君の心は僕の音
夏のジメジメとした暑さが薄れ、冷たくなり始めた風が枯葉を連れて僕の顔の横を通り抜ける。
コツ、コツ、とコンクリートを踏む度に奏でられる音を聴きながら紅く染った空を見上げた。少し前までこの時間はまだ明るかったのに、いつの間にか暗くなり始めている。どうやら、僕の感覚と現実の時間の流れにズレがあるようだ。
「……カフェか」
ふと、通りに並ぶ建物に視線が移る。そこには、ひとつのお店が輝きを放っていた。
木が多く使われ、観葉植物も至る所に配置された自然豊かな内装のカフェに、なぜか分からないが惹かれてしまった。
普段の僕はこういうところに興味なんてそそられないが、なぜか今日はそのカフェが目に付いた。
「いらっしゃいませ」
中に入ると、僕に気づいた店員さんが近づいてくる。その人に一人であることを伝えると、好きな席へ座るように促される。なので、窓際の一番端の席に腰を下ろすことにした。
「……コーヒーください。ホットで」
メニュー表を見ることもなく、お冷を持ってきた店員さんに注文を伝える。するとニッコリと笑った女性は遠ざかっていき、少ししてからひとつのカップを持ってきた。
机にコトッと置かれたカップから、初めて嗅いだはずなのにどこか懐かしいコーヒーの香りが漂ってくる。
「にが……」
店員が完全に見えなくなったことを確認した僕は一口その濁ったお湯を啜った。刹那、口の中に苦味が広がった。それによって、つい顔を顰めてしまう。
「こんなん、何が美味いんだよ」
無意識に、そんな言葉が口からこぼれた。この言葉は変な誤解を生んでしまいそうだったが、どうやら店員さん達には聞かれなかったようだ。決してこの店のコーヒーが不味いというわけではない。……と思う。ただ僕がこの飲み物を苦手だと認識しているだけだ。
苦手といえど頼んでしまったもの、一度口にしただけで残すのはよろしくないだろう。そのため、なるべく舌に当たらないように飲み干していく。
「……ほんと、もう秋か」
苦いコーヒーを飲んで気持ち悪くなってきたので、店員さんを呼んでホットココアを頼む。僕はどちらかといえば甘党だ。
甘い液体を口に含み、ホッと息を吐きながら外を眺める。外はこの短い間のうちに外は暗くなり、街灯が少し寂しそうに通りを照らしていた。
緑色の少し錆びた街灯を眺めていると、昔の記憶が思い返される。
思い出した。そういえば、カフェという空間に最後に入ったのは一年前だったな。それまでは結構な頻度で入っていた。僕一人ではない。当時最も親しくほぼ毎日顔を合わせていた人の趣味で、僕はそれに連れ回されていたのだ。
「ねえ、聞いてるの?」
過去を振り返っていると、頭の中でそんな鈴を鳴らしたような声が響き渡った。
「……ごめん。なに?」
「もー、また空想の世界に飛んでたでしょ」
「そんなことは……無いとも言えない」
当時の僕は、今と違って意欲に溢れていたと思う。それこそ、誰かと話していてもふと思いついたら創作の世界に意識が飛んでいってしまうほどだ。
対面に座る茶髪の少女がムスッとした表情を浮かべて、コーヒーを口にした。
彼女は、来栖紅月。その現実の人とは思えない不思議な赤みがかった目がジトッとこちらを見つめている。その訴えるような視線から逃げるようにホットココアを口に含んだ。
「うん。ここのコーヒー美味しいっ!」
先程まで機嫌が悪そうだったのに、数度コーヒーを口に含んだだけでご機嫌になった。
「そんなもん、よく美味いと思えるよな」
「君も飲めばいいのに。美味しいよ?」
「僕は苦いもんは無理なの」
あんなものを美味いと思えるこの人を僕は理解ができない。ただ匂いが強くて苦いだけの液体だろう。……それを言ってしまえば、僕が今飲んでるホットココアも匂いが強くて甘いだけの液体なんだけど、それは置いておくことにする。
僕と彼女は、同じ高校に通う同級生だった。二年前、つまり高校二年生の時に彼女が転校してきて、それ以来の仲になる。……いや、仲だったという形が適切だろうか。
「……ッ!?」
彼女と出会ったその頃を思い返していると、窓の外で歩いていく女性の姿が目に入った。
肩くらいまで伸びた茶髪に、創作の世界の人間かと思えてしまうような不思議な赤い瞳。それは、彼女の姿にそっくりであった。
その姿を見た僕は心臓がドキッと跳ねて、慌てるように立ち上がった。それによって椅子が倒れそうになったのだが、どうにか耐えてくれた。
僕はお金を払うことすら忘れて、急いで店を出る。入口で周囲を見渡すと、視界の端っこで角を曲がった少女が映った。
「紅月!!」
僕はつい彼女の名前を叫んでしまった。そのまま駆け出して、その背中を追った。視界の端に景色が流れていく。久しぶりに走ったせいか、すぐに胸が痛くなって息が荒くなる。それでも、僕は足を止めることをしなかった。
何度も角を曲がって、一瞬だけ見える少女の背中を追って慣れない道を走り続ける。もうここがどこなのか分からないが、今更だ。後でマップでも見ながら帰るとしよう。
「……紅月」
やがて、とある場所で彼女は立ち止まった。ここはどこかの公園だった。少し街から高いところにあるのか、少し遠くを見ると建物の明かりが輝いて幻想的に見える。ここに来るまでで結構な間走ったので、膝に手を置いて呼吸を整えていく。そうしてある程度収まってから、手すりに手を置いて景色を眺める彼女に声をかけた。
「ねえ、ここ覚えてる?」
突然、彼女が口を開いた。そんな彼女の問いかけについ困惑の声を上げてしまった。
「ふふ、君らしいね。流石だよ」
クスクスと笑っているが、その内面はとても呆れているようだ。そんな彼女の雰囲気が懐かしくて、隣に並びながら過去のことを思い返していた。
彼女との出会いは、ロマンチックとは言えなかった。といっても、ありきたりな出会いというのもまた少し言葉が違う気がする。
転校してきた初日の朝に、僕は彼女と出会った。
僕はいつも早めに家を出ていた。ギリギリの時間は昇降口が混むから好きじゃないのだ。
そう、あの時も僕は早めに家を出た。しかし、そのいつも通りの行動が良くなかったのだ。朝、いつもと同じ通りを通っていると、彼女……紅月が声をかけてきたのだ。その時の彼女は初めての土地で道に迷っており、制服を着ていた僕に案内をさせようとしたわけだ。
しかし、当時からカフェ巡りが趣味だった彼女はその通りでカフェを見つけ、僕の腕を引っ張って無理やり入店したのだ。そこで彼女がコーヒーを飲む間拘束され、危うく遅刻するところだった。あの時ばかりは本当に紅月にイラついていたと思う。
それ以降僕は不本意ながら彼女と関わることになり、やがて毎日顔を合わせるようになった。
「しょうがない。君が思い出せるようにヒントを与えよう」
クルクルと人差し指を回して、彼女は少しだけ考える素振りを見せる。そうしてピッと真っ直ぐ僕を指差して、ニヤッと笑った。
「君、ここでココア零したよね」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中にパッとその時の情景が浮かんできた。
「あれはお前が驚かせるのが悪いだろ!!」
そう、あれは紅月と出会って間もない頃、僕は考え事をしながら散歩をしているとこの公園に辿り着き、絶景を眺めながら自販機で買ったココアを飲んでいた。なぜかその場に居た紅月はそんな僕に気づかれないように背後まで近づき、「わっ!」と言いながら僕の肩に勢いよく手を置いた。彼女の存在に一切気がつかなかった僕はアニメのようなリアクションを取ってしまい、それによって手に持っていたココアを服に零してしまったのだ。そう、あれは紅月が悪い。
「思い出した? じゃ、次行こっ!」
「あっ、ちょっと待てッ──」
嬉しそうに笑った彼女は、そんなことを言ってまた走り始めた。僕の制止の声なんて聞こえていないのか、グングンと遠ざかっていく。
また追いかけっこするのか、と僕は大きなため息を吐いて、彼女を見失わないように必死にその背中を追いかけ続けるのだった。
そこからは、もうあんまり覚えていない。とにかく必死で、走り続ける彼女を追いかけていたから。インドア派だったのがいけないのか、僕の心臓は人二人分くらいバクバクと跳ねていた。
「ここはあれだね。君がゲロゲロパーした」
「ジェットコースター乗りすぎなんだよ」
「ここは君が初めてコーヒーを飲んだお店だ」
「未だに美味さが分からねえや」
「ここっ! 君が派手に転んだね!!」
「……思い出させんなそんなの」
次々と、僕達は思い出の地を巡っていた。遊園地、喫茶店、そろそろ季節になるスケート場なんかにも足を運んだ。
正直どれも覚えていなかったのだが、彼女と巡る度に全て思い出していった。楽しかった思い出、溜息を吐きたくなるような記憶、恥ずかしくて顔を隠したくなる事件すら、すべて彼女のおかげで思い出すことが出来た。
実は、僕はここ数年の記憶がぽっかり無くなっていた。ある日目が覚めた時には病室に居て、半年ほどのリハビリ期間を終えて、僕は日常に戻った。それくらい長い期間を置いても、僕の記憶が戻ることはなかった。
少しの寂しさを感じていたが特に日常生活に支障はなかったため放置していたのだが、まさかこんなことで思い出すなんて思わなかった。
「最後はここっ!」
少しも息を荒らげないで走り続ける彼女を必死に追いかけていると、とある建物の前で彼女は立ち止まった。
そこは、有名なファストフード店だった。存在自体は知っていたが行った記憶は無い。しかし、なぜか僕の足はその店を見た瞬間から石のように固まってしまった。
「大丈夫だよ。行こ?」
いつの間にか隣に戻ってきていた紅月の優しい笑みのおかげで硬直した足の緊張は解け、一歩前に足を踏み出す。
「懐かしいね。……って覚えてないんだっけ」
「ここは……何をしたとこなんだ?」
ガラスの自動ドアをくぐると、店員さんが笑顔で迎えてくれた。お客さんの邪魔にならないように少し横に避けて、隣に立つ彼女に話しかける。
しかし一切返答が無かったので気になって彼女の顔を見てみると、どこか悲しそうな、辛そうな顔をしていた。
一体、ここで何があったというんだ?
「君っ!」
様子のおかしい紅月を見て小首を傾げていると、お店のユニフォームを着た店員さんに声をかけられた。その人の顔は焦っているような、安堵しているような不思議な顔だった。
「あっ……えっと、なんですか?」
「久しぶりだね。元気かい?」
どうやら僕の知り合いだったようだが、僕には彼と出会った記憶が無い。
「……どちら様ですか?」
「あっ、ごめんね。僕は星野。あの事件の日、君の接客をしていた店員さ。元気そうで良かったよ。あの時は本当に大変だったね」
優しく同情するような顔で話し続ける店員さんに、僕は困惑していた。あの事件、とはなんだ? この人は僕が入院していた理由を知っているのか?
「女の子の方は……残念だったね」
「待ってください。女の子? 紅月は僕の隣に居るんですけど」
僕が関わっている女の子なんて紅月しか居ないので、きっと彼女の話をしているのだろうが、この店員は何を言っているのだろうか。紅月は僕の隣に居る。さっきまで散々走らされたのだから間違いはない。
「彼に私は見えないよ」
「……は?」
困惑する店員を他所に、さっきまで黙りこくっていた紅月は突然口を開いた。
「どういうことだよ?」
紅月はここに居る。店員に見えないなんてことあるわけがない。彼女はそこまで影が薄いわけではなかったはずだ。
「だって、今の私は幻想……君の中で形作られた想像なんだから」
その言葉が、僕には理解が出来なかった。僕の目の前に居る紅月は僕の妄想? そんなわけが無いだろう。だってそうなのだとしたら、さっきまでの僕は何を追いかけていたんだよ。
「それじゃ、ヒントをあげる」
「ヒント……?」
そうして、先程までと同じように彼女はクルクルと人差し指を回して、優しく笑った。
「あの時、私を庇ってくれた君はかっこよかったよ」
その様々な感情が含まれた表情を見て、僕はあの時の情景をハッキリと思い出していた。
そう、あの時の僕達はこの店に来ていた。なぜ来ていたのだったか、たしか紅月と遊んでいて、お昼ご飯を食べるために来ていたんだったか。
そうして先程の店員、星野という男に接客をしてもらってバーガーセットを注文し、店内で食べるためレジの横に避けて料理が来るのを待っていた。その時だった。
突然、入口付近に居た帽子を深々と被った男がナイフを取り出して暴れ始めたのだ。そしてその男はこちらへ向かってきて、隣で恐怖から動けずに居た紅月にその凶器を振るった。
僕は反射的に彼女と男の間に割り込んだ。しかし何も考えずに男の前に立ったためそのナイフを防ぐことが出来ずに、僕の中心部……心臓を一突きされてしまった。そこからは覚えていない。確か、僕はそのまま倒れてしまったはずだ。
「あの時、君が守ってくれた後、あの男の人は倒れた君に更にナイフを振るおうとした。多分、愉快犯だったんだろうね」
僕が思い出したことを察したのか、紅月は僕が倒れたであろう場所を眺めながら語り始めた。
「私は馬鹿だったから。君が守ってくれたこの体を使ってそのナイフが君に届かないようにした。おかげで、私もボロボロになっちゃったんだけどね」
あはは、と笑う彼女。しかし、僕は一切笑みを浮かべることが出来なかった。ただボーッと彼女の話を聞くことしか出来なかった。
「そしたら店員さんがその男の人を押さえてくれて、そのまま警察に連れて行かれたんだよ。でも、その時にはもう、私も君も手遅れに近い状態だったの。君は心臓が傷ついて、私は出血多量。二人とも死んじゃうってところだった」
ではなぜ、僕は生きているのだろう。彼女の話を聞いて、嫌な想像が浮かんできた。どうにかしてそれを否定しようとしたのだが、その想像が正しいのであれば全ての辻褄が合ってしまう。
僕は自分の胸に、恐る恐る手を当てた。ドキドキ、と鼓動がその手から伝わってきた。どうやら、僕の動揺に合わせてその心臓は激しく跳ねているらしい。
「……私は願ったの。二人とも死ぬくらいなら、君一人だけでも生きて欲しいって」
その話は嘘であると信じたかった。事実だなんて認めたくなかった。でも今思い出した記憶は限りなく実際に起きた出来事と一致していて、僕が生きているこの現実を否定することなんて出来なくて。
「私の心臓を君に移植するようにお願いしたの。たまたま君の身体に私の心臓が適合したんだよ。奇跡だよね」
全て理解してしまった。全てを思い出してしまった。その瞬間、僕の頬に一筋の涙が伝った。
彼女は、死んだ。その心臓は僕の胸にある。そう、この僕の音は彼女の心だ。彼女が今出てきた理由、それはきっとこの現実を僕に伝えるため。
「……ありがとう」
素直に、そんな一言を彼女に伝えた。大粒の涙を流しながら、僕は自分の胸を押さえて彼女をまっすぐと見つめる。
「ありがとう。僕を生かしてくれて」
その言葉を聞いた彼女は、これまでのどの笑顔よりも眩しく、明るく笑った。
「さようなら。優希」
「ああ、さようなら。紅月」
そうして、僕は彼女との別れを告げた。……といっても、彼女は生き続ける。僕と共に、僕の心の中で。
それから、僕は先程の喫茶店に戻ってきていた。
無賃で出ていって結構な時間が経ってしまったのにそのお店の店主さんはひとつの文句も言わずに優しく許してくれた。
僕は申し訳なさからもう一度コーヒーを頼んで、先程の席へと座る。
全ての記憶を思い出した僕は、この店のことも思い出していた。
ここは、僕が紅月と初めて出会った日に行った場所で、僕が告白をした場所だ。
あのドラマチックとは言えない出会いから彼女と関わるようになって、次第に僕は彼女に惹かれていった。
僕なんかで良かったのか分からないが彼女は僕の告白を受け入れてくれて、晴れて僕達は恋人という関係になったのだ。
ここは、その始まりの場所。僕が彼女に自身の思いを告げた場所。そう、彼女との濃く甘い時間の中で最も記憶に残っている場所だった。
「……苦いな」
店員さんから受け取ったコーヒーを一口頂く。それは先程と同じく苦いだったが、なぜか先程とは違うように感じた。
「でも、美味いな」
誰にも聞こえないように小さく呟く。さっき散々泣いたためもう枯れてしまったと思っていた涙が、再び溢れ出てくる。
「ここは、ヒント無しで思い出すことが出来たよ」
そうして、僕は再び窓の外を眺める。今度はゆっくりと味わうようにコーヒーを啜りながら。
外はもう太陽が姿を隠し、代わりに少し紅くて大きな月が輝いていた。