第十四話 一歩前進
交差点前、信号は赤。
行き交う車の列と、時折車道の端を横切るロードバイク。
愛沢ノアは緊張から背中をピンと伸ばす。
カバンの持ち手を握りしめる指先に力を込めた。
反対側で点滅する青に気持ちが逸る。
「あのっ、黒松さん」
「……何?」
横から見上げたノアは、丸メガネの奥で瞬きを繰り返す黒松ヒマリを覗く。
目が合うと、次に出す言葉が空を切った。
「えっと……」
『単純で、今までならすぐできたことなのに、どうして言葉が出ないんだろう』
信号が青になる。
「また明日教えて、愛沢さん」
横断歩道を渡る前に表情を緩めて、また明日。
そう、また明日でいい、また明日言えばいい、ノアは自分自身に言い聞かせ、バニラの甘い香りを風と共に漂わせるヒマリの背中を目で追う。
《でもホントにいいの? 明日にまかせたら、また明日になるかも……》
苦しく口を曲げたノアは、意を決して駆け出した。
既に信号を渡り終えたヒマリの隣に並んだ。
迷いなくセーラー服の袖を指先で摘まんだ。
「えっ?」
目を丸くして立ち止まるヒマリに、ノアは高揚で息を切らす。
「名前でっ……あの、呼んで、いい?」
喉を震わせ、澄んだ瞳を潤ませる。
袖越しに伝わる指先の揺れを覗いたヒマリは、自身の胸に手を添えた。
「私も、呼んでいいの? ノアって、呼び捨てになるけど」
「う、うん! 呼んでほしいっ!」
小刻みに強く頷くノアの様子に、ヒマリは溶かすように微笑んだ。
「じゃあ、ノア、また明日」
「また明日、ヒマリちゃん」
袖の感触だけが残る指先を抱きしめたノアは、早足で忘れ物を取りに向かうヒマリの背中を見送った――。




