私も人のこと言えないが。人の後を追って死んでも、意味がない。そのことにみんな気づくべきだ。幸いこの町では未来の後に誰も自殺はしていない。私はちょくちょくいろんな人に心配されたけど、絶対にしないと思う。
勇気もないし。覚悟もない。意志もない。理由がない。生きる理由はかすかにあるけど、結局死に向かう必要がない。
人間の感情は本当に邪魔だ。生物が子孫を残す以外に生きる理由なんてないのに。余計なことを考えるようにできている。
まぁだから人間なのだろうけど。これを嫌ったら人間として生きていくのが嫌いみたいだ。私は私として生きていくのを諦めたくはない。
「未来が生きてたらもっと楽しいんだけどね」
思わずそんな言葉が口からでたのは弱音なのかな。未来は死んでも、私は生きていかないといけない。四カ月近く経過してるのにまだ囚われている。
考える時間はたくさんあった。けど答えは見つからない。
橋のわきの坂道をおり、淵の脇の石に腰掛ける。日陰の石はひんやりして気持ちいい。
投げ捨てられたように淵に白い花弁が広がっていることに気が付いた。さっきの人がやったのだろうか。
流れずに川の端で留まっている花びらをぼんやり眺める。まるで私みたいだ。
時間は流れているのに進めていない。流れていけていない。
大切な友人だったなら、ちゃんと悲しめばよかったのに。適当に強がっている。そのせいでこんなにも消化不良。何一つ自分の時間を止める理由にはならないのにね。
他人の不幸なんて、右から左へ流していく時代だ。自分の不幸も受け流していくのが賢い時代だ。それができればこの国は見違えるほど生きやすいんだろうな。
概ねできているけど、たった一つがうまくいかない。それはそれで人生らしい。生きているから悩むのだ。辛く苦しく病んでいくのだ。もっともらしい言い方をするならそれが生きてるということだ。
目をつぶると音がはっきりと聞こえた。川の音。虫の鳴き声。揺れる木の葉。何もないかと思ったら存外世界は騒がしいけれど、嫌いじゃない。
「基本的に人間が嫌い。けどたまに好きになれる人間がいるんだ」
ニヤニヤしながら笑ってる未来の姿を思い出した。あの時未来がまっすぐに私のほうを見ていたからとても恥ずかしかった。あんまりまっすぐでその時の私はまともに未来のほうを見ることができなかった。
それも夏の話だった。去年の夏の終わり。
「私は日和の強さが羨ましいな」
珍しく未来が私にそういったのも同じころだった。あの時は分からなかったけど、多分私は心が強いんだろうな。けど私は絶対に彼女のようになれない。
私の強さはきっと立ち向かう強さだ。傷つくことにも挫折することにも慣れてしまった強さだ。傷つきすぎて、痛みに苦しみに鈍感なだけなのかもしれない。
人より少しはできるほうだった。だから特別虐げられることはなかった。高校に入って未来と会って世界が変わった。面白くなかった世界に急に目的ができた。未来という私よりも上の存在が気になってしかたなかった。人より少しだけ能力があったから。みんなが諦めた未来という壁に挑んだ。
そうだ。あの時まで私は全力を出さなかった。本気で何かをするなんてことをしてこなかった。だから楽しかった。未来は私よりもすごかったから。なりふり構わずまっすぐに彼女を見ることができた。
「人間だもの競争しなきゃね」
いつか未来が嬉しそうに私に言った。あの時私は認められたようで内心では無邪気に喜んでいた。もしかしたら未来も喜んでいたのかもしれない。私という敵を見つけたことを。今ならそんな風にも思えてしまう。
「なんで生きてくれなかったのかな」
いろいろ昔のことを思い出していると思わず口から言葉がもれた。悔しい。空しい。私がこんなに他人の喪失を感じるとは思わなかった。
目を開けて辺りを見渡すと太陽が沈もうとしているようだ。どうやら半分ぐらい寝ていたようだ。だから未来のことをあんなに思い出していたんだろうな。
「帰ろう」
自分に言い聞かせるように口にする。体を起こしてきた道を歩き始めた。




