入学試験 2
金色の光が講堂の高窓から差し込み、天井の梁を抜けて、塵の舞う空間に静かな幕を下ろす。
講堂に立ち込めていた緊張は、潮が引くように消えつつあった。
試験官が一礼を促すと、受験者たちは一斉に立ち上がって礼をし、列をなして退出し始める。
だが、その多くが講堂を出る間際、ふと一度だけ、後ろを振り返った。
――視線の先にいたのは、蕭瑾言。
絹の衣が風に揺らされ、背筋を伸ばしたまま歩く姿は、他の受験者とは一線を画す。
一方、李俊の姿に目をやる者は、いなかった。
見えていないのではない。ただ――見る必要がないと、皆が思っていた。
「あれで書院に入れると思ってるなら、救えないな」
「なんだあの口調、あれが“志”だとでも?」
「農村の苦労話が政を語れるなら、子どもに玉座をくれてやればいい」
低く、鼻で笑う声が後ろで交錯する。
李俊は、誰とも目を合わせなかった。
でも、顔を伏せてもいなかった。
そのとき。
「――おい!」
不意に背後から呼びかけられた。
俊が振り返ると、一人の少年が駆け寄ってくる。
年は同じくらい。細身で色の浅い装束を着ており、名門の子弟とは一線を画す簡素な身なりで、袖口にはうっすらと墨染みがある。
「さっきの、すげえ度胸だったな!」
声をかけてきた少年は、俊の隣に並ぶと、周囲の目も気にせずに歯を出して笑った。
「俺、劉成っていうんだ。都の出だけど、父親はしがない下級役人だ。……お前の話、全部じゃないけど、わかるところもあった」
俊は少し驚いたように目を見開いた。
「……怒ってる奴、結構いたけどな」
「そりゃ怒るさ、あんな場で“法なんか届いてない”とか言えば。みんな、“法を使う側”に立ちたくて受けてるんだもの」
成は肩をすくめて、けれどどこか痛快そうに笑った。
「でも、俺はお前の話、聞いてて、なんか――心臓がバクバクした。……なんでだろうな」
俊はしばらく言葉を返せなかった。
こんなふうに、誰かから言葉をもらうのは、初めてだった気がする。
「……李俊。村の名は、たぶん知られてない」
「いいよ、覚える。……あ、でもさ」
成は急に顔をしかめた。
「通ると思うか? あの試験の内容で」
「……通らないと思う」
俊は正直に答えた。そこに悲観はなかった。答えが見えているだけだ。
少年たちは、講堂の外の渡り廊下をゆっくり歩いていた。
周囲の者たちは彼らをちらりと見たが、すぐに目を逸らした。
劉成が俊の背をぽんと叩く。
「ま、落ちても恥じゃないさ。こういうのは、“問うた”ってことが意味あるんだろ」
俊は小さく頷いた。
……その言葉の意味を、後になって痛いほど知ることになるのだが、それはまだ先の話だ。
空には、春の陽が淡く射していた。
――試験は、終わった。
だが、すべてはまだ、始まってすらいなかった。
その頃――
講堂の奥、審査官たちの控え室では、静かな議論が始まっていた。
重厚な扉の奥にある審議室では、最終選抜のための会議が粛々と行われていた。
机上には試験の記録、各地からの推薦状、門閥の名簿と家歴、そして受験者の資質や素行をまとめた巻物が整然と並ぶ。
「……蕭瑾言」
その名が読み上げられるや否や、幾人かの試験官の指がぴくりと動いた。
その若者の答弁は、あまりにも際どかった。
出題は「仁政の理想と現実」――すなわち、現政権の施策と照らし合わせれば、批判とも取れる命題。多くの者が言葉を濁し、巧妙にかわした。
だが、蕭瑾言だけは違った。
「……実名を挙げて、王命に背いた地元官を論った。しかも、構成は緻密……」
「恐れ知らずというには、あまりに理が整っていたな。」
「侮りがたい。言葉に一点の怯えもなかった。」
ある老文官が呟く。
「……あれを批判とは呼ばん。是と非を見分け、然るべき理に従ったまで。まさしく言の中庸。」
ひとりが頷き、また一人が筆を取った。
「異論は?」
主審が問うたとき、部屋にはすでに筆を走らせる音が重なっていた。
全員が、同意していた。
「――では、これにて記す。」
首席試験官が筆を掲げる。
「状元 蕭瑾言」
躊躇なく書かれたその名に、誰もが納得していた。才の高さと胆力の両立――それは、帝国の舵取りを託すに足る存在の証であった。
さらに数刻にわたる審議の末、名家子弟の合格者がほぼ決まったころ。
一人の試験官が、忌々しげに一巻の資料を持ち上げた。
「……李俊。遠方の寒村より。戸籍上、父は廃業した雑貨商、母は記録にすらない。家格、無し。礼法、不完全。筆記、荒削り。」
周囲の面々が、当然のように頷く。
「推薦状は――これは、雲陽州の副州守からか? 名も知らぬ地方吏。政治的な後ろ盾にもならん。」
だが、別の官が小声で補足した。
「……ただし、その推薦文の末尾に、こうある。」
彼は巻物を開き、抑えた声で読み上げた。
「“この者、尋常ならざる気韻を宿す。器に収まりきらぬ力をその身に抱えており、手に筆を持たせるよりも先に、目に焔が宿っている。”
“術理においては、今代の学徒の中でも五指に入る資質と見る。もし、志と導きとが伴えば――この子は、時を変える。”」
一瞬、場が静まり返る。
「術理、とは……?」
「いわゆる“符理”の才か。……制符、測気、念動、心法、いずれにおいても、常人の域を逸していると。」
「……それはまた、随分と含みのある書き方だな。」
「過大評価か、あるいは――」
それでもなお、多くの者の視線は冷ややかだった。
「才がいかにあろうと、教養の土台がなければ、天璇の名を汚すだけ。」
「感情に任せて語っただけの少年を入学させるのか?」
「法理への敬意もなく、政治論にすらなっていなかった。子どもの戯言だ。」
否定は満場一致に近かった。
名簿の片隅に、李俊の名が静かに切り捨てられようとしたそのとき――
一人の中堅官吏が、筆を止めた。
静かに、だが決して曖昧ではない声で言う。
「……李俊。合格とすべきです。」
会議室の空気が凍るように止まる。
「……何を根拠に?」
「才覚の評価か? それとも情けか?」
中堅官吏――その名を高容といった。
身分はさほど高くないが、御史院内では知られた人物であり、近年は監察業務の中枢に携わっていた。
彼は静かに応じた。
「政に必要なのは、法を知る者だけではない。法に問う者であり、法に問われる者です。」
「この者は、言葉を恐れず、目を伏せず、自分の“なさねばならぬこと”を語った。」
「……たとえ不格好でも、あのような問いを発せられる者は、いずれ――国の深部に届く。」
審査官の一人が訝しむ。
「高殿……何者の後押しが?」
その問いには答えず、高容は口元をわずかに引き結ぶ。
その胸には、ただ一つ、司徒凝霜から下された密命が残っていた。
――「名を出すな。ただ、“見るべき者を、見ろ”。」
誰もが高容の背後に何か大きな力が働いていることを感じつつも、
これ以上は聞くことの出来ない秘密を察し、詮索をやめた。
老文官がその場の空気を破るように口を挟む。
「御史院の高容殿の言葉は重い。私も賛成する。」
こうして、李俊の合格は決まったのだった。
一人の試験管が筆を走らせた。淡く光を含んだ墨痕が、白紙に新たな運命を刻む。
名簿の最後、最下段に記された名――
李俊。
かくして、帝国が誇る学府に、異端の少年が加わることとなる。
その名が、どれほどの渦を巻き起こすかを、まだ誰も知らないまま。
術理
▸ 定義:
術の理。
天地自然の理を読み解き、意志や行動に転じるための原理体系。いわば“動かす力”を扱う学。
▸ 特徴:
•精神力・気・神識を用いて術式を駆使する。
•気象・地勢・体術などに干渉し、補助・加速・拡張する技法。
•主に剣術や身法、戦術、体術と連動し、個人の「動き」「技量」を増幅する。
▸ 実用例:
•軽身術(跳躍力や敏捷性を高める)
•炎刃術(剣に熱や火気をまとわせる)
•鎮魂術(死霊や怨気を抑える)
•映身術(残像を残して攪乱する)
▸ 備考:
•術理の深さは「体感・経験」と直結しやすく、実地の訓練が何よりもものを言う。
•精神の安定や意志の明晰さが発動・制御に関わるため、感情の乱れは破綻を招く。
•書院などでは術理学は戦術・武芸科目として扱われる。
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符理
▸ 定義:
符の理。
万象の理を「符」(ふだ、文字・図形・構文)として定着させ、静的に制御・転写する技法体系。
▸ 特徴:
•符箓・陣図・文符などの記号に力を封じる。
•結界・転送・記憶・封印など、「物理的作用」「情報保持」などに優れる。
•動的な「術理」と対比し、静的・持続的な魔術体系。
▸ 実用例:
•転送符(離れた場所への一時的転送)
•鎮妖符(霊的存在を封じる)
•陣結符(周囲に一定の効果範囲を張る)
•書封符(情報・記録を保護し、開封を制限する)
▸ 備考:
•符理は“知識”と“筆力”が必要で、学者や記録官の領域とも重なる。
•古来の符籍は門派ごとに系譜を持ち、失われた符文はしばしば歴史的価値を持つ。
•書院では符理学は文理・考証科目として扱われ、**術理より「静かな学問」**とされている。