第55話 湖の見える丘で
その日の朝は平和なものだった。
一昨日のように角兎に喧嘩を売られる事もなく。
水の魔法で空中に作り出した水球で口を濯で顔を洗い、宿場町で買ったパンを食べたあと、ルーキス達は街道を歩き始めた。
しかし、今日は朝から空の機嫌が悪いようで、歩き始めた頃は明るかった空には次第に雲が広がって、いつの間にか早朝の薄暗さに逆戻りしてしまっていた。
「コレはひと雨来るな」
「今降られるとマズいわね」
「まあ任せてくれ。雨が降ろうが槍が降ろうが防いでみせるよ」
などとルーキスがニヤッと笑いながら言っていると、暗い空にゴロゴロという音が響き、次いでその音が響いてきた方向が激しく明滅した。
「う〜。雷は怖いです」
「はっはっは! 雷撃魔法に適性があるのに雷が怖いか。まあ自分のタイミングで使う魔法とは違うもんなあ。今のうちに雨避けの魔法を使っておくか」
フード付きのローブのフードを目深く被り、耳を両手で塞ぐイロハの様子を見て、ルーキスは笑って言うと、人差し指を立てて上空に円を描いた。
その円をなぞるように光の輪が現れ、その中に魔法陣が描かれ、ルーキス達の頭上を覆うように広がっていく。
丁度その時だった。
空に稲光が奔り、耳をつんざくような雷鳴が鳴り響いた直後、バケツをひっくり返したような雨が降り始めた。
「か、神様が怒ってるんじゃ」
「あの方が怒る、か。ちょっと考えられんなあ」
「え? 何か言った?」
「いんや。別になんにも言ってねえよ」
フィリスの言葉で転生前に声だけ聞いた、あっけらかんとした天上の上位存在の事を思い出し、ルーキスは苦笑しながら呟いた。
しかし、激しい雨音でルーキスの呟きはかき消され、フィリスとイロハにその呟きは届かない。
ルーキスの雨避けの結界で上空からの激しい雨は防げているが、地面に跳ね返った雨粒が次第にルーキス達の足元を汚していった。
それが嫌でフィリスとイロハは結界の中心であるルーキスに出来るだけ近付き、体を寄せて三人は歩いていく。
街道が続くままに小高い丘を登り始め、あと少しで頂上に着くと思った頃。
それまで激しく降り続いていた雨が嘘のようにピタリと止まった。
どうやら通り雨だったようだ。
「足が冷たいです」
「頂上まで行ったら足洗ってブーツ乾かすか」
ルーキスとフィリスは長いズボンだからまだ良い方で、イロハは短めのキュロットスカートにハイカットブーツなので素足にまで泥が跳ねている。
それをそのままにするのが可哀想だと思い、ルーキスは丘の上での休憩を提案。
フィリスとイロハはそれを快諾して、とりあえず丘の上までは足元の不快さを我慢しながら頑張って歩き続けた。
その甲斐はあったと言うべきで、小高い丘を登ったルーキス達は眼下に広がる大きな湖と、その岸辺に広がる町を見た。
目的地の町、オーゼロだ。
だが、ルーキス達は別の物に目を奪われていた。
虹だ。
まん丸とは言い難いが、岸辺に広がる町より遥かに大きく、岸から見れば海と間違えそうなほど大きな湖に鮮やかな七色の虹の橋が掛かっていたのだ。
「おお。絶景」
「ええ。綺麗ね」
虹と湖、通り過ぎた雲間から見える青空。
太陽の光も雲の隙間から柱のように地上に降って、ルーキス達の眼前には幻想的な絵画のような風景が広がっている。
「いやあ。コレがあるから旅はやめられねえんだよなあ」
「確かに、こんな良い景色が見れるなら旅はやめられないかも」
足を洗うのも忘れ、絶景を堪能するルーキスとフィリスの横で、静かにイロハが涙を流す。
啜り泣くわけでは無く、恐らくは自分が涙を流している事すら気が付いていないと思われるほど、イロハは景色を眺めたまま微動だにしなかった。
「どうしたイロハ」
「どうしたの? イロハちゃん」
涙を流すイロハに気が付き声を掛け、ルーキスは自分の服が汚れるのもお構い無しでイロハを抱き上げ、フィリスがイロハの涙を指で拭う。
その、涙でボヤける視界の先に、イロハは亡き父と母の顔をルーキスとフィリスに重ねて見た。見てしまった。
「お父さんとお母さんと一緒に、この景色を、見たかった、見たかったなあ」
絶景に感化されたか。
それとも御伽話に見る天国をこの景色から想起したか。
不意に亡き両親の事を思い出してしまったイロハが、遂に我慢の限界を超えて泣き出してしまった。
ルーキスはそんなイロハの背中をポンポンと撫で、泣き出したイロハに狼狽えてしまったフィリスに微笑むと「任せろ」と言わんばかりに軽く頷いて見せる。
咽び泣くイロハに「我慢しなくて良い。今まで我慢してきた分、泣けば良いさ」と、囁くように言ったルーキスはイロハの背中をポンポンと撫でて宥めていく。
しばらくそうしていると、イロハから咽び泣く小さな声や鼻を啜る音が聞こえなくなった。
泣き疲れたか、ルーキスにあやされ安心したか、いつの間にかイロハはルーキスの肩に頭を預けて眠ってしまっていた。
「イロハちゃん。やっぱりお父さんとお母さんが恋しいのね」
「そりゃあな。まだ十歳だろ? 両親が恋しいのは当たり前だ。可哀想にな。まだまだ甘えたい盛りだろうに」
イロハを抱きかかえたまま、ルーキスは再び丘の上から見える絶景を眺めた。
その横にフィリスが寄り添う。
「イロハの足だけ拭いてやってくれ、ブーツは俺が持つよ。俺たちの足も洗って、ブーツを乾かしたら出発だ」
「大丈夫? 重くない?」
「大丈夫。小さな子一人くらい、平気だ」
そう言うと、ルーキスは水の魔法で自分とフィリスの足元を水球で覆うとその水球を回転させてブーツを洗浄。
その後、水に濡れたブーツから水分を摘出して脱水すると、フィリスが足元に作り出した火球にて足元を乾かし、その間にフィリスにイロハのブーツを洗ってもらい、イロハの足も拭いてもらった。
「行こう。今日と明日はオーゼロでゆっくりして、イロハを休ませてやろう」
「イロハちゃん大丈夫かしら」
「それは、本人にしか分からんよ」
フィリスにイロハのブーツをバックパックに引っ掛かけてもらうと、ルーキスは困ったように苦笑しながら歩き出す。
そして、丘を下ってフィリスと並び、イロハを抱えてしばらく歩き続けたルーキスは、湖岸に広がる町、オーゼロへと足を踏み入れる事になったのだった。




