明日なろ。
山の三叉路。
ガードレールに身を預けて、今日も短い思案。
行く手には町か、寺か。
「明日でいっか。」
「明日やろうは馬鹿やろうだって学校で教わらなかったか?」
びくっ
車も、まして人なんて滅多に通らない道。
突然後ろから降りかかった音声はドスのきいた低音。
振り返ると熊……ではない。
熊のようにガタイのいい男から見下ろされていた。
聞かれていたのか。
「なんですか、それ。おじさんこそ、こんな町外れで油売ってていいんですか。」
熊と遭遇したときはどう逃げるのがいいんだっけか。
そんなことをぼんやり考える。
「俺はこっちの町に配達行った帰りだ、油なんぞ売ってる暇はねえ」
自転車に乗せたケースには山田酒店と書いてある。
酒屋なんて地元の店しかわからないが、どうやら本当らしい。
「僕と話してるこの状況のことを世間ではそう言うんじゃないですか?」
目を合わせ、会話を続けながら少しずつ後ずさってみる。
確かこう教わったはずだ。
「ちぇっ、かわいげのねえガキだな。いいか、明日やろうってのは、その事柄から逃げたい時に言うもんだ。お前もそうだろ?」
ピタ。
初対面で、しかも熊みたいなおっさんに「お前は逃げてる」なんて言われてしまうと、なんかくやしい。
「僕は別に…明日できるならそれでいいじゃないですか」
しまった。これじゃ逃げられない。
まさか自分から食いかかってしまうなんて。
「お前は自信があるんだな。できると思ってたことができなかったとき、後悔しないか?」
いったいなにが言いたんだ、この人は。
「だめならまた次の日にすればいいと思いますけど」
…面倒くさいことになっている。
立ち去る理由なんていくらでも繕えるが、どうにも逃げられない威圧感がある。
「お前は勘違いしてる。できると思いこんでるだけだ。本当はやる気なんてない。」
カチン。
「違う」
この人になにがわかるというんだ。
「違わない。でもお前が翌檜と違うのは、やる気になればできるってところだな。」
「あすなろ?」
「いくら頑張ろうと檜になれないわけじゃない。」
道で会った子供を貶したり持ち上げたり、本当になんなんだ。
「やろうと思えば明日には理想の自分になれるっていうんですか?」
「さあ、それは目標の高さによるだろうな。でも何もしないより理想に近づいてるのは確かだ。」
「………」
理想の、なんてそんな大層な人格は自分の中にはない。
ただ、本当は、逃げたくないだけ。
「お前はきっと檜になれる。簡単なことさ。…お、いけねえ時間か」
じゃあな、と言って酒屋は自転車をギィコギィコいわせながら去っていった。
図体とチャリの大きさが釣り合っていない。
「言いたいことだけいって帰ってくのかよ。熊のくせに。」
そもそもこんな山道をどうやって往復したんだ。
音に気づかなかった自分も自分だが。
…帰ろう。
「あらヨウちゃん!」
びくん
「こんな所に1人で、どうしたの?」
「あ…ちょっとお寺…の方に…」
言ってしまった。
これでもう言い訳はできない。
「もしかしてご両親の?まあ、感心ねえ、きっと2人も喜んでるわね。」
ふふ、と微笑んでから思い出したように助手席に溢れた袋をあさる。
それならこれを、と言って薄い紫色の花を数本くれた。
花に詳しくないので、名前はわからない。
「その花の花言葉ね、“あなたを忘れない”ってやつなのよ」
―お前はきっと檜になれる。簡単なことさ。
遅くならないうちに帰りなさいね。
そういって車のアクセルを踏んで町へ帰っていく。
今日はよく人に声をかけられる。
しかもまた不意をつかれた。
車のエンジン音にすら気づかないとは。
どっと疲れた面持ちで歩き出す。
しかし僅かに重い足取りは、当初の結論とは違う方へ向く。
なりたい自分に今日もしなれたなら、明日は―――
ギィっ、ギィ
「明日なろうはどんなやろうってな。…違うか。」
おわり