第十話 夕方の路地裏
水商売のテナントが集まる町の一角。
狭く湿度の高い路地裏に、営業時間外のバーがひっそりと建っていた。
玄関の周りを箒と塵取りで掃除している四十代後半の男。
シックなシャツとベストに蝶ネクタイ、スーツパンツ姿で、ふぅと背を伸ばす。
腕時計の針を覗き、「もうすぐかな」と呟いた。
時間通りきっちりと、路面をコツコツ叩く音が聞こえてくる。
「マスター、こんばんは」
「あぁ、こんばんは、ヒマリちゃん」
マスターと呼ばれた男は、堂々とセーラー服姿でやってきた黒松ヒマリに、控えめな笑みを浮かべる。
三つ編みおさげに丸メガネ、会えば自然と目で追ってしまうほどの綺麗な顔立ちを、我関せずの表情で隠す。
ヒマリはそっと手を伸ばした。
防御反応によって硬く厚くなった指を見る度、マスターはただ息を吐き、加熱式タバコを渡すことしかできない。
黒くコンパクトな充電器から筒状の機器を取り出し、専用スティックを挿し込んだ。
指先に伝わる小さな振動のあと、加熱が始まる。機器についているタッチスクリーンに加熱中を知らせる白い線が動く。
二回目の小さな振動で加熱完了を知らせる。
色のある唇に挟んだスティックから肺の奥へ静かに吸い込む。ヒマリは、まるで他人事のような眼差しで、遠くを見つめていた。
マスターは不安気に、口を開く。
「ヒマリちゃん、昨日の子って本当に友達?」
「そう、数少ない友人。告げ口の心配?」
「そりゃこんなところ、ただでさえ……その」
「あぁ例の売春の斡旋と、オーバードーズ――」
「ヒマリちゃんっ、しぃーっ」
人差し指を口に添えたマスターに対して艶やかに小さく笑う。
「うぅ、ヒマリちゃんだって親に知られたら大変だろ、特にお母さんに」
「親に復讐ができるなら、本望だけれど」
「いやいや僕が困るよ。色々思うところがあったとしても、親に心配かけちゃダメだよ」
冷や汗を拭うマスターは、柑橘系のフレーバーと焦げた臭いが漂う路地裏をキョロキョロと見回す。
「そうですね。でもマスターが思い浮かべる親は、私の親とは違うの。よく周りが言う『心配かけるな』『親が悲しむ』なんて、ニコチンを増やすだけの有害な言葉でしかないわ」
マスターは深く肩を下げ、黙って頷く。弱々しく「ごめん」と呟いた。
加熱式タバコを吸い終えたヒマリは、バニラの香水を軽く吹きかける。
「いえ、ごめんなさい、少し言い過ぎたわ。友人が待っているのでそろそろ……これ、ありがとうございました。マスター、また明日」
機器をマスターに返し、ヒマリは甘く優しい香りを残して路地裏から立ち去った――。




