第九話 こんなにも、兄さんを愛しているのに。
学校に着いた夜、兄さんは寝床を抜け出した。
これからの事を考えて眠れなかった私は、彼が起きたのを見て、気になり後を着ける事にした。
兄さんは本当に外の空気を吸いに出ただけだった。
確かに村の星空は夏だというのに冬の寒空の様に澄んで綺麗で、私も思わず見とれてしまう。
そんな時、兄さんは植物園へと足を向けた。
あんな所に何があるのだろう?
夜の植物園という存在は不思議と怖くて、森の中から得体の知れない敵が襲ってくる気がした。
枝葉の擦れる音は陰口、うろの点在する木々は木のお化けの様だ。
気のせいでも、怖いと思う事に理屈は通じない。
そんな森の奥で、青年は少女と運命的な出会いをしていた。
池の畔に座る少女と出会う青年。
そんな光景は否応無く神秘的で理想的で、胸が締め付けられる程に切ない。
少年は、少女と物語の様な出会いをして恋に落ちる。
この様な話は嫌というほど聞いてきた。
だからこれも『とある物語』なのだ。
その主人公が兄さんだったというだけの事。
けれどそんな物語を、私は傍観者としてしか関われない。
決して主人公にも、ヒロインにもなれない。
こんなにも、兄さんを愛しているのに。
兄さんが去っていった後、私は読書に夢中になっている少女へ歩み寄った。
「あなた……ここで何してるの?」
「あら、今日はお客さんが多いのね。初めまして。私は本を読んでるんです」
「それは見れば分かる。どうしてこんな所で本を読んでるの? こんな暗い所、読書なんて感じでも無いよね」
「こんな幻想的な月夜の晩は、好きな本を読んで過ごす事にしているんです。きっと良い事あるかなって思って来たら、本当に良い事が、それも二度もあったんです。来た甲斐がありました」
「そう……ところでさっきの男の人とは何を話してたの?」
「他愛の無い世間話です。先ほどの人は東京からいらしたんですって」
「知ってる。あれ、私の兄さんだもん」
「そうなんですね!? ああ、兄妹なんですね。素敵です」
「……何が素敵なの?」
「一緒にいられる人が身近にいるなんて、素晴らしいですね」
「……身近過ぎて、辛い事もあるけどね」
首を傾げるこの人には、一生気が付かない。気付けるハズも無い。
私はそっと彼女に近づき……
……首を絞めた。
「くぅ……あ、はぁ……あぁ、な……なん、で?」
「あなたは兄さんにとってのどんな存在になれるというの? 私が成る事の出来なかった、兄さんを引き止める役になれるとでも言うの? あなたみたいな……勝手に現れた人なんかに」
悔しくて、惨めで、羨ましくて、苦しくて、切なくて。
そんな感情を、目の前の美しい人にぶつけてやりたかった。
けれど、それも全て、次の瞬間には『無かった事』にされるのだった。
目蓋を開けると、今さっきまで首を締められていた少女は、羨ましそうに笑っていた。
「一緒にいられる人が身近にいるなんて――」
時間は首を締める前に戻っていた。
こうなる事は始めから分かっていた。
だから首を絞めた。
どうせ無かった事になるのだから。
私がここで彼女の首を絞める事は、『本筋』とは違うのだから。
時間は彼女の最期の言葉――私が一歩を踏み出す選択時に戻っている。
ここでまた首を絞めれば、また時間はこのタイミングに戻る。
世界には正しい物語の流れという物があって、そこから逸脱する事はできない。
この現象は、そうしたレールから外れる事を許さない、世界のルールなのだ。
きっと兄さんは知らない。
知らなくていい。
どうせ知った所で、進むべき方向は変わらないのだから。
「あなたに一つ言っておくよ」
「何でしょう?」
「一緒に居るから素晴らしいなんて、知った風な口聞かないで」
そう吐き捨てて、私はその場を去った。
彼女がどんな顔をしていたかは、最期まで振り返らなかったから分からない。
気にはなったけど。
翌日、私は学校を出て、村を歩いていた。
朝霞という人の話では電車が1日3回は出ていて、都会に出られるという。
そんな物は存在しない。
都会も電車も、学校に着いた時点で存在しない。
ともかく、私は適当に村をぶらついてから学校に戻る事にした。
この村は何も無い。
夏場だというのに元畑の荒れ地ばかりで、家畜を飼っている家も見当たらない。
やはりここを歩いていても、人と出会える筈も無い。
それが分かっただけでも収穫と言えるだろうか。
もしくは予め分かっていた予定調和とでも言うべきだ。
校門に着くと、校舎の入り口に立つ兄さんを見つけた。
彼は何を思ったのか、校舎の隣に建つ植物園へと向かった。
気になって後を付けていく事にした。暇だからだ。
昼間に訪れてみると、こんな寂れた村の貧相な学校だというのに不思議と植物園だけは手入れが行き届いているのが分かる。
兄さんはまるで目的がハッキリしているかの様に中へと入っていった。
放っておけばいいのに、私はその後を付けて行く。
その途中、スプリンクラーの散水が始まり、私は木陰でスプリンクラーという名の雨を凌ぐ事にした。
雨の中歩くのもダルいので帰ろうかと思ったが、あの人と会っているのだと思うと気になって仕方なかった。
雨の中歩いてると、昨日来た池のほとりに着いた。
辺りには誰もおらず、入れ違いになったかと思った。
周りを見回していると、ギョッとする物を目撃した。
木のうろの中に人の足が見える。
よくよく見るとそれは兄さんの足の様だったので、私はそのうろへと近づいてみた。
中では兄さんと、昨日会った女の人が、向い合って寝ていた。
どうしてそんな状況になっているのか分からなかったけれど、それを見た瞬間、私はある一つの考えを思いついた。
この女の人は、私の目的に使えるかもしれない。
どういう経緯にしろ、この二人の内どちらかは向い合って寝る事を是としたワケだ。
という事は片思い、もしくは両思いの可能性がある。
それは、私の目的にとって重要なファクターとなりえる。
思わず、私はニヤリと口元を釣り上げていた。
それはそうとて、二人共ぐっすり寝ている。
兄さんもここに入ったのはついさっきだろうに。
……何だか気に入らない。
私はうろに潜り込み、二人の間に入った。
もちろん顔は兄さんの方を向く。
兄さんの顔が目と鼻の先にある。
それが堪らなく心地良くて、心の中は満開のお花畑の様な晴れやかな気持ちになっていた。
「むにゃ……あれ? 昨日会った人ですよね?」
ギクリ。
後ろで声が聞こえたが、気がつかないフリをしよう。
「あれー? 寝てるんですか? ふむー」
女の人がツンツンと私のほっぺをつついてくる。
正直、ウザい。
と思いきや、突然私の腰に手を回して抱きついてきた!
「んふー、あったかい。昨日も思ったけど、やっぱり可愛いなあー」
ん?
今、この人私の事何て言った?
昨日の態度から、どういう神経したら可愛いなんて言葉が出てくるの?
ともかく下手に身動きしたくない。
というよりも今動いたら、抱きつかれるのを黙って受け入れていたみたいで、それはそれで何か嫌だ。
彼女がまた寝入るまで私はジッと動かない事に集中した。
開放されるのは、それから1時間は掛かった。