第162話 谷底の森
龍の谷。
レヴァンタール王国最西端の大地に南北に縦断するように刻まれた巨大な爪跡のような大渓谷。
その谷を見下して、ルーキスたちは下へ降りられる場所を探して崖っぷちを歩いていた。
しかし、階段などあるはずもなく、坂になっている場所を降ったり、ちょっとした段差を飛び降りたり、足場と足場を魔法で繋いだりしながら、ルーキスたちは探り探りで徐々に谷底を目指していった。
「深い谷ね」
「長い年月を掛けてこうなったんだなあ。自然の力ってのは本当に凄い」
「お爺ちゃんたち、どこから降りたんだろ」
「こう広いと痕跡も見つからんね。ロープとか縄梯子は朽ちてるだろうから尚更見つからないだろうし」
「ちょっとずつ降りるしかありませんね」
「いや。一つだけ一気に降りる方法があるぞ?」
そう言って、断崖の突起部に立っていたルーキスが、フィリスに近付いていくが、そんなルーキスの様子を見て、フィリスはいつぞやロテアで群衆から逃れるために自分たちを抱えて空高く跳んだルーキスの事を思い出した。
「待って! 飛び降りるつもりでしょ!」
「察しがいいな。その通りだ」
「下がどうなってるのかも分からないのに?」
「ドライアドのイヤーカフに反応が無いから毒は無いみたいだし、魔物が彷徨いてる気配もない。それに上見てみろよ、そろそろ雨ヤバそうだぞ?」
ルーキスの言葉に空を見上げたフィリスの目に、どんよりとした灰色の雲が見えた。
確かにルーキスが言う通り、今にも雨が降り出しそうだ。
「でもアレ怖いのよねえ」
「そうか? イロハは飛ぶ気まんまんみたいだが」
命綱なしの飛び降りだ。
フィリスが渋るのも無理はなかったが、一方でイロハは乗り気で、ルーキスの手を握った。
「ほれ行くぞ。雨に濡れて足滑らせて、落ちるよりはいいだろ?」
「どっちも嫌だけど。落ちるならルーキスと一緒がいい」
「そりゃ光栄だ。じゃ、行きますかね」
そう言うと、ルーキスは空いた手でフィリスの手を握り、休憩していた断崖の突起部の端に立った。
「しっかり掴まってろよ?」
「言われなくてもしがみ付くわ」
「せーの」
「軽いなあ」
ルーキスの掛け声で勢いよく跳ぶ三人。
しばらくは放物線を描いていた三人だったが、それもほんの一瞬の話。
ルーキスたちは重力に引かれて谷底に向かって落下していった。
「怖いってえ!」
「フィリスは怖がりだなあ」
「そういう問題じゃなぁい!」
ルーキスの腕にしがみ付き、絶叫するフィリス。
一方でイロハはというとルーキスと同じように自由落下時の無重力感を楽しんでいた。
「イロハ! 背中に捕まっててくれ! 減速する! 舌を噛むなよ!」
風の音に掻き消されないように叫んだあと、ルーキスはイロハが背中の荷物に捕まったのを確認すると、手をかざし、重量軽減、風圧障壁、結界と複数の魔法を同時に発動した。
これにより地面に降り立つ前に三人分の落下エネルギーを完全に相殺し、ルーキスたちは眼下に見えていた森の木の枝を折ながら何事も無かったかのように谷底の地面に着地した。
「着いたのです」
ズリズリと、ルーキスの背中の荷物にしがみついていたイロハが着地して満足そうに微笑む。
そんなイロハとは打って変わって、フィリスはルーキスにしがみついたまま茫然自失といった様子だ。
「地面最高。私もう絶対に飛び降りなんてしない」
「慣れればどうってことないんだがなあ」
腰が引けてるフィリスの様子に苦笑し、ルーキスは辺りを見渡す。
自分たちの後ろには飛び降りた断崖が空までそびえているが、目の前には木々が生い茂った森が広がっていて対岸の崖は全く見えなかった。
「さてさて。仇の龍を探す前に雨宿り出来る場所でも探すかね」
「ちょ、ちょっとだけ休憩しない?」
「足でもすくんだか?」
「そ、そうよ。悪い?」
「フィリスは可愛いなあ」
「ば、馬鹿にしないでよ!」
「本心だよ。馬鹿になんかするもんか。取り繕って無茶されるより百倍マシだ。しばらく休憩したら出発しよう。とはいえ、これだけ木が生い茂ってりゃ、案外雨は平気かもしれんがね」
そう言って、ルーキスはフィリスを横抱き、いわゆるお姫様抱っこしてイロハを後ろに連れて一番近い木の根元まで歩くと、そこにフィリスを下ろし、荷物を下ろすと自分はフィリスの隣に座った。
「変な場所。これだけ緑豊かなのに、動物や魔物の気配がしないわね」
「静かだよな」
「私たちだけしかいないみたい」
フィリスはそう言ってルーキスに体を預け、頭をルーキスの肩に乗せる。
そんなフィリスを真似するように、イロハもルーキスの横に座って寄り掛かった。
「気配を隠すのが上手いのか、はたまた龍に怯えているのか。今はワイバーンの巣になってるって話だったけど、崖の上でしか見てないんだよなあ」
そう言いながらルーキスは感知魔法を発動するが、引っかかったのは隠れている小動物や木に止まっている鳥類くらいで、谷に棲むはずのワイバーンの気配は感知出来なかった。
そこからしばらく休憩し「そろそろ行くか」と立ち上がったところで森の木々の葉を雨粒が叩き始めた。
しかし雨足が弱いのか、地面まで雨は届かないようで、サーッという耳に心地良い音だけが響く。
その時だった。
遠くから「グオォオ!」っという明らかに魔物と思われる咆哮が響いたかと思うと、森のどこかに雷でも落ちたのかと思われるような雷鳴がルーキスたちに響いてきたのだった。




