第六回
暮れに親父の快気祝いのお返しが届いた時奈都子はびっくりしていた。
せけるたちだからと俊治は笑っていた。それから五日ほどたって大晦日を迎えた。新しい年が明けて元旦の夜、F市の実家に総勢二十一名の橘家全員が顔を合わせた。それは毎年恒例となっていたがその年は格別の思いが込められていた。最初に例によって重人は主の祈りを捧げ、終わったあとひとことみんなに挨拶した。
「去年はみんなに心配かけてすまなかった。今年は健康にはくれぐれも注意したい」
としみじみと語った。その顔色はまだ以前のようにはいかなかったがみんなは取りたてて気にはしていなかった。まだ病み上がりだから仕方のないことだと思った。
三が日が過ぎてそろそろ正月気分も抜けようとしていた寒い夜、帰宅した俊治を待っていたのは突然重人が再入院したという知らせだった。まさかという思いと嫌な予感がその時脳裏を貫いた。それは気にかけながら忘れかけていた不安ではあったがそれが現実に的中してしまったのだ。
「倒れたのか?」
俊治はせき込むように奈都子に尋ねた。
「五日の日に新年会に顔を出すため雪の散らつくなかを出掛けたらしいのよ。それから熱が出たらしくて風邪を引いたんだって。それに退院してからちょうどひと月にもなっていることだし入れてもらっているステントの様子も診てもらうついでもあったらしいんだけど。そしたら即入院だって」
奈都子はハナからの電話の内容を伝えた。
「ステントを診てもらったのか」
単なる風邪で入院するわけがないと俊治は思った。
「今日の様子ではまだそこまでは検査してないんじゃない。何も言ってなかったわ」
俊治は妙な気がした。このひと月はまさに仮の退院だったのか。
「ステントの関係でないのならなぜ即入院なんだ?」
「知らないわ」
「聞いたんだろ?即入院の理由を」
「だからお母さんが言うには風邪を引いて調子が悪くなったんでこじらせたら大変だから大事をとってとりあえず入院したんだって」
「とりあえず?」
「そう。とりあえず入院しなさいって病院に言われたらしくて…」
俊治は益々嫌な予感を感じた。深い淵から次第に目醒めてくる病魔の再発を想像した。詰まったステントを思い浮べこれは風邪のための入院ではないと思った。奈都子の言っていたことが起こったのである。ステントはあくまでも一時的な処置なのだ。詰まれば取り替える。その繰り返しに過ぎない。根本的に病巣を除去したわけでなく病気はまだ続いているのだ。挿入するのに悪戦苦闘した品野医師の姿と再び病魔と直面する重人の顔が深い淵の底でうごめいていた。
「司郎も主治医から何も聞いてないのだろうか」
「多分…何も」
奈都子は返事してからそのまま黙った。
病巣の正体を今度こそ悟らなければならない。訪れようとしている事態はこれまで仮の退院を装って少しも絶滅することなく同じところで潜んでいたというのか。徐々に這い上がってくる不安の方がしばらく保っていた期待を次々と砕いていった。閉塞の原因はやはり癌なのか。
「退院してから動き過ぎよ。第一快気祝いなんてそんなすぐにするもんじゃないわ。ひと月もたってないじゃない。お母さんも言ってわ。退院してからそりゃあもう何かに取りつかれたように何から何まで片付けようとしてたって。お返しの品を選ぶ時でも寒いなかを一日中歩き廻って。ちょっとやそっとの数じゃないのよ。見たでしょ?お見舞いの数。あれだけの人へのお返しなんて一日やそこらで出来るもんじゃないわよ。いくら気がせけるったってまだ病み上がりなのよ。三ヵ月近く寝ていた人がそんなに出歩いて無茶よ」
奈都子はお茶を入れながらしゃべっていた。
「言ってみればこの時期は退院したといっても安静の時期よ。それにほかにも言ってたわ。毎日毎日床の間の前に坐って聖書を読み続けていたんだって。入院したために予定していた計画がずいぶん狂ってしまったからと言って。暮れは暮れでいつもの量の年賀状を夜遅くまで書いたり。七百枚近くよ」
重人は新居を建てた時から床の間の前に坐って聖書を読み讃美歌を歌いそのあとで短い祈りをするのだった。この習慣は二十数年一貫して変わっておらずそのためその床の間の前の畳は重人の座る位置の部分だけが擦り減って変色していたのである。
「正月の時もあんなに大勢が押しかけたりして。そっとしてあげるべきだったのよ。私思ったのよ、あの時のお父さん楽しそうにしてはったけど本当はずいぶん疲れてたんじゃないかなって」
「それとビンゴゲームやったでしょ?」
俊治は何を言い出すのかと思いながらお茶を啜る音を止めた。
「お父さんに当たったあの時の景品が写真を入れる小さな額だったでしょ?一瞬私、想像しちゃったのよ。いやーな気がしたわよ。よりによってお父さんに当たるなんて」
言われてみればやはり縁起でもない景品だったと俊治も思わずにはいられないような気がした。
「考え過ぎだよ…」
軽く一蹴したものの嘲笑出来なかった。啜る茶の音にぎこちないわだかまりが残った。
「現にあの時お母さんも笑いながらおっしゃってたじゃない。なーんかこの額のなかにひとの写真が納まるようで気色悪いなあって。それで大笑いになって安展くんの砂時計と替えたんじゃない」
実際それは安展の景品と交換されたのだった。しかし今奈都子からそんなふうにして聞かされると何となく正月早々に縁起の悪い予感が忍び寄って来ているような嫌な気分だった。
「それにしてもお母さんも一番言っていたのは五日の新年会だわ。もう役は降りているというのに会社の偉い人ばかりが集まるから出ないわけにはいかないって無理して出席したっていうじゃない。本当はその日風邪気味でしんどかったっていうのに、無茶もいいところよ。しかも雪の降るなかをよ」
「ちょっと無茶だな」
「ちょっとどころじゃないわよ。とにかく無謀よ。動き過ぎよ。安静にしていなきゃならない時期にこれだけ動き廻ってどうにかならないはずがないわよ」
奈都子の声は次第に興奮し同時にそれは溜息の連続に変わっていった。退院を契機にあまりにも重人は無理をし過ぎている。しかもそれを敢えてし過ぎているような気がした。無論、退院後の養生についてはじゅうぶん心得ているはずなのに何故敢えて急いだのか。俊治にはその行動のひとつひとつが単に性格からくるものだとは思えなかった。何かに駆り立てられたとしかいいようがなかった。仮の退院の意味をこの時重人はすでに気付いていたのだろうか。朦朧とした癌という啓示が重人にははっきりと読め、時間のないことが重人を駆り立たせたというのだろうか。
俊治にとっては単なる風邪という理由が怪しい隠れ蓑に思えて仕方なかった。
新しい年が明けて初めて俊治が病院を訪れたのは一月の中頃で連休を控えた金曜日の午後だった。京都の姉夫婦と相談してこの日に合わせた。今日は主治医の話を三人で聞く予定になっていた。病室は二○八号室で前回の時と同じように廊下をはさんで北側にあった。ひと月ほど前に入っていた二○五号室からふたつ西寄りにあった。今度の二○八号室は大部屋になっていて同室には五人の患者が入院していた。重人のベッドは二つある窓際のうち左側であった。
「休みがとれたの?」
先に来ていたハナが俊治の姿を見て言った。
「どう、具合は?」
俊治は重人の顔を覗き込んだ。
「来てくれたのか」
真っ黄色な皮膚と眼がそこにあった。俊治はこれまで見たことのないような重人のやつれ切った表情を感じた。俊治の胸のなかで何かが激しく砕けていた。それでも重人は無理に口元をほころばせようとしていた。
「姉さんはまだ?」
ハナに尋ねた。呆然と見つめていた俊治のためにハナは周りから椅子を探しそれに掛けるように促しながらもうすぐ来るようなことを言った。隣の半分開いたカーテンの隙間から隣りの患者のベッドの一部が見えた。息を殺してこちら側の様子を窺っているような気配が感じられた。
「相部屋になったんだねえ」
「そおなんよ。個室はいっぱいらしくて」
前回が個室だっただけに不自由さを感じるのかハナは不満そうに小声で言った。
「個室なんてよほど病状が重い人が入るところだよ」
「そうでもないらしいよ希望すれば…」
今回は司郎も言い出せないのではないかとふと思った。
「風邪はどうなの?」
俊治は再び重人に話し掛けた。今は点滴も胆道ドレナージもない。ただベッドに横たわっているだけである。
「だいぶよくなった」
力のない声が返ってきた。これでいいはずはない。俊治は最初の一瞥が与えた残骸の余韻に怯えながらただ複雑にうなずくしかなかった。風邪とは別に黄疸がひどくなりつつある。司郎に相談して個室に移して貰えないかを真剣に考えていた。これだけはっきりした症状があるというのに本人はまだ本当に風邪で入院したと思っているのだろうか。
「ステントの具合はどうなの?」
「今度の検査で分かるらしい。来週その検査の予定だ」
絞りだすように喘いだ重人の声が戻ってきた。検査はとっくに終っているものと俊治は思っていた。再入院して一週間近くにもなるというのに肝心のステントの検査すら行なわれていない。例によって悠長な病院の姿勢に居たたまれない焦りと憤りを覚えた。
「こんなに黄色くなっていていいはずがない。早くステントを検査しなければ」
俊治は苛立つようにして言った。単なる風邪で入院するわけがないとは思っていたが最も急がなければならない検査が未だに置き去りになっているとは思いもよらなかった。
「詰まっているのやろか」
ハナが黄疸症状の表われている膚を眺めてつぶやいた。俊治はその原因である病巣の正体が再び活動し始めていることに気付いていた。ステントはひと月も持たなかったのだ。心の隅で密かに信じていたものが徐々に崩れかけていた。
窓際に鉛色の真冬の薄日が澱んでいた。相部屋に静かに潜む息遣いが時々黙り込んではお互いを牽制し合うように漂っていた。隣の患者が寝返るたびに揺れる小さな振動がそのカーテンの裾に伝わっていた。見舞いに来ていた入口の患者の家族が時折洩らす短かな嬌声が一瞬部屋の空気を破ったりもした。しかし閉ざされたように無口になってしまった俊治の心は病院に対する苛立ちよりも再び胎動し始めた正体に対する恐れに覆われていた。
京都の姉夫婦がやって来たのは一時を回っていた。
「あ、思ったより元気そうやないの」
茜は相変わらず楽天的な快活な声を弾ませながら部屋に入ってきた。義兄の忠雄は冷静さを装ってか茜とは対照的に慎重な表情で重人を見つめそして低い声で重人に挨拶した。茜はあたりを見渡しながら風邪はこじらせたら大変やからなあと言いつつしばらくしてからハナにに小声で今度は大部屋になったんやなあと囁いた。
俊治は忠雄と一緒に部屋を出て病院の食堂へ行った。例の冬の海の絵の下に坐って二人はコーヒーを飲んだ。重人の病状はかなり進んでいるというのがお互いの胸のうちにあった。食堂には誰もいなかった。燻らす煙草の煙だけが窓から射す薄日に映えて漂った。俊治は依然と脳裏に砕け散った最初の印象を執拗に追い続けていた。
「正月に見たときとは全然違うなあ」
忠雄がしばらくして顔を曇らせるようにしてつぶやいた。
「これはわしの考えやけど病院は何か隠してるような気がする。お父さんの病気をはっきり言いよらん。あんなに黄色なって、また黄疸症状がひどなってる。前に入院した時に戻ってもた。本来ならその詰まっている原因を除去せなあかんのに、チューブを差し込んだところで病気そのものは治っとらん」
言っていることはよく分かった。しかし忠雄のいう病院の隠していることとは何を意味しているのかが分からなかった。
「詰まっている原因は分かっているはずや。分かっているのにそれを除去できない。最初からそれをやっていれば治ってたんと違うか?」
原因は石か腫瘍かいずれかであることは確かである。忠雄の言うとおりそれを除去すればステントは必要がない。
暗闇のなかに知らされていない隠されたものが浮かんでいる。それは自分自身が拒み続けてきたもののような気がする。俊治はその正体を見極めようとする反面もうひとつの自分と対立していた。最初からそれに触れたくない自分が生きていることに気付くのだ。それは知らされたくない小さな恐怖に似ていて決定的な審判が下されない限りその正体を信じることが出来なかった。
「まあ、今日主治医が説明しよると思うけど恐らくはっきりは言わんやろ」
「病名を隠すということ?」
俊治は曇った表情の忠雄の顔を見つめた。俊治の脳裏にその触れたくない影が澱んだ。忠雄が暗黙のうちにそれが癌であることを言おうとしていることが分かった。
壁に掛かった絵の怒涛の波の色が果てしなく灰色に曇り続けた。
二人が二階の大部屋に戻ってきてからしばらくして約束の二時になり担当の看護婦が呼びに来た。ハナを残して三人は彼女に案内されてナース・ステーションへと向かった。
外科部長室は二階のナース・ステーションの中のその奥まった一角に小さなカーテンを仕切っただけの狭い一室だった。主治医の品野医師が椅子に腰掛けて待っていた。三人が緊張した足取りで近づきカーテンのそばで突っ立っていると彼は物腰の柔らかそうな態度で近くの椅子を引き寄せどうぞと案内した。三人は勧められた椅子に座り緊張を解きながら主治医と向かい合った。
「年明けてから風邪を引かれたようですね。でもだいぶよくなってきています。今は肺炎の心配もなさそうですし」
主治医の机の前にシャーカステンに照らされたレントゲン写真があった。その横に分厚いカルテの資料が置かれ中身のページのいくつかに付箋が貼ってあるのが見えた。主治医はそのページをめくったり戻したりしながら迷ったあと本題に入るべき説明の糸口を一瞬決断するかのように右横に立て掛けてあったファイルボックスのなかから一枚の真っ白い用紙を取り出した。
「お父さんの本来の病気は胆管閉塞と言いまして…」
ボールペンを握った品野主治医の手がその白い用紙の上を滑り始めた。簡略な図が描かれこれまで行なわれてきた治療の説明が用紙の上に再現された。
「つまりこの部分が狭窄しているということで原因はひとつにはこここにある膵臓の一部分が異常に固く腫れているためここを押し上げる格好になって狭くなっているのか、もうひとつにはこの胆管自体の内壁が何かの異物により狭くなっているのかという二点が考えられます。何かの異物とは壁に出来た出来物か沈澱した固まりかということになります。沈澱した固まりの顕著な例としては砂状になった小さな石の固まりと判断できます。原因についての結論はまだはっきり出ておりません。消化器内科と共観治療で検査中です。現在はとりあえずその狭窄部分にサイズのあったステントを挿入して胆管を拡げております」
三人は黙って聞き続けた。俊治は机の前のシャーカステンに吊り下げられた肺の写真を見ていた。病名にこだわっていた。これまでそれは奈都子から何度も聞かされてきた。今日忠雄の曇った表情のなかにもその一部は明らかに示唆されていた。結局それは膵臓癌なのか、胆管癌なのか。疑いについての結論が早く欲しかった。
「風邪の方はもう心配はしなくていいんですね」
いきなり茜が声を弾ますようにして質問した。忠雄はちよっと咳払いをした。俊治はそのあとを追うようにして尋ねた。
「膵臓の固く腫れた部分というのは腫瘍なのですか?」
「可能性はあります。ただ臓器の肥大といったケースも考えられます。ただしこれは消化器内科の方でまだ正確な結論は出ておりませんがこの閉塞原因のうち膵臓説はどちらかというと弱いと思います。やはり胆管自体の障害説の方が濃厚といえそうです」
「で、それは出来物が支障しているのでしょうか?、それとも何か小さな石かなんかの固まりでしょうか?」
茜がまた掘り返すように尋ねた。
「それは今申し上げたとおり検査中です」
俊治は依然と腫瘍にこだわった。結論は既に出ているはずだと思った。レントゲン写真の光りに照らし出されている光沢の奥に病院が黙して語らない影が写っているような気がした。忠雄は横で黙ったまま主治医の描いた図を眺めたままだった。
「例えばその出来物ですが癌という可能性はあるのですか?」
遂に小さな恐怖を覚悟して俊治は思い切って聞いてみた。これまでの検査で癌であるかそうでないかは少なくとも血液の生検のデータを見れば出ているはずだという確信があった。
「今のところ生検のデータからは癌細胞と見られる反応は出ておりません」
和らいだ主治医の声が跳ね返ってきた。
「癌ではないということですか?」
「ご心配はいりません」
俊治は主治医の顔がはっきりと微笑んでいるのを確認した。しばらくして再び忠雄の咳払いが響き彼は話題を変えるようにして尋ねた。
「ステントはこのままの状態で詰まったりはしまへんのでっか?何か今日の様子ではまた黄疸が出てきてるようで」
「そうやわ。去年退院したときは全然出てなかったのに」
茜が心配そうにつぶやいた。今日の重人を見る限り黄疸はまた始まりステントが正常に機能していないことは明らかである。重人が検査は来週だと言っていたことを思い出していた。俊治はこの時再び激しい焦りのようなものを覚えた。暮れの退院は仮の退院でステントの様子を見るためのものであると言った奈都子の言葉が浮かびこの状態だともはやステントは役に立たなくなったことを意味していた。だとすればそれからすでに一週間は過ぎている。俊治は今日最初に重人を見た瞬間自分の脳裏を掠めて砕け散ったものが何であったかに改めて気付いていた。緩慢な病院の対応そのものではなかったのか。
「胆汁の流れがスムーズにいかないと黄疸症状が表われます。ステントの状態をみるため今のところ来週にでも検査を予定しているところです。一応今度の水曜日です」
主治医の口調に余裕が感じられた。しかし俊治の気持ちのどこかに抑え切れない不満が燻り続けていた。
「現に黄疸が出ているということはステントが詰まっているからでしょ?。来週の水曜日までそのまま放っておけばますます黄疸が拡がるんじゃないのですか?」
俊治はステントの交換を一日でも早くやって欲しかった。今日は金曜日で土曜、日曜と休みが続き月曜は祭日となっている。結局明日以降連続三日間は何の手も施されないのは明白だった。
「調べてみないことには何とも言えませんが、とにかく来週の水曜日に検査すれば分かると思います。それから検査日のことですが何しろ内科の方と調整して一緒に行なう検査ですので。この種の検査は毎週水曜日と決まっているのですよ」
主治医は日数が開くことに関して何も気にしていない様子だ。
「来週まで放っておいて大丈夫なんでしょうか?」
今度は茜が尋ねた。
「ええ別に心配されることはありません。この程度の数値だと大丈夫だと思いますよ」
主治医は何やら分厚いカルテのページを繰りながらそのデータを見つめてから安心を促すようにして答えるのだった。あくまでもそれは余裕に満ちていた。
俊治の心は落ち着かなかった。そのうち黄疸がひどくなって手遅れになるのを恐れた。直感的な危惧の投影が脳裏の縁を走った。俊治は賭ける思いの一心で頼んでみた。
「明日から病院は三日間も休みですよね。黄疸症状を一日でも早く食い止める意味でも何とかそれまでに早くやってもらうわけにはいかないのでしょうか」
重人の黄色く濁った眼と全身に表われつつある黄疸症状が妙に焼きついて離れず更に憔悴しきった今回の顔が俊治には不吉な予感がしてならなかったのだ。しかし、主治医は一呼吸したかにみえたあと軽くいなすようにして、
「スタッフが揃わないことには無理ですね。それに明日からは休みですし。そりゃあ命に関わるような場合はそれは話は別ですがね」
と答えた。その声は安心を促すかのように笑っていた。スタッフの休みを確保することの方が検査よりも優先していることのように思われた。そしてその言葉はこの病院のすべてを象徴し尽くしたかに思えた。
賭けは音もなく俊治の脳裏の中で崩れた。
雪の白さが眩しく輝いていた。病院の駐車場に入る時一階南側の庭に残っている雪を見た。奈都子はやっぱりこちらは降ってたのねぇとつぶやいた。俊治は玄関の前に止まっているパトカーに気付き不思議に思いながら車を駐車場に置いた。何かあったのかなと奈都子に話しかけた。一月下旬の日曜日早朝のことであった。
重人の黄疸症状はその後案じていたとおり三日間の連休のあと益々ひどくなり手足は真っ黄色になった。予定していた水曜日のステントの検査は急拠中止され、とりあえずまた脇腹から挿入した胆道ドレナージにより体外へ排出する措置がとられた。そして再び日に二本の点滴で拘束される毎日となりほとんどベッドに釘づけとなった。微熱も続くようになり出される食事もほとんど口をつけない日が多くなった。特に寒くなったせいもあって体を動かすことが億劫になり寝たきりの姿勢が続いた。その結果重人の腰骨のあたりに赤黒くて紫色に爛れたような床擦れが出来始めた。ハナは痛がる重人の呻きを聞いては担当の看護婦に相談して軟膏を塗ってもらっていたがその都度頼まなければやってくれず言わなければずっと忘れられていた。
俊治は病院の玄関付近まで来た時その南側の建物の蔭から一人の警察官が出てくるのを目撃した。低い屋根の倉庫かと思われる箇所で何かを調べていた様子だった。別に気に留めるでもなく二人は病院に入って行った。
日曜日はハナが教会へ行く日である。早朝大阪から車で駆けつけた俊治は今日はハナを送って行くつもりでいた。
「早かったねえ」
二〇八号室の大部屋に着くと奥の窓際のベッドの傍で坐っていたハナが顔をほころばせて言った。窓から輝いたような陽ざしが射し込み薄眼をあけた黄色味がかった重人の顔を照らし出していた。ハナの姿がすこしやつれて見えた。
「このあいだ降った雪がまだ残ってますのねえ」
「そう、よく降ったんよ」
「今日はまた眩しいくらいのいい天気で」
二人が話し込んでいるあいだ俊治は重人の変わり果てた膚の色をただ慄然として眺めるしかなかった。重人はその濁った眼で俊治を見つめて喜んだ。
「よく出てるじゃない。色もいい色してる」
奈都子は胆道ドレナージの袋に溜まった焦茶色の胆汁を見つめた。
「食欲がなくていつも残すの。食べなきゃ元気がつかないって言うのだけど」
ハナが心配そうに奈都子に伝えている。
「そのくせしきりに戦友会の準備のことが気になって同じことを何度も言ってるのよ。それから伸弘の試験のことまで心配したりして」
伸弘は箕面の智子の次男でこの春高校受験を控えていた。俊治は戦友会と聞いていつか重人から割引証を一枚残しておいてくれと頼まれていたことを思い出した。食欲がなくなってまで重人はそんなことばかり考えているのかと思うと何か熱いものが込み上げてきた。
「何か食べたいものはないの?お父さん」
奈都子は重人に声をかけた。しかし重人は奈都子の方をしばらく眺めただけで静かに首を振って微笑んでいた。
「腰が痛い痛い言うてねえ。見たら床擦れが出来てるのよ。すごく腫れていて擦り剥けてるの。看護婦さんにこのあいだも軟膏を塗ってもらったんだけどなかなか治らへんのよ。こんな格好でずっと寝たままやろ、だんだん悪くなる一方や」
ハナの説明を聞きながら奈都子は重人のその箇所を見てびっくりした。それは単なる擦り剥いた腫物ではなかった。肉片が爛れ抉りとられ重傷に近かった。
「これはひどいわ。看護婦さんに言って主治医に診てもらったら?それにこんな処置ってないわ。このあいだっていつ、軟膏を塗ってもらったの?」
奈都子の呆れた声が大部屋の隅々まで響きわたるようだった。
日曜礼拝へ出かけるハナを教会まで車で送ったあと俊治は再び病院まで戻ってきた。早朝に建物の南側で見かけた警察官のことはすっかり忘れていた。ステントの交換が延びたことや重人の腰部に出来た床擦れのことなどをぼんやり考えながら玄関に入り日曜日で静まり返った一階のフロアを通り過ぎて二階の病室に向かっていた。ちょうど二階の階段を上りきったロビーの所でガウンを羽織った二、三人の患者が近くの窓を開けて外を眺めながらしきりに囁いているのが眼に写った。窓は南側に面していた。彼らの視線はしきりに下を見ている様子で時々顔を見合わせてひそひそと話をしていた。その表情はお互いにこわばり眉に深刻な驚きを浮かべていた。何かあったらしい。俊治は近づき窓の外を見た。
「何かあったのですか」
その仲間のひとりに尋ねた。
「飛び降り自殺ですよ。今朝早くだったらしいけど。ここの患者さんらしいですよ」
下を見ると倉庫らしい建物の横に自転車置場がありその屋根が見事に裂けていた。付近には人影は見えずただひっそりとした庭があるだけで所々に残っている雪が見えた。今朝病院に着いた時眩しく照っていた雪とその辺りから出てきた警察官のことを俊治はやっとこの時に思い出した。
「四階の患者さんで中年の女性らしいけど、ずいぶん長いこと入院してはって最近ちょっと様子がおかしかったらしい。よくふらふらとあてもなく歩き回ってたという話や。ノイローゼにかかってたんやな。屋上から一気にあそこや。あの自転車置場の屋根に穴があいてますやろ」
「幸い命は取り留めたようだけど」
噂はまたたくまに早朝の病院内を駆け巡ったようだった。俊治はその自転車置き場の屋根を眺めた。屋根の真ん中にはすっぽりと穴があき確かに落下物の衝撃を物語っていた。何か悲痛な思いが込み上げてきてしばらく俊治はその穴を見続けていた。穴の奥に砕け散った患者の不安と苦痛が吹き荒びその裂目の向こうにまるで患者の叫びに耳を閉じた病院の姿が見えるような気がした。
教会から戻ってきたハナは重人に朗報を告げた。今日は特別伝導集会が行なわれたらしく熊本から松平牧師が来ていると言った。松平牧師はF市に教会が建つ前、まだ個人宅で家庭集会が持たれていた頃からF市を伝導していた牧師であった。その頃熱心なクリスチャンだった重人は何とかF市に教会を建てたいと語っていた松平牧師の熱い思いに心を打たれた。二十五年も前の話であった。
ハナの言葉に重人は驚きの表情を示した。
「今日こちらに見舞いに来られるそうよ。お父さんが入院していることを聞いて松平先生もびっくりなさって」
俊治は興奮するハナの声を聞いていた。
「松平先生が来られているのか」
重人のかすれた声に懐かしさが甦っていた。その声は忽ち喜びに溢れ見上げる眼には輝きが走っていた。
「ぜひ会いたいとおっしゃって、中山先生と三時頃に見舞いにいらっしゃるそうよ」
ハナが告げ終わるのを待ってから奈都子は頭床台に飾ってある見舞いの花を整えながら、「よかったですねお父さん」と声をかけた。
「でもこんなに痩せたお父さんを見られてびっくりなさるんじゃないですか?その牧師さん」
「そうねぇ、二十年以上も前やからねぇ」
ハナは昔の頃を思い出しながらそれからしばらく語り続けた。
「とても伝導意欲に溢れた先生でねぇ。その当時は教会がなかったものだから話はいつも会堂建設のことばかりだったの。お爺ちゃんも一生懸命だったわ。その先生が来られるたびに駅まで迎えに出たりして」
大部屋だったので周りを気にしてかその声は遠慮して小声でしゃべっていた。
大部屋にはベッドが六つあったが午後になると二人の患者は今日退院していったらしく窓際の親父のすぐ前と右隣のベッドはきれいに整頓され仕切りのカーテンがあいていた。残りの三つのベッドにも今は患者は見えずそのうちのひとりは昨日から外泊許可が下りたため自宅へ帰っているということだった。
「誰もいないほうがちょうどいいのやけどな。そのうち戻って来はるやろな」
ハナが部屋の様子を気にして言っていた。
「なぜですか?」
奈都子が不思議そうに母親に尋ねた。俊治には分かっていた。きっとその松平牧師はこの部屋で大きな声をあげて祈祷するに違いないと直感したからだ。事情の分っている患者なら宗教上のことだからと多分理解してくれると思ってはみるもののやはりこういう場合俊治にとっては少し後ろめたさがあった。何か狂気じみた醜態をさらけ出すような気がしてなるべくなら周りの人に見られたくはなかった。奈都子の問いにハナはただ黙って返事を濁した。
午後の検温も終わり、やがて栄養剤や解熱等の点滴がいつも通り行なわれた。
「先生が来られる前に一度着替えをなさいますか?」
奈都子が機転を聞かせてふと提案した。
「どうせ体も拭いてもらってないでしょう。やってあげるからお父さん下着の交換をしましょう」
ハナは同意した。やっぱり奈都子さんは看護婦さんやと感心した。
「ここは何もしてないようね。完全看護と言いながら家族に任せっきりのようね。本当はこの床擦れの出来物だって毎日薬を塗りに来なければならないのに。何もかも見舞いに来ているお母さんに任せているんだわ」
奈都子はぶつぶつ言いながら動き始めた。
「あなた手伝って」
奈都子に追い立てられるように言われて俊治は重人の肩を抱きかかえるため椅子から立ち上がった。
「お父さん立てる?体を拭きますからね。寝巻を全部脱いでここに立って下さい。この肩につかまって。大丈夫?」
奈都子はベッドの棚に用意されているタオルを二、三枚取り出し、こう言い残すと湯沸場のある廊下へと出ていった。
重人はゆっくりと俊治とハナに支えられて起き上がりその萎びた身体を俊治の両肩にもたげた。すうすうと細い鼻息が俊治の耳のすぐ傍で喘いでいた。ハナが親父の寝巻を脱がしにかかった。俊治は重人の両腕を肩にかかえて抱きすくめるような格好でゆっくりと腰を上げにかかった。この時俊治はまるで重人を蝕んでいる病巣の全貌を見極めるかのような驚きで眼を見張った。腕の筋肉が滅び腿の脂肪が骨と化していた。一時は八十キロもあったそれが無惨にも痩せ細りその軽さに思わず息を呑んだ。同時に変わり果てたその体躯から鼻をつく異臭に全身を凍らせた。嗅いだことのない汚臭の類で明らかに病巣がもたらしている本質的な臭いだと悟った。更に病巣の色素は全身に広がり皮一枚に覆われた肩やふくらはぎの膚をも征服していた。これは紛れもなく癌の臭いだ。
奈都子が戻ってきて温かいお湯で絞ったタオルで重人の背中を拭いた。俊治はそのあいだ重人の両腕を肩で支えていた。相変わらず重人の鼻息がすうすうと耳元で鳴った。
「ああいい気持ちだ」
と重人は時々かすれた声を発した。鼻をつく異臭に奈都子は微動だにせず黙々と拭き続けながら、
「この病院はいったいどうなってんの。休みの日くらいこういうことを患者さんにやってあげないといけないのにねえ」
とぼやいた。
俊治の心のなかを捉えどころのない絶望感が吹き荒んでいた。今朝方起きた自殺現場に残された穴を見るようでただ窮地に追い込まれたやり場のない悲愴な叫びだけが闇のなかに響き渡っているような気がした。
看護婦の見回りもなく同室のふたりの患者もちょうど居ない時に松平牧師が中山牧師と連れ立って見舞いに訪れた。若い中山牧師とは対照的に白髪頭の松平牧師は部屋に入ってくるなり貫禄のある初老の面影を漂わせながら病臥の重人の前にいきなり歩み寄って行って、
「どうしました橘さん」
と太い腕を差しのべた。
「懐かしいF市に参りまして橘さんの元気なお姿を拝見出来るものと楽しみにしていたのですよ」
腕を握り返そうとする重人の眼が潤み口元が僅かに震えていた。中山牧師は松平牧師のうしろに立ち尽くしながら、
「橘さん、今日は特別伝導集会をやっていて九州から松平牧師がいらしゃいました。ぜひ橘さんにお会いしたいということで」
山中牧師も重人の変わり果てた様子に驚いたのかその声は今回は弱々しく小さかった。俊治は二十五年ぶりの再会とはいえあまり重人を興奮させては身体によくないのではないかと思った。
「橘さん私は今でも覚えているのですよ。二十何年か前初めてF市に降り立った時のことを。橘さんが駅に迎えに出ておられて親切に案内してもらった日のことを」
重人は何度もうなずきながらいつの間にかその眼に涙を浮かべていた。松平牧師のその太い腕を何度も握り返しながらうなずき、「元気で何よりです松平先生」と小さく嗚咽した。
「熱心な橘さんらのご努力によりF市にも立派な教会が建てられこんな嬉しいことはございません。私は今熊本の教会に居ますがこれまでにもいろんなところで伝導を続けて参りました。でも一番心に残っているのはまだ教会のなかったF市の地で熱心な橘さんのおかげで家庭集会という形で伝導活動に勤しんだ日々の思い出です」
懐かしそうに語る松平牧師の目頭も次第に赤みを帯びていた。
奈都子はクリスチャンではなかったので教会のことはよく分からなかったが二人のやりとりから伝わってくるその温かな魂のふれあいを感じ取って圧倒されたように呆然と立っていた。
「先生、橘さんがあまり疲れてもいけませんので」
しばらく間をおいてから気を使って中山牧師が松平牧師に耳打ちをした。俊治はほっとしながら時々部屋の出入口に眼をやった。看護婦は依然と入ってこない。そして不思議と同室の患者も戻ってこなかった。
それから松平牧師は聖書を開き心を振り絞るようにして御言葉を朗読した。重人の家族しかいない大部屋にその声は轟いた。俯きながら三人は手を合わせた。橘家の家族のなかでまた俊治と奈都子だけがこの時聖書と関わった。
松平牧師の力強い祈祷が始まった。松平牧師の手が重人の頭上に掲げられ仰向けになった重人は合わせた両手を胸のあたりに置いて祈るように眼をつぶった。何かを祈るように静かに唇だけがぴくぴくと動いた。
「主よ!」
突然牧師の声が震え稲妻が走るような力が部屋のなかを貫いた。三人の心と眼が病人の全身に注がれた。重人は素直な子供のような表情になって聖書の言葉をつぶやきそして涙をぼろぼろと流し続けた。いつのまにか松平牧師は小さくて白い煎餅のようなものを掲げ「我は命のパンなり」と祈った。重人は溢れる涙を拭おうともせず「我は命のパンなり」と声を出してそれを口に頬張った。松平牧師の太い両腕が重人の両手をしっかりと支え「我は生命のパンなり」と連呼し続ける重人と一緒になって声をあげて祈り続けた。涙の筋が次から次と重人の頬を伝いその滴が口元に垂れて光った。三人はその光景にただうな垂れるしかなかった。
屍のような身体から突然泉のように湧き上がった重人の驚くべき精魂に俊治は眼を見張るよりむしろ憐れさに動揺して立ち尽くした。
そのあいだじゅう不思議なことに二〇八号室には誰も入ってこなかった。