第七回・最終回
「第七回」・最終回
その後重人の容態は相変わらず食欲のない日が続き点滴で持ちこたえるといったような状態だった。毎朝司郎が出勤前に立ち寄り昼前にはハナが病室を訪れた。夕方には睦子と司郎が交互にハナと交替するかのように顔を覗かせた。体力の落ちてきた重人は次第にひとりで動くのも億劫になり彼らの支えをかりて部屋で用便を足すようになってきた。さらに床擦れはひどくなり始終痛いと言っては寝返りを打った。
大阪にいる俊治は黄疸のことが一番気になっていた。あの鼻を突いた異臭が頭から離れず重人の体は確実に蝕まれていると思った。果たして本当に癌なのか。主治医は少なくとも血液の生検においてはその疑いは今のところ出ていないと言った。安心していいのだろうか。しかしなぜ肝心の細胞検査を行なわないのだろう。ステントの交換にしても急がず再びチューブを脇腹から挿入して胆汁を体外に排出する治療に戻ってしまった。だが今回はその様子が違った。あまりにも前回の入院の時と比べて黄疸の症状が一向に退かないし広がり方が深い。食も進まないし衰弱が顕著だ。やはり連休の続く前にステントの交換を行なうべきだったと俊治は何度も思った。
足立が言っていた放射線科の山口のことを思い浮べたのは二月に入って最初の水曜日のことでその日はひと月近くも延ばされていたステントの交換を受ける日に当たっていた。俊治は休みをとって病院に駆けつけた。治療の行なわれる前に一度彼に会って相談してみるつもりでいた。放射線科のある一階東側の廊下を行くと昼下がりとあってか、どの診療室にも前に置かれている椅子には順番を待つ患者の姿はなかった。
「技師長ですか?」
放射線科の窓口で応対した白衣を着た若い男性は怪訝そうな目つきで俊治を眺めた。山口は技師長なのか。俊治は益々、心強い味方を得たような気がした。
しばらくしてからそのレントゲン技師らしい男性は食事じゃないかなとつぶやきながら奥の部屋へ消えた。窓口の向かい側には三つの部屋が連っていてそれぞれの扉に検査室一・二・三と記され黄色いレントゲンマークが付されていた。そしてそれらの白い扉は他の診療室の入口とはどこか趣きが異なっていて重く威圧を放ち冷たい光沢を放っていた。
「おう、久しぶりだな」
やがて背後から山口の声がして俊治は窓口の隣にある小さな事務室のような部屋へと案内された。
「年度末に近づくとこの通りだ。ここもいわばお役所仕事でね、予算を使ってしまわなければならないから院内でいろんな設備の改修工事さ。先週からうちの一部も修繕が始まったばかりで。おかげでここは引っ越し荷物用の置き場だ」
そこは技師長の部屋らしかったが彼の机の上は背の高さくらいに積みあげられた書類の山で窓のない壁には移されてきたと思われるロッカーが二つ無秩序に置かれていた。足場の狭くなった応接セットのソフアーの横で鉢植えの観葉植物が光を失った葉脈を垂らしていた。空調機の暖房がほどよく効いていてその低い振動音が部屋を支配していた。
「実は親父の症状なんだけど主治医は腫瘍とも石ともまだはっきりとは断定できないって言うんだが」
俊治はこれまでの経緯を話した。検査は必ず放射線科で行なわれているはずだと思った。技師長である山口なら当然すべてのデータを知っているだろう。だとすれば担当医の見解も彼の耳に入っているだろうと俊治は読んでいた。
聞いていた山口の口元に困惑の表情が宿った。しばらく沈黙するようにして唸ったあと遂に観念したかのように写真で見たかぎりでは腫瘍と判断できると答えた。
「ただし良性のものかあるいはそうでないかは専門分野が違うのでここでは分からない。ただ今日も予定されているわけだけど狭くなった胆管にステントを挿入し出来るだけ胆汁の流れを回復するのが先決のようだ」
「腫瘍は本当は癌ではないのか」
俊治は尋ねた。それは内視鏡を通して撮影されその時その病巣の一部も採取されたに違いない。その閉塞部分のX線写真の読影から技師長の彼が腫瘍と断言するくらいだからそれは当然病理に回され検査されたはずである。結果は出ている。恐らく彼の耳にも入っているだろうと俊治は想像した。だが山口は依然としてそれには固い表情をしたまま、まだはっきりとは分からないと答えるのみだった。
暖房の空調音が鈍く響き続けた。身内であろうが同級生であろうが山口はそれを言わないだけだと思った。重人の体を刻々と蝕みその骨と皮を異臭で満たしていく癌という病巣の影が空調音に混じって俊治の脳裏を彷徨った。
「この種の例は比較的多くあってステントの交換だけで通常の健康体を維持出来る。ただ詰まるたびに交換しなければならないという手間が大変だが」
しばらくして山口は話題を変えた。
「もっともステントの種類によってはいったん挿入してしまえば管の襞に食い込んで半永久的なものもある。これは特に捌け性能のいい金属性のものなんだけど何しろ米国製で高いし注文してもすぐには入ってこない。僕はこれが一番いいと思っているのだけど」
「詰まってしまう原因はどうしてなんだ。挿入の仕方によるのか。それともそのステントの材質なのか」
俊治はとりあえずこれから先のことを考えずにはおれなかった。黄疸が全体を蝕むことを恐れた。
「思わないかも知れないがそこを流れる胆汁は単なるさらさらした液体ではないんだよ。時にはどろどろとしていていろんな不純物を含んでいる。結局、泥状のものが澱んで積み重なっていくようなもんだ」
山口は医師のような口調で説明した。
「閉塞箇所に対する挿入の角度とかによる影響もなきにしもあらずだがここの消化器内科の渡辺という先生は腕は確かだ。ただちょっとした変り者でねぇ、少しでも自分の体調が悪いと最初からやらない」
苦笑しながら山口はステントを扱う医師の批評をしていた。そしてその先生が今日の重人の治療を行なう予定になっていると言った。それから再度内視鏡を扱う医師ではまだ若いがこの先生が一番うまいと強調した。
治療の予定時間がきた。いったん大部屋の病室に戻ると京都の茜も来ていてハナと雑談をしていた。重人は二人の会話に耳を傾けながら黄色い口元をときどき弛ませては静かに白い歯をのぞかせていた。脇腹につながった胆道ドレナージのチューブにどす黒い粘液が固まりのようにへばりついていた。
俊治は先に茜と一緒に一階の放射線科の治療室の前に行って待つことにした。検査室一の白い扉がすでに開いており部屋のなかの一部が見えていた。眼の前の廊下をときどきせわしなく看護婦や医師が往来した。
「ステントがちゃんと入ればええんやけどなあ。なかなかむずかしいんやってなあ。去年なんかだいぶ入れるのにかかったらしいよ。お父ちゃんもよう辛抱したと思うわ。先生の指示どおり体をあっちこっち動かしながら。ものすごく痛かったらしいよ」
茜の言葉が虚ろに響いていた。俊治の頭の中は石ではなく腫瘍だったという衝撃で揺れていた。あとはそれが良性のものかそうでないかが残された最後の砦だと思った。茜にはそのことは黙っていようと思った。
やがて車椅子に乗った重人が看護婦に付き添われてやって来た。ハナもそのすぐうしろを歩いていた。車椅子は検査室一のなかに入っていき三人はその扉の前で見送った。しばらくして白衣の下にプロテクターを着込んだ医師と看護婦が現われ急ぎ足で同じ検査一の部屋に消えその白い扉は閉められた。俊治の眼にその医師の容貌があまりにも若過ぎるという印象を与えた。どこか医大生を思わせるような初々しさがこぼれ落ちていたように見えた。また研修医ではないのか。俊治は嫌な気分に襲われた。
そのあと二、三人の白衣姿のレントゲン技師らしき者がその扉のなかに入りあたりはようやく静まったかに見えた。これで関係者はすべて部屋のなかへ集合したかに思われた。品野外科部長の姿は結局見えなかった。。それからしばらくたってからひとりの不精髭をした白衣姿の男が廊下の向こう側からゆっくりと現われた。熊のような風貌をした男で背を丸めて歩きながら検査室一の前を通り過ぎようとしていた。折しもその時後方から「渡辺先生っ」という看護婦の弾けるような声がして果たして振り向いた彼は彼女の指差す検査室一の扉に向かって後戻りをしたのである。
廊下の外れで医療機器や部屋の備品を運び出す音がしていた。片方では電気鋸が壁を切り裂く音が流れていた。山口の言っていたとおり院内では一部改修工事が行なわれているのだった。
たとえ半永久的なステントが手に入ったところで癌には勝てない。胆道ドレナージに固まった粘液はそのうち枯渇して奈都子のいう手遅れになってしまうかもしれない。腫瘍が良性のものであれば主治医は自信をもって言ったはずだ。俊治は暗黒の淵に浸りながら思わず奇跡は起らないものかと願った。時折傍らで話すハナと茜の会話が耳に聞こえていた。
「本人は戦友会に出るつもりなのかしきりに準備のことを気にかけて」
「でもお正月のときは元気そうだったもの」
「それが松の内を過ぎた頃やったか変なことをぽつんと言っていた」
「なんて?」
「七十六も生きたんやからこれで良しとしてもいいかなあって」
益々何か嫌な予感を感じさせるような語彙ばかりが耳に入った。
静まり返った廊下に人の往来はなく相変わらず遠くで部屋を改修する工事の音が鈍く鳴り続けていた。
小一時間ほど経って突然検査室一の扉が開いた。最初に出てきたのは渡辺先生だった。あとから二、三人の関係者がばらばらと続いた。しばらくして車椅子に乗せられた重人が憔悴しきった身体を横たえながら出てきた。薄眼を開けてはいたがその顔面は蒼白だった。すぐハナが歩み寄って付き添いの看護婦のあとにつきながら再び病室へと向かって行った。
渡辺先生の姿はすでになくあっけにとられて見送っていると、
「家族の方ですか?えーっと説明しますので」
と息を弾ませながらプロテクターを着込んだあの研修生のような若い医師が最後に部屋から出てきて俊治と茜を見つめた。
「詰まっていたステントは取り出しました。新しいステントを挿入したのですがサイズが合いませんでした。従って今日の治療はとりあえず古いのを抜いただけにしてあります。新しいサイズは注文しなければなりませんので四、五日はかかると思われます」
「四、五日?」
俊治は唖然とした。
「そのままの状態で放っておいても大丈夫なんでしょうか?」
茜が心配そうに尋ねた。
「心配ないでしょう」
背の低い青二才のようなその医師は淡々と答えた。まだ学生という感じがした。
重人が再び個室に移されたのはそれから二週間後のことだった。急に肺炎を併発させたのである。新しいステントの交換はそのため見送られることになった。病状は一層抵抗力の弱まった重人の体を蝕み日を追うごとにその深い淵の正体を表わし始めた。大小便も介添えがなければ出来なくなった。また咳き込んでは淡緑色に濁る粘りのある痰をひっきりなしに吐いた。熱が退かず口数も少なくなった。だが戦友会のことだけは気にしていた。俊治が見舞うと割引証を一枚だけ残しておいて欲しいと忘れずに言った。
病院の一部改修工事がやがて彼の病室の個室にまで影響を及ぼすようになり土曜日や日曜日には終日機械の音が響くようになった。重篤の患者にとってそれは最悪の環境といえた。しかし病院はそんなことにはまったく無関心で患者のことより工事の方を優先しているように思えた。
連日ハナは病院に通い夜遅く帰った。俊治が二月の始め家に帰った時ハナはかなり疲れていた。疲労困憊したハナと炬燵にあたりながら俊治は迫り来る重人の最期のことをぼんやりと考えていた。ハナも同じことを想像していて最早覚悟を決めているようだった。二人は口には出さずただ黙って暮れていく冬の茶の間の天井を仰いでいた。明りもつけずにいる部屋の中を古ぼけた柱時計の音だけが静かに時を刻んでいた。壁の聖書のカレンダーの文字が空しく俊治の眼に映っていた。
「奇跡よ起きてくれ」何度もそう思い続けた。
覚悟はしているとはいえ俊治はやり切れない思いのままその日の夜遅く列車で帰るためF市駅のホームに立っていた。折からの寒波で駅構内には小雪が舞っていた。向かい側の番線で車両の入れ換え作業をやっている様子を列車の待つ間何となく眺め続けた。連結手の振る赤いランプが異様に眼の前で焼き付きどうしょうもなく無念な気持ちに襲われた。「奇跡はこの世にあらへんのかいなあ」と諦め切ったようにつぶやいていたハナの声が耳に残っていた。
雪は夜の構内に益々降りしきっていた。
主治医は点滴の量や投薬の種類を変え二月の中頃には輸血を二回に渡って行なった。ちょうど二回目に輸血を行なった日に俊治と奈都子は病室に来ていた。若い看護婦が慣れない手つきで輸血用のパックを取り付けようとしていた。部屋の中はいろんな機器類が持ち込まれ足の踏み場もないくらいに狭くなっていた。彼女が緊張していることは一目で分かった。案の定それはうまく支柱台に掛けられず二人の見つめる視線を意識してか遂にはその血液パックを床に落としてしまった。彼女は泣きそうになりながらすぐさまそれを拾い上げて取り替えるために部屋を出ようとしたが、「いい〱、大丈夫」と奈都子が呼びとめた。奈都子はその血液パックを彼女から受け取ると形状を確かめながら「大丈夫だから」と優しく彼女に言った。
普段の俊治なら床に落ちた血液などいかにパックに入っているとはいえ不衛生である印象を拭え切れなかったことだろう。奈都子だって尚更のことである。それなのに二人とも何故か苛立たなかった。俊治はこの時初めてこの病院の誠実さを感じたような気がした。彼女の幼くて清純な姿に心を打たれたのだろうか。俊治は彼女の着けていたナースキャップに見習いを表わす印があったことを見逃さなかった。
輸血の結果何とか肺炎による危機は脱したかにみえた。しかし、その日を境に毎晩兄弟が交替で重人の個室に泊まり込んで看病することになった。完全看護とはいえ痰が詰まった時ボタンを押してもしゃべることの出来ない非常時を考えてのことだった。
いよいよ俊治は予断を許せない日が近づいていることを頭の隅で直感していた。泊まり込む割り当てを決める前日、俊治は司郎と克巳を呼んで病院の近くの喫茶店に入り今のうちにしておくべき段取りをも含めて語り合った。今更治療に対する不満を述べてみても始まらなかった。結局俊治は最後まで洗浄ミスの件については司郎に明かさなかった。
「異動の時期と重なりそうだなあ」
司郎がぽつんと溜息をついた。
店内に置かれた水槽の中で小さな熱帯魚の群れが絶え間なく俊治の妄想を駆り立てていた。
本当に奇跡は起こらないのだろうか、俊治は司郎にも克巳にも気付かれないようにして密かに思い続けた。
冷たい空気がどこからともなく忍び込んでいた。二〇一号室は去年の二〇五号室とは真反対の東の外れである。三月に入ってから俊治にとっては二回目の泊まり込みであった。消灯時間も過ぎ暖房の音も切れた。このところ夜になると眠れないと訴え睡眠薬をもらっていた重人だったが今夜はどうやら寝鼾をかいている感じだ。俊治は重人のベッドのすぐ横に添うようにしてボンボンベッドを並べ毛布にくるまっていた。入口の天窓に映る薄暗い廊下の明かりをぼんやり眺めながらこれからのことを考えていた。
サイズも揃えずにステント交換を行なったことに奈都子は呆れ返っていた。そして今度こそ致命的に病院を変えるべきだと憤慨し自分の勤める市民病院に今なら移せるから司郎に相談してみたらと主張した。そのことを話すと司郎は途中からそんなことは出来ないと電話の向こう側で怒っていた。闇のなかでその言葉が反芻されては浮かび上がってくる。司郎にも立場があった。それに最早重人の容態は動かせる身体ではなかった。
突然闇のなかで何かが這ったような物音がして俊治は反射的に重人のベッドに眼をやった。
「おい、寒い」
と聞こえた。重人の声だった。掛けられた毛布が半分めくれていた。枕元の蛍光灯をつけ俊治は起き上がって重人の顔を覗き込んだ。
「布団をかけようか?」
と言いながらよく見ると重人は眼を見開いていた。足元の隅に置いてあった掛け布団を取り出し毛布の上から被せた。
「足を揉もうか?」
眠れないのだと思った。俊治は膨れ上がった重人の両足をさすった。それから二度物音がしてその都度俊治は飛び起きた。掛け布団がベッドの下に半分落ちかかっているのだった。そして激しく咳き込んでは咽びほとんど十分おきに痰を口中に詰まらした。粘りのある淡緑色の痰だった。俊治はティッシュを持ったまま重人の傍に立ち尽くした。
重人はそれから眠らなかった。ますます眼が据わっているように見えた。何もしゃべらなかったし苦しいとも言わなかった。熱をみてもあるとは思えなかった。ときどき便意を催すらしくしきりに便所と言った。しかしその段取りにとりかかると何もなかったように首をふった。
痰が落ち着いて静かになりかけた。夜中の二時をまわっていた。再び俊治はボンボンベツドに横になった。その時それまで潜んでいたと思われる記憶がふいに炙り出されるように俊治を襲った。それは奈都子が言っていたことであった。転移の兆候は先ず胸に水が溜まりそれから脳の方へいきだすのよ。その言葉は稲妻のように安堵しかけた心の中を貫いた。見上げる入口の天窓に外気で凍った薄明かりがぼんやりと見えそこには癌という文字以外浮かんでくるものはないように思えた。
その時、闇のなかで深みに陥りまるで彷徨うようにしてぼんやりとした眠りに翻弄されていたようである。会話が途切れ途切れではあるが俊治の頭の上で聞こえていた。当直の看護婦がいつのまにか部屋に来ていて重人としゃべっている。
「橘さんどうしたんですか?」
「帰らなければならない」
「どこへですかぁ?どこへ帰るの?」
「家へ」
「なぜ?」
「会社へ出なければならない。早く行かなければ遅れてしまう」
重人の意識は混濁していた。必死で訴えている様子が闇のなかで伝わってくる。
「でも今は夜だから無理でしょう?ぐっすり眠って明日になってから帰りましょう」
「そんなことを言っていたら遅れてしまう。早く帰らなければならない」
「外は真っ暗よ」
俊治は息を殺して幻のような光景のなかに漂っていた。家へ帰りたいという重人の願いは俊治の胸を震撼させた。初めて衝撃を与えるようなその言葉は一挙に眠気を醒めさせ話す内容の異常さはあってもそれが真摯な願いであることを知らされた思いがした。混濁した意識のなかでこれほどまでに焦がれている一縷の喘ぎがあろうとは思いもよらないことだった。ここはどこだ?というようなことをそれから何度も彼女に聞きそして二言目には時間に遅れると言っては家へ帰るのだと繰り返した。しかし相手をしているその若い看護婦の名前は正確に当てているらしく時々重人は宇田さんと呼びかけていた。
宇田看護婦は根気強くその相手になっていた。話は延々と続き彼女の説得も要領を得ていた。
「家はどちらですか?」
「二宮神社の近くでは随分と遠いわ。今からら帰るには大分かかるわよ。明日になさい。眠れないですか?」
実家の近くに二宮神社なんてなかった。微睡み続ける俊治の脳裏の奥でやがてここ数日間における重人の様子を語った兄弟たちの報告が交錯していた。交替で泊まていたみんなは一様に重人の夜中のうわごとや彼が話す内容の異常さを伝えていた。今夜もこうして朝方まで眠らないのだろうか。
浅い眠りを装って寝返りを打つと少なくとも正気だった最後の頃が急に思い出されて胸が熱くなって来た。果たされるはずもなかった戦友会のことを最後まで気にかけていた様子で工事中の騒音が響く病室のなかで宿泊予定先の旅館に直接電話を入れて私は行けないが呉々もよろしくと頼み込んでいたのである。その使われるはずのない一枚の割引証が今、約束通り重人の頭床台の引き出しの中に仕舞ってあることを思うと切なくてやるせなかった。
「痛みはないですか?」
宇田看護婦は何度もこう言って問いかけていた。そして眠れますか?と重ねて尋ねた。
「今日は遅いので明日になったら家へ帰りましょう」
俊治の耳にこの言葉が子守歌のように繰り返されて入っていた。次第に重人も家や会社の話をしなくなったのが伝わってくるようだった。しばらくは枕元の蛍光灯の音だけが静かに鳴っているような沈黙が続いていたように思えたが不意に最初から会話のあいだじゅう痰を吐き出すこともしなかった重人の声に急に艶のある落ち着いたつぶやきが洩れた。
「庭の桜が満開ですよ宇田さん。見に行ってごらん」
「……」
「大きな桜の木だ」
「桜ですか?もう咲いているのですか?」
虫の知らせにでも弾かれるようにして俊治は起き上がろうとした。
「そう。そこの庭のね、桜ですよ」
「ああそう、もう咲いてるの?」
相槌を打つ宇田看護婦の声は落ち着いていた。その沈着で寛容ある冷静さが俊治の動きを制した。結局起き上がることが出来ないまま俊治は息を殺して耳を澄ませながら迫り来るその終末の影を凝視するしかなかった。
凍りつく早朝の外気がやがて部屋じゅうに侵入し始めていた。
二週間後、重人は逝った。四月になったばかりの晴れわたった風の強い朝で本当に病院のその庭の桜の木が満開になっていた。遺体を受取り病院を去る時玄関に大勢の関係者が並んだ。血液パックを落とした例の新人の看護婦は眼を真っ赤に泣き腫らして見送っていた。
どうしても帰りたいと言っていた言葉が思い出され、家に着いた時俊治は一気に胸が熱くなった。司郎らと棺を抱えながら中に入り床の間の前まで運んでいつも祈りを捧げていたという場所にそれを下ろした瞬間こらえていた涙が堰を切ったように溢れ出た。止めどもなくそれは流れその箇所の畳の上に落ちた。
「帰ってきたよ、親父」
何度も俊治は喉の奥で呼び掛けた。
通夜は翌日の夜中山牧師の教会で行なわれた。その日牧師は驚くべき偶然の出来事について披露した。重人が亡くなった日に教会の鐘が届けられということだった。不思議なことはもうひとつあった。重人が亡くなったのは朝の七時五十二分であったのだが通夜が終わって午後九時頃みんなが家に戻ってきた時安展が不思議そうに茶の間の柱時計を見てつぶやいたのである。
「七時五十二分で止まっている」
みんなは一斉にその古ぼけた柱時計を見上げて息を呑んだ。
「ほんまや出るときは動いていたのになあ」
「お爺ちゃんの亡くなった時刻や」
みんなは口々に叫んだ。
告別式の朝俊治は二階の部屋で喪主のハナに代わってする挨拶のことを考えていた。窓から爽やかな風が入り空は晴れ渡っていた。挨拶の文言を暗記しながら俊治は昨夜の出来事を思い浮かべていた。鐘のことも柱時計のことも実は重人の霊魂がもたらした業であったに違いない。みんなに対する永遠の贈り物のしるしだったのだろう。
挨拶文の文言の中で敬虔なクリスチャンであった親父が‥というくだりにくると俊治は何故か何度もこみ上げきて仕方がなかった。
「ツバメや」
突然階下で喚声が上がった。開けていた家の玄関にツバメが舞い込んで来たらしかった。子供達の声に混じって茜やハナの驚いたような弾んだ声も伝わってくる。
「巣を作りに入って来たんやわ」
「めずらしいことやなあ」
「春が来たっていう感じがするねえ」
兄弟たちの明るい声がいつまでも飛び交っていた。
俊治は賑やかな階下を想像しながら再び挨拶文に眼を通した。