第九話 人間
「私は約六十年前、イギリスという国の医学生で、二つ下の妹も同じ大学に通っていました。山登りが趣味で私と妹と山岳仲間六人とで、春休みに登山に行ったのです。そこで妹がクレバスに落ち、助けようとした私も一緒に落ちました」
聞き慣れない単語に、つい疑問符がついた。
「クレバス?」
「雪山や氷山にある裂け目です。深さは何十メートルになることもあります」
「それで、気がついたら、この山に?」
「はい。死んだと思いましたが、目が覚めたら妹と共に扉の前に寝ていて驚きました」
「モンスターには襲われなかったのか?」
「どうやら私たちを、エサとはみなさないようです。ですが相手は野生動物なので襲って来るものもいました」
「それで、どうしたんだ?」
「狩りをしていた、ウサギ耳が生えた若い男性に助けてもらったのです」
「……それが族長の弟というわけか」
「危険だからと、この洞窟を住居にしていいと言ったのも、その方です」
「名はなんと?」
「マーコットと名乗ってました」
「なぁ…クローリー族長の名前は?」
「フォッグだな」
「マーコットさんと妹はすぐに仲良くなり恋に落ちました。私が木の実や野草を採取している間に…」
「それで子を身籠ったと」
「ええ、私は医療施設も道具もないこの世界で怒るに怒れず、許すしかありませんでした」
貞操観念の強いエルフ族のブラッドは眉を顰めている。
「なぁ…ウサギの貞操観念はどうなってるんだ?」
「獣人の中で唯一の被食者なので、種を残すために一夫多妻が許されているが、族長権限を利用されたら困るから、族長は一夫一妻から選ぶと決まっている」
「結婚は“してない”と言っていたな」
ブラッドは“遊び回って”いたとは言えずに、言葉を濁した。
「妹が出産の日マーコットさんも立ち会いました。子供は双子で出産は順調でしたが、ウサギ耳のない子は死産でした」
「族長の言っていた通りだな」
「それから、妹はリンクと名付けた男の子を大事に育てていました」
「マーコットさんはどうしたんですか?」
「住み込みの仕事があるとかで妹と同居はせずに、二日か三日置きくらいに肉や果物、パンやチーズ、ワインを持って来ました、それから七年経った辺りで妹は体を壊し亡くなってしまいました」
「肝臓の病気と聞きました」
「マーコットさんが体の中を見てくれる人を呼んで見て貰ったのですが、私の所見では肝臓癌でした」
「ガン?」
「炎症を繰り返していると、細胞が再生する時にミスが生じて、そのミスした細胞が正常な細胞を抑えて増えてしまう病気です。妹は症状が出た時には、肝臓を移植…他の人から貰わないと生きられない状態でした」
「他人から臓器を貰うとは具体的にどうするんですか?」
「肝臓の悪くなっている部分を取り除き、亡くなった方や生きている方の肝臓を繋ぎ合わせて閉じる方法です。型が合っている必要があったり、薬で拒絶反応を抑えたりと」
「……とにかく、薬や道具、高度な技術や設備が必要ということですね」
「ええ…妹はリンクを私に託して亡くなりました」
「マーコットさんはどうしたんですか?」
「マーコットさんは妹が亡くなって、ここに私とリンクと一か月程一緒に過ごしていたのですが『もっと良い食べ物を…』と言って出て行ったきり会っていません。代わりに兄のフォッグさんという方に良くしていただきました」
「そのフォッグさんに、集落と聞いて来たのですが」
「ええ…五十年ほど前に来た数人もここに住んでおりましたので、男女七人ほどが住んでおりました」
「他の人はどうしたんですか?」
「山の知識が乏しかったようなので、野生動物に襲われたり、冬に遭難したりで二十年もしない内にいなくなってしまいました。リンクも二十年前には母の病気の治療法を探すと出ていきました。恐らくリンクも病に…」
「二十年もリンクさんは帰って来ていない?」
「フォッグさんは時々、食べ物を持って私の様子を見に来てくれるのですが、治療法が見つかってリンクは街で元気にしているとしか」
族長は、この人の話を俺たちに聞かせて何をどうしたいのか理解できず、言葉に詰まった。
「…………」
「え〜と。リンクをご存知なんですか?」
黙ってしまった俺の代わりに、ブラッドが咄嗟にフォローに回った。
「ええ、フォッグさんとリンクさんからあなたの話を聞いて、興味が湧きまして一度会ってみたかったのです」
流石は公職、自然な笑顔で流れるような嘘をつく。
「それで、リンクは元気にしているのでしょうか?」
「ええ。していますよ」
「良かった…無事ならそれで良いのです。ウサギ耳な以上、ここに閉じ込めておくわけにもいきませんから。この山を降りたら、町や王国があるとマーコットさんはリンクの幼少期によく言っていて、リンクは外に行きたがっていましたし」
「そうですか…私たちはこの山の頂上近くに出現した扉を調査に来たのです」
「私たちが倒れていたという扉ですか?」
「はい。フォッグさんとリンクさんから、扉の前にいたという話を聞き、調査の参考にとお話を伺いに来ました。ここは安全なようなので、人がいたら連れてきてもよろしいでしょうか?」
「ええ…構いません。その扉動くのでしょうか?私たちが目覚めた時に扉を動かそうとしたのですが、動きませんでした」
「その扉は残念ながら、こちらからは開かないようなのです」
「そうなのですか。帰れるならと思ったのですが…」
「夜なので、この洞窟で朝まで過ごしてよろしいでしょうか」
「ええ…どうぞ。寒いでしょうからリンクと妹が使っていた部屋を使ってください」
「ありがとうございます」
案内された部屋は掃除されていて、ベッドが二つ並んでいる。
俺とブラッドはベッドに腰掛け、今聞いたばかりの話を整理し始めた。
「……どう思う?」
「どう思うって?」
「リンクとマーコットさんは一体どこに?」
マーコットさんと入れ替わる様に、族長が現れ彼の面倒を見ている。
「それは確かに気になったな」
「とりあえず朝に出て、扉の周辺を調査しよう」
「オマエは魔力使い切ったんだしゆっくり休め」
「じゃあ遠慮なく」




