第八話 もう一人の生徒
「どうして……泣いてるの?」
声が聞こえる。
女の子の声。その子の不安がこちらにまで伝わる、知っている人の初めて聞く声。
俺はそっと目を開けた。
目の前には、昨日会った女の子の顔があった。
鼻と鼻が当たりそうな程の近さに俺は思わず後ずさりする。
「うわっ!? あだっ!」
木の内壁に思いきり後頭部をぶつけ、頭を抱える。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫。それより、君は……?」
頭が冴えてきて、眠る前の事を思い出した。
俺はいつの間に寝てしまったんだろう。
「君はどうしてこんな所で寝ていたんだ?」
「本を読んでいたら眠くなってしまって。私、植物園に来ると、よくこのうろの中でお昼寝するんです。あなたは?」
「俺は……植物園に来たらスプリンクラーに降られて、ここに逃げ込んだんだ。そうしたら、君がここで寝てた」
「そうだったんですね、すごい偶然です」
「いや、偶然っていうか……まあいいや。それより一度外に出よう。スプリンクラーも止んでるだろうし」
彼女の手を取って外に出ると、透明の天井から星空が見えた。
辺りはもう暗くなっており、昨日と同じく幻想的な夜の庭だ。
月明りの射さない暗がりの中でぼんやりと見える彼女を見つめる。
「月は見えないね」
「ええ。ここから見える月はとても綺麗で、毎日見上げても飽きないんです」
「そうだね、本当に、美しかったよ」
昨日の彼女を思い出して言う。
「あの……」
「ん? どうしたの?」
「どうして、泣いてるんですか?」
「え?」
その時、俺は自分が涙を流している事を自覚した。
「どうして……?」
どうして涙が流れているのか分からない。
「きっと夢を見ていたんですね」
「夢を……?」
「はい。辛く悲しい夢を見たら、現実でもつられて涙は流れます。きっと、そんな夢を見られたのでしょう?」
「どうかな……覚えてない」
本当に夢を見ていたのだろうか。
だとしたらどんな夢を見ていたのだろう。
現実でさえ滅多に泣かないのに、一体、どんな夢を――
「それと……お名前、お伺いしてもよろしいですか?」
「あ、ああ。そういえば自己紹介がまだだったね。俺は舎人鶴瀬。君の名前は?」
「私はナスターシャ・フォン・リーデンベルグ・エンデと申します」
「え、えっと……ナスター……」
「ふふ、ネイスとお呼びください。朝霞先生からはそう呼ばれてます」
「朝霞さんから……」
「朝霞先生をご存じなんですか?」
「まあね。俺もここの生徒になったから」
「そうなんですね! わぁ……お友達が増えるなんて嬉しいです! でも、どうして夏休みが始まったこの時期に?」
「それは……まぁ、家庭の事情というか」
「もしや聞いてはいけない事でしたか? でしたらすみません」
「いやいや、いいんだよ。それより、君は毎晩こうしてここに居るのか?」
「はい。私が自由に外の空気を吸える唯一の時間ですから」
「それって……?」
聞こうとした時、丁度入口の方から声が聞こえてきた。
「おーい、ネイスちゃんいるー!?」
「朝霞先生の声です! こっちですよー!」
「ここに居たのね。あれ? 鶴瀬君も一緒だったんだ」
「はい。偶然会いまして」
「そうなのね。ネイスちゃん、この子は私の親戚の子で舎人鶴瀬って言うの。実はもう一人紹介したい子がいるから、一先ず校舎へ行きましょう」
「はい、先生」
二人は植物園の出入口へと歩いていく。
当然俺も後をついていくつもりだった。
しかしポケットの軽さから、うろの中に携帯電話を落としてしまった事に気が付いた。
県外ばかりでろくに繋がらないとはいえ、やはり手放せないのは現代っ子の性だろうか。
「えっと、この辺に……あった!」
探すのに困る程の広さじゃないので、見つけるのは容易だ。
そのまま拾って、早く二人に追いつこう。
そう思っていた矢先だった。
ふと、顔を上げる。
木の内壁に、人の手が浮かんでいた。
それは暗がりの中でハッキリと、青白い肌をもってそこに在る。
ゆらゆらと揺れるでもなく、ジッとこちらの様子を伺うかの様に、静止している。
何処かの木から、ぴちょん……ぴちょんと水の落ちる音が聞こえる。スプリンクラーの出した水がまだ捌けていないのだろう。
「な……!?」
あまりの衝撃に言葉を失う。
その手は誰とも繋がっている様には見えず、手首から先は影の中に飲まれて見えない。
悪戯だろうか。そう思った直後――
バンッ……バンバンバンバン!!!!!
その手はこちらとを隔てる見えない壁を叩き始めた。
「ひッ……!?」
動いている。誰とも繋がっていなかった筈の手が動き出している。
そんな冷静な判断は、恐怖に塗りつぶされる。
俺は一目散にその場を逃げ出した。
その手の正体なんて知ったことか。
常識外の存在を目撃して、頭がどうにかなりそうだ。
植物園の外に出たが、夜風でも俺の頭を覚ます事はできなかった。
「鶴瀬くん、どうしたの?」
「い、今……!?」
今起こった事をそのまま話すのか?
ありえないだろう。人の手が浮かんでいたなんて。
変人扱いされて終わりだ。
「その、変な物を見た気がして……きっと寝ぼけてるんです」
「大丈夫? 植物園には動物や大型の虫は滅多に入らない筈だけれど」
「大丈夫です。きっと気のせいですから」
朝霞さんは心配そうにしつつも、先に校舎に入っていった。
ネイスも心配そうに俺を見つめている。
「あの、本当に大丈夫だから……。気に――」
「見たんですね?」
ドクン
心臓が大きく鼓動する。
「な、何を見たって?」
「もう一人の生徒」
「もう一人の……生徒?」
何だ? もう一人って。この学校には元々二人居たって事か? それとも……。
「それ、どういう人?」
「分かりません。この学校に前から伝わる噂なんです。全校生徒にプラス、誰も見たことのない生徒が加わっているって」
「な、何それ。学校の七不思議? ネイスさんってそういうのに興味ある人なんだ?」
「あ、いえいえ。興味という事では無いんです。何分古い学校ですから、そういった話に事欠かないと言いますか」
「ありそうだよな、この学校。ちなみに、もしその生徒を見かけたらどうなるの?」
「よくは知らないんですが……一説によると――
居なくなってしまうらしいんです」
「居なくなる?」
「はい。見た人は人知れず、この学校から居なくなっていて、残った人も全員、その人の事を忘れてしまうんですって」
眩暈がしてくる。
そんなの嘘だと吐き捨ててしまいたい。
けれど、この目で見てしまった。
それはどうしようも無く事実で、変えられない真実。
どこからか、少年の声が聞こえる。
「お前を……世界から追い出してやる」