赤い箸
ショート・ショートです。「星新一を意識しているだろう」と思われた方。確かに影響を受けていると思います。しかし考えた内容は全くのオリジナルです。どうぞご覧ください。
ミチコは、J社長の一人息子の家庭教師を任されていた。真面目で教え上手のミチコはすぐにJ社長の信頼を得、週に三度ほど社長一家の夕食に招かれるようになった。大企業の社長なだけあって、夕食は毎回豪華なものである。こんなものを毎日食べていたら舌が肥えすぎてしまうのではないかと、ミチコは時折不安になることがあった。最近では、J社長宅の晩さん会よりも、自宅の庶民的な手料理を楽しみにするようにすらなっていた。ある意味では、社長の晩さん会に招かれ始めて、日本らしい手料理の良さを知ったのでもあるが。
J社長宅の夕食会の中で、ミチコは一つ気になっていることがあった。J社長一家の食事では、どんなメニューであっても必ず真っ赤な箸を使って食べるのである。シチューであろうとステーキであろうと、例えスプーンやフォークの方が明らかに食べやすいであろうメニューも、全て赤い箸で平らげなければならないのである。ミチコは一度、J社長に「何故スプーンやフォークなどを使わないのですか。この箸では食べづらくはありませんか」ときいたことがあった。しかしミチコのその問いに、社長は何故だかとても怖い表情で返したのである。「この赤い箸でないと、美味しく食べられないのだよ」と。次の瞬間には、いつもの朗らかな口ぶりに戻り、「我が家の料理は美味しいだろう。まるで料理に材料の生命力がまだ息づいているようじゃないか」と言葉を続けた。
確かに、J社長宅の料理はすこぶる美味しい。言葉にするのは難しいが、社長の言うように、料理の元となった動植物の生命力が料理の中にまだ残されている、そんな味がするのである。その料理を食べると、ミチコ自身、何だか力がみなぎってくるようにすら感じるのであった。コックの腕前がよほど良いのか、はたまた材料に並々ならぬこだわりがあるのか。J社長宅の素晴らしく美味な料理の謎は、有能な家庭教師のミチコにもわかりそうになかった。
ある夜、いつものようにミチコはJ社長宅で一家と夕食をともにしていた。ミチコは、いつもの真っ赤な箸で、ジューシーなハンバーグを器用に切り分けた。「僕のもやってー」と言う社長の息子の分まで同じようにした。相変わらず美味なハンバーグを口に運んでいたミチコは、ふいに自分の持つ真っ赤な箸に目を留めた。頭の中に、何故だかある強い考えが沸き起こった。J社長にきかずにはいられなかった。赤い箸を皿の上に置いたミチコは、うっとりとした表情でハンバーグを頬張っている社長に声をかけた。
「社長。この箸、すごく赤いですよね。社長のデザインなのですか」
J社長は食事の手を留め、ミチコにどこか誇らしげな顔を向けた。
「ああ、そうだとも。良いデザインだろう。モダンでありながら、どこか毒々しさを感じさせる、強烈な赤。私はこの赤が大好きなんだ」
「ええ。確かにとてもインパクトのあるデザインですね。何だかまるで」
言葉を一度切る。ミチコは唾をごくりと飲み込み、次の言葉をゆっくりと発した。
「まるで、料理の材料である動物たちの生命力を吸い上げたような……そう、血のような赤に感じます」
途端、J社長の手元から赤い箸が滑り落ちた。静かな広間に、その音が異様に大きく響いた。ミチコはびくりと身を竦ませる。顔を上げると、J社長がいつの間にか立ち上がっていた。照明の具合で社長の顔には影が落ちており、その表情ははっきりとしない。
「そう。まさにそうですのよ、ミチコさん」
沈黙を破ったのは、社長夫人だった。夫人の方を見やると、真っ赤な唇を釣り上げ、不気味な笑みを浮かべている。
「この料理はまさに、生き物の生命が息づいたもの。そしてこの赤い箸は、生けるものの生き血を吸い上げ、料理を最高の味へと変える魔法の道具ですわ」
ミチコは立ち上がった。座っていた椅子が、大きな音を立てて後ろに倒れる。二、三歩後ずさりしたが、恐怖のためか思うように体が動かない。夫人はあの怪しげな笑みをミチコに向けたまま、微動だにしない。
「お待ちなさい。折角の料理だ。最後までお食べなされ。もったいないではないか、こんな素晴らしい料理を残すなんて」
突如、J社長が声を張り上げた。まるでオペラ歌手の歌声のように、その声は朗々と広間にこだまする。ミチコはぴたりと動きを止めた。獲物に狙いを定めた肉食動物のように、鋭い社長の視線がミチコに突き刺さる。
ミチコはふと、自分の食べかけたハンバーグに視線を移した。ミチコは我が目を疑った。それはもはや料理ではなかった。まるで異形の怪物のように、料理だったであろうそれは怪しく蠢いていた。皿の上に置いた赤い箸から、雫が漏れる。床にぽたりと滴るそれは、まるで動物の血のように赤い……。
ミチコはあらん限りの悲鳴を上げた。その悲鳴が、彼女の金縛りにあったように動かなかった体を自由にした。ミチコはもつれる足を何とか必死に動かしながら、J社長宅を駆け足で出て行った。
ミチコが明け放った広間のドアがぎしぎしと音を立てて閉じていくのを見つめながら、J社長は一つ溜息をついた。そして、生命の雫が滴る赤い箸の先をちょっと舐めながら呟いた。
「これほどまでに美味な料理の良さが分からんとは……いやはや、これだから素人は」