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入学試験

嘉元十五年。


大遼随一の威を誇る帝都・天啓。その郊外に広がる広大な学び舎――天璇書院。

かつて衰退し閉ざされていたこの名門学府は、外患内憂の危機に直面する帝国の将来を見据え、ついに再興された。


天璇とは、北斗七星の中核をなす輝星の名。その名を冠したこの書院は、帝国が誇る最高学府として尊ばれ、歴代の英才たちがここから羽ばたき、朝堂の中枢を担ってきた。


荘厳な石塀と朱塗りの門柱が並ぶ学舎は、遠目にも圧倒的な威厳を放つ。


 


春風が杏の花びらを舞わせる中――

講堂では、最終試験に臨む受験者たちが一堂に会していた。


張り詰めた空気の中、数十名の若者たちが整然と座る。その前には、威厳を湛えた試験官たちが鋭い目を光らせている。


天璇の紋が金糸で刺繍された垂れ幕が、陽光を受けてきらめく。皇族直属の学府にふさわしい、息を呑むような場の荘厳さ。


その静寂を破り、ひとりの試験官が巻物を開き、朗々と声を響かせた。


 


「《國無常強,無常弱,奉法者強則國強,奉法者弱則國弱。》

――これを、現政に照らしてどう解すか?」


 


その瞬間、空気がわずかに揺らぐ。


名家の子弟も、郷の俊才たちも、一様に顔を上げ、互いに目を見交わす。


「……現政に照らして、とは……」


「あまりに踏み込んでる……」


「誰がどう答えるかで、見てるんだな」


 


受験者の多くは戸惑いを浮かべ、慎重に言葉を選びながら無難な回答を重ねていく。


その中で――

静かに、一人の名が呼ばれた。


 


蕭瑾言。



公爵家の嫡男にして、都随一の秀才として名を馳せ、名門の学者に師事してきた青年だ。


美しく織り上げられた絹の衣に身を包み、整った眉目に一片の乱れもなく、凛とした気配をまとっていた。高く結われた黒髪に差した銀の簪がひと筋、光を受けて静かにきらめく。



彼が立ち上がると、講堂の空気が一気に張り詰めた。


 


足取りに迷いはない。

発せられる言葉は、鋭利な刃のように研ぎ澄まされていた。


 


「法は政の骨であり、国の魂であります。

いかに大軍を抱え、豊穣の地を有そうとも――

法が人に従うようでは、その強さは幻にすぎません。」


 


声は抑揚を控えながらも、言葉の一つひとつが重く響く。


 


「この言葉は、教訓ではなく――警告です。

法の上に人を置けば、国は必ず腐る。」


 


場に緊張が走る。


「近ごろ、朝廷の命を借りて、権を振るう者どもがいるのは否定できません。

功あって位を得るのは道理。

けれど――その功を盾に法を歪め、

罪を逃れ、富と安寧を一門に独占させるのは、忠ではなく驕です。」


 

一呼吸置き、彼ははっきりと口にした。



「たとえば、長寧県令・霍靖言。

王命に背き、独断で重税を課し、民を苦しめたことは周知の事実。

にもかかわらず、朝廷はこれを見過ごし、彼の一族が繁栄する現状。

これが正しいと言えるのか。」



いくつかの席で、鋭い視線が瑾言に向けられる。

それでも、彼は微塵も怯まず、語を重ねる。



 


「驕がまかり通れば、法は潰え、民の信を失う。

信無くば立たず。これは、古来よりの教え。」


 


一拍置き、彼は静かに締めくくった。


 


「ゆえに私は、奉法とは“恐れ”と“信”の両輪であると考えます。

為政者自らが法の前に膝を屈し、その姿を民に示すとき、

国ははじめて強くなるのです。」


 


――その場に、深い沈黙が広がった。


息を呑む音さえ響くような、凍りついた空気。


 

やがて、その沈黙を破るように、わずかなざわめきが漏れ始める。


「......言ったぞ、あれ......」


「遠回しじゃなく、真っ向から......」


「あれで減点されないのか?いや、評価されるのか.....?」



受験者たちは皆、瑾言の背中を凝視していた。

圧倒される者。口を噤む者。あえて沈黙を選ぶ者。



数人が座ったまま項垂れる中、次に名を呼ばれたのは、一人の少年だった。


 


粗末ではないが飾り気のない衣。


緊張の色こそ見えないが、少し戸惑いを浮かべたような表情である。

 


李俊。

遠方の寒村からやってきた、平民の出の少年は口を開いた。



 


「東原子の言葉も、白律先生の教えもすごく立派です。

……でも、それが本当に“届いてる”のか、時々わかんなくなるんです。」


 


一瞬、どよめきが走る。


彼の語り口は、洗練されていない。けれど、そこには真実があった。


 


「俺の村は、去年も飢えました。川が枯れて、役人も来ない。

それでも、紙の上には“法”があるんです。」


 


俊の声に、怒りはない。ただ、静かな哀しみが滲む。


 


「……法があるって言うけど、俺たちは、その恩恵を受けたことがない。

じゃあ、その法って、誰のためのものなんでしょうか?」


 


まっすぐ前を見つめ、彼は言い切った。


 


「偉い人が間違ってるとは思いません。

でも、俺たちは**“今”困ってる。明日の米がない。**

だから、もっと“政”が届く国にしたい。

……俺は、そういう国にしたいです。」


 


場が、静まり返った。


技巧はない。美辞麗句もない。

けれど――その言葉には、実感と痛みがあった。


 


試験官たちの視線が、一斉に俊へと向けられる。

中央に座する老文官は、目を伏せ、深く思索する。


 


やがて若い試験官が口を開いた。


「……東原子の言葉を“違う”と切り捨てたか。大胆だな。」


 


だが、それに応じるように、別の試験官が低く呟く。


「いや――これは批判ではない。

理想と現実の乖離を、己の立場から問い直したにすぎぬ。

……粗く見えて、確かに“問”になっている。」


 


瑾言の答弁が“完璧な解”ならば――

俊の言葉は、“問われぬ問い”を突きつけた裂け目だった。


 


受験者の一人が、ぽつりと呟く。


「……あれが、答えなのか?」


 


誰かが目を伏せ、誰かが遠くを見つめる。


俊のまわりでは、沈黙と戸惑いが入り混じった空気が流れていた。


 


中央に座す試験官長――朝廷より派遣された老文官は、静かに目を閉じ、思う。


 


(知に溺れぬ才と、情に流れぬ理……。)

(これほど異なる二つの声が、同じ問いから生まれるとは。)


 


彼は、静かに筆を取った。


 


(この年の天璇には――

“国を変えうる者”が来ている。)


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