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ぶどう樹  作者: stepano
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第五回

 

第三章「燕舞う」 



重人の容態は徐々に回復しつつあった。それは根本的な病巣の回復ではなく緊急手術を余儀なくされた腹膜炎からの危機の解消を指していた。相変わらず術後の合併症防止と体力回復のための点滴漬けの日が続いていたが体はすっかりもとに戻りつつあった。脇腹に装着された管を通る胆汁の出方も良好だったたし間もなく本来行なうべきはずだった胆道閉塞の原因をさぐる検査も再開されようとしていた。

 十月も最後の週に入っていた。同級生の足立の店が病院のすぐ前にあることは以前から聞いていたがこれまで重人の見舞いに来ては素通りしていていつも行きそびれていた。高校時代彼とは一度だけクラスが同じだった。魚屋の次男坊でみんなから魚吉と店の名前で呼ばれていた。快活さと親しみのある彼の性格はやはり商売に適していたのかもしれない。しかし実家の魚吉は彼の兄が引き継ぎ彼は魚屋をやらずに喫茶店をやっていた。そのオリーブという喫茶店は洒落た北欧調の白い壁と赤い三角屋根の二階建てで一見絢爛とした異国情緒があった。しかし店の横の駐車場らしき空き地には石ころが散在し隅の方で雑草が生い茂っていた。

今日は平日であり院長回診のある火曜日であった。時間的にも余裕があったし病院に入る前に俊治は久しぶりに同級生に会って話をしてみたい衝動に駆られた。

 店のなかはがらんとしていて誰も居らず正面に見える二階に続く階段の奥の方で静かな音楽が鳴っているような感じがした。手前のカウンターの上にビールの空瓶や飲み残しのグラスや数枚の料理皿が乱雑に重ねられ集められた灰皿の一部から吸い殻の灰がこぼれ落ちていた。カウンターの奥まったところにある流し場で水の流れる音が聞こえ人の気配がした。俊治に気が付いたのかやがてその音はやみ人影が動いた。

 彼女はエプロン姿のまま濡れた手を拭きながら出てきて入口で突っ立たままの俊治を見た。勿論初対面だったが俊治は足立の奥さんだと直感した。俊治が名前を言うと彼女はすぐ二階に向かって足立を呼んだ。そして愛想よく微笑みながら近くの円テーブルの椅子を引き、どうぞと言って俊治を案内した。

 階段の上にある大きな窓から爽やかな朝の光が差し込んでいた。光は階下の床まで届きその油拭きしたような木目の表面を照らし出していた。その光沢の匂いが店全体を包んでいてそれはどことなくキャンバスの絵の具に混じる油の匂いを感じさせていた。それと階段の壁には大きな塑像のようなものが飾られていたので俊治は最初この店の扉を開けて中に入った時からこの店にはまるで静謐な芸術の匂いが漂っていると感じた。

「やあ。お前か」

 足立が姿を現わした。突然の訪問にびっくりした様子でその戸惑いを隠し切れずに何度もぼさぼさの頭を掻いた。

「帰ってきたの?」

「親父が入院しているので見舞いに行くところだ」

 足立はうなずきながらカウンターの奥に向かってコーヒーを持って来るように妻に呼びかけた。二十数年ぶりに見る同級生の顎には豊かな銀色に輝く髭が蓄えられ別人を思わせた。

 足立が京都の美大へ進み彫刻家を目指していたことが瞬時に蘇ってきた。同時に階段の壁に飾ってあったものが改めて分かるような気がした。俊治が唸るようにしてそれを再び眺めていると足立はその眼を追って快活に笑った。

「単なる鉄屑だがね。病院の先生なんかには以外と好評で」

 それは上りきった階段の天井付近に白い壁を背景にして吊り下げられた等身大の人間を思わせる彫刻だった。その鉄仮面は西洋の騎士にも見えるが戦国時代の武将の姿のようにも見えた。赤い真鍮の頭は腐食しているかのような無数の穴があき頭蓋骨の標本を見るようだ。すぐ傍にある窓から射し込む光線がその穴を貫きシャワーのように降り注いでくる感じさえする。

「病院の先生?」

 俊治は弾かれるようにして尋ねた。

「前の市民病院の先生だよ。二階は宴会なんかが出来るようになっているからよく利用してもらっている」

 俊治は運ばれてきたコーヒーを口にしながらその前衛的な彫刻に翻弄されていた。頭の中にこれまで二度にわたって接触を避けてきたかに見える主治医の行動がそれに重なるのである。ここで彼らは雑談するというのか。

「ところで病気は何だ」

 足立が俊治の顔を覗き込んだ。

「胆道がどうのこうのと言っているんだが実のところ詳しくは分からないんだよ」

俊治は正直に言わざるを得なかった。そしてこの際最初から気に掛かることを全部言ってしまった方が気が晴れるような気がしてこれまでの経緯を説明した。黙って聞いていた足立は腕を組みながらむずかしい顔をしていた。ときどき水を一気に飲んだ。大きく息を吸いそして煙草の煙と一緒にそれを溜息のようにして吐き出した。

「結局二回とも詳しい説明は聞けずだよ」

最後に俊治がぽつんとつぶやいた。灰皿は吸殻でいっぱいになっていた。しばらく無言が続き二人はカウンターの奥で時々ほとばしる水の音を聞いた。気付くと先程まであったカウンターの上の空瓶やグラスの山がすっかり消えていた。

「今日は火曜日なので院長回診の日なんだ。回診は昼からの予定になっている。立ち会えば今日こそ説明が聞けるのではないかと思って」       

 平日に見舞いに来た理由には重要な意味があることを語っていた。

「もしもだよ」

足立がようやく口を開いた。足立が言いたかったことは二度にわたる病院側の拒否するような対応ではなく最初に俊治が疑った医療ミスという闇に包まれたこだわりについてであった.

「もしものことがあってだ、そのミスが引き金になったということにでもなればこれは悔やんでも悔やみ切れないことになる。となれば先ずそのミスについて今のうちに明らかにしておいたほうが気持ちの上でもすっきりするだろう」 

足立の答えは皮肉にも前回見舞った時俊治が奈都子に言い掛けてそのままになっていた内容そのものだった。

「そうじゃないといつまでも不安が付きまとうだろ?」

足立は念を押すようにつぶやいた。

「しかし何しろ俺が見たわけじゃないから立証できる可能性としては弱い」

この場合俊治にとって直訴するにはあまりにも非力過ぎた。例え奈都子の立証があるにしても今更済んでしまったことを病院側が認めるはずはないし肝心の当事者も最早いない。所詮巨大な組織は有無を言わせず疑惑は闇の中へと葬むり去ろうとしているのである。納得できない虚しさばかりが俊治の頭をよぎった。

「一度聞いて見ようか?消化器内科の先生は馴染みだしよく俺も病院に出入りしているから。それと山口を知っているだろ?あいつ確か今、放射線科にいるよ。放射線技師だ。詳しい話を聞いてみたら?」

 足立はそれから盛んに自分の顔の広さを示すかのように色々と俊治に提案した。俊治の弟がまさか市役所でこの病院と関係があることなど彼は知る由もなかったし、俊治も最初から司郎のことは話していなかった。

見上げる彫刻に風が僅かに吹きその鉄仮面の細い二本の足が空中で揺れているように見えた。その薄い鋼板の金属音が再び俊治の迷走化した襞に響くかのようであった。


 二階の病室に辿り着くと掃除機の音が流れ開けられた窓から入ってくる爽やかな風の匂いが鼻をついた。

「休みがとれたのか」

 点滴の下で相変わらず横たわったままの重人が微笑んでいた。その顔色には艶が戻りひと目見て回復の兆しが読み取れた。早速ハナの買った茶色のガウンを羽織っていて俊治の心に和やかさを呼んだ。

掃除のおばさんが忙しそうにベッドの下や部屋の隅々を丹念に掃除をしているあいだ俊治は入口でしばらく佇んで待っていた。音は渦を巻くように快音を届け清々しいような気分が廊下までこぼれていた。何気なく向かいの部屋を眺めるとあの部屋にはもう面会謝絶の札はなく患者の名札も取り外されていた。

 やがて掃除が終わりおばさんが軽く会釈をして出ていった。頭床台に置かれた花の一輪にも心なしかすっきりとした後の瑞々しさが跳ねていた。

「ちょうどいい。今日はちょっと頼みたいことがあるんだが」

 重人は待ち兼ねていたような口振りで話し始めた。

「入院する前から気になっていたことなんだが知っている人の就職の件でな。もう発表はあったと思うのだが、結果の通知がいっているかどうか確かめて欲しい」

「確かめる?」

 俊治は軽く聞き返した。

「実は結果は聞いているので分かってはいるのだが」

 俊治はそんな重人の性格を知っていた。つまり礼儀ということを言っているように思えた。頼む時だけ人に頼んでおいて返事のない無礼さを指しているのではないかと俊治はすぐ察知した。

「今はどこも就職難で厳しくてなぁ。いろいろ手を尽くしてはみたんだが、今回だけはどうも難しくてなぁ」

 重人は申し訳けなさそうに言いながらその相手の連絡先を書いたメモを探し始めた。巨体を揺らしながら頭床台の引き出しを探るたびに点滴のチューブが大きく揺れた。俊治は慌てて装着されているチューブの管を押さえた。

「この人の息子なんだが」

 取り出した名刺を眺めながら重人は再び今は就職難やからなぁと残念そうにつぶやいた。

「ここに電話して聞いてみてくれんか」

「どういうふうに聞けばいいの?」

 俊治は名刺を受け取りながら尋ねた。

「病気で出れないので家族の者だが代わりに聞いてくれと言われたことにすればいい」

「発表は本当に済んでるの?」

「通知は多分いっているはずなんだが、連絡がない」

 不採用だということで連絡するにも決まりが悪いのだろうと想像できた。

「分かった。聞いてみるよ」

 俊治は電話をかけるため部屋を出ようとした。ところが重人もついでに便所に行きたいと言って結局一緒に廊下に出た。重人の肩を支えながら点滴の支柱台を転がして並んで歩いた。

病気になっても色々と世話を焼こうとするというのか。まさか入院中の重人がこんなことを気に掛けながらベッドに横たわっていようとは思いもかけなかった。この一枚の名刺の方が重人にとっては優先すべき解明点なのか。他人のことばかり心配して頼まれれば身を粉にして面倒を見てきたこれまでの重人の生き方を思うと俊治が抱いてきた病院に対する不信が何か熱いものに溶かされてその戦意が霧散してしまいそうであった。

「今はなかなか転職なんて難しくてなぁ」

 重人は同じことを言い続けた。

「確かに厳しいよ」

 俊治は相槌を打ちながらゆっくりと廊下を歩いた。便所の入口まで来て下駄に履きかえ扉のそばまでついて行った。チューブがついているので扉は閉められず便器にしゃがみ込む重人を眺めながら俊治は外で点滴の支柱台を握って立っていた。扉が半分開いたままだった。用便を足す重人の吐息が響き点滴の壜までがその振動を受けて左右に微かに揺れた。重人の肩や腰に戻りつつある活力を感じた。確実に回復しつつある息遣いだ。俊治はこの時はっきりと重人がようやく体力を回復しつつある前兆を読み取った。

「通知は今月初めにたぶんいっていると思う」

 便所のなかでも重人はしゃべっていた。やがて用便を終えて出てくると、

「家族の者だと言ってな、丁重に尋ねてみてくれ」

 と念を押した。洗面所で手を洗ったあと重人は更に思い出したように

「来年はまた戦友会をやらなあかん」       

 と今度は別の話をぽつんと言った。

「いつ頃やるの?」

「年明け早々や。幹事をやっているんでな、どこかいい場所を探さなあかん」

 まるで健康でいる時のような調子である。俊治は穏やかに聞き流しながら再び廊下に出て重人を支えながら部屋へと戻り始めた。

「その日のためにお前にもうひとつ頼みがあることを忘れていた」

 重人はしばらく間を置いてから「割引証を残しておいてくれ。一枚な」と言った。めずらしい重人の一言だった。

「分かった。来年早々やな」

鉄道会社に勤めていた俊治は会社線の運賃が五割引きとなる割引証が年間で二十枚支給された。本人の使用以外にその家族も使用出来、同居していなくても自分の肉親であればそれを使用することが出来た。しかしこれまでめったに重人はそれを頼むことはなかった。

「発行して貰っておくよ」

 俊治は答えながらゆっくりと点滴の支柱台を押し続けた。

コロコロと床の上を擦る独楽の音が静かな廊下に響き渡っていた。


 院長回診は一時からの予定だった。昼前にハナも現われたので俊治は一緒に病院の食堂で昼食をとった。これまで主治医との接触は緊急手術のときだけでその後一度も会っていないだけに今日の機会は逃すわけにはいかなかった。例の荒れ果てた冬の海の絵の下で俊治は今日は聞けるかもしれないとハナに言ってみた。ところがハナはこれまでの院長回診の様子を知っていたので果たして俊治の期待を打ち砕くような内容を告げた。ハナが語ったことは院長回診が始まるとみんな部屋から追い出され一切が閉ざされてしまう、話を聞くなんてそんな機会はないということだったのである。主治医の品野先生も確かに院長に付き添って回るが何しろ回診の始まる前に婦長さんが前もって家族の人は部屋から出て下さいと言いに来るらしい。品野先生も今日は患者の家族のことなどまるで眼中になく自分は院長に説明することだけで精一杯やと言った。ハナの口調には今日という日を選んだ俊治の意中を全然察していなかった。そんなことなら俊治の方も事前に相談すべきだったと後悔した。ハナは再度無理だと思うがねぇと声を落とすようにしてつぶやいていた。

 ハナは毎日昼前にはここにやってきて親父の洗濯物を取り替えることや郵便物の話、家の百日紅の枝が伸びてきたことなどを話すのだと言った。時にはジュースを飲みたいという重人のために地下の売店や外に買物に出ることもあると言った。彼女も順調に回復していく重人の姿をみて安心しているふうに思えた。実際俊治にとっても今日の重人を見てもうこれまでの経過やこれからの検査についての説明を聞く必要はないと思った。ただ足立が言うように知りたいのはなぜ腹膜炎が起きたのかということで胆道閉塞が直接引き起こしたとは考えられない、前日の洗浄に本当にミスはなかったのかということでその原因が洗浄ミスだとすれば敢えてそれを隠そうとする行為について追求しておかなければ後々後悔する羽目になり兼ねないのではないかという懸念だけだ。本来このミスがなければ検査の始まる直前まできていて手術されることはなかったしその回復のためひと月もまわり道をすることはなかったのだ。

 院長回診が始まる時間になると廊下には人影がいなくなりあたりは静まり返った。やがて院長が主治医と婦長を伴って現われると二階病棟の西端にある一番奥の部屋から順に診て回り始めた。患者の家族はハナが言ったように廊下の中程にある談話室に集まっていた。お互いに無言で終わるのを待ち、時々立ってはどの部屋に入っているかを確認した。

 二〇五号室は東の一番端だから最後になることが分かった。俊治は談話室の窓の外をぼんやりと眺めながらハナに重人から頼まれた電話のことを話した。自分の病気のことよりも世話した人のことの方が気になるのだとハナは笑った。そして重人は頼まれたらよう断らん性格やからと語り、いったんこうだと思い込むと一途なところがあって頑固だとも言った。

 時間がかかりそうだった。平日に休みをとってまで病院側の説明を執拗に求めているもうひとつの自分の姿がけだるい午後の静けさの中に漂っていた。重人はようやく回復してきているのだ。自分はいったい何を求めようとしているのか。これから先は病院側にすべてを任せればいいのだ。談話室に集う家族の表情はみなそれぞれに病院に対して信頼し切った一種の安堵感みたいな眼をして待っていた。しかし俊治だけは自分だけの依然と固執している不信とそれに対する戦意とを葛藤させながら待っているように思えた。

 巡回する足音が静かな廊下に響く。一定の間隔でその音は途絶え次々と新しい部屋に移動して行く度に談話室にいた家族の数も減っていった。回診の終わった順に戻って行くのである。やがてその三人が二〇五号室の近くまで迫ってきた。ハナと俊治はすでに談話室を出て部屋の前まで行って待機することにした。婦長がひとつ手前の部屋まで来た時ハナに気付いて眼で挨拶を送ったように思えたが院長と品野先生は無表情に見えた。三人が隣りの部屋に入っている間、形だけやからすぐに終わるとハナは俊治につぶやいた。いつもハナは別の看護婦からそのよう聞かされているのだろうと俊治は思った。何かやるせないような焦燥感が体を包んでいた。

 カチャリというドアの開く音がして院長を先頭に三人は出てきた。いよいよこちらに向かってきた。緊急手術の日に会って以来の院長と品野医師の姿だった。品野医師がハナに気付いて軽く微笑んだ。婦長も続いて目礼しそのあとニ〇五号室をノックした。そして三人は重人の部屋のなかに消えた。

あっけない一瞥でそれは終了したことを意味していた。院長回診の機会を狙ったもののそれは果たされずハナが言ったようにただ無言ですれ違ったに過ぎなかった。盛んに足立の言葉が闇の中で砕けて散っていた。俊治の眼の前で堂々たる主治医の落ち着きは一切の不信を振り払っていた。

まばゆいような廊下の向こうで人影が揺れていた。回診の終わった部屋々から弾む声が午後の廊下に跳ねていた。

 どこからともなく風が流れているような気がした。後ろからその音を聞いたような感じがして俊治は思わず顔をあげた。向かいの部屋が眼の前にあった。やはりその部屋の入口の名札は既に外されていた。前尾先生の部屋だったはずだ。漠然としているとハナが傍からその向かいの人はこのあいだ亡くなりはったよと言った。

 頬を撫でるように流れた風は気のせいだったのか。そして風はその部屋の中から伝わってきたのだろうか。あり得ない妄想がなだらかに漂い俊治は不思議な気持ちに覆われた。一方で形だけの回診を憎みながら何故かもう一度その音の聞こえてくるのを待っていた。

 それは急にポンスケの面影が偲ばれ同時にあの時教室の窓から入ってきた優しい風に懐かしさを覚えていたからに相違なかった。


 ステントの挿入には内科と外科の日程と時間的な調整が必要であった。共同して行なう作業なのでスタッフのスケジュールが合わなければ実施されずそのため肝心な治療はなかなか前に進まなかった。

胆管の造影だけでは詰まっている形状の正体が砂状のものなのか管自体の内壁に出来た腫瘍による障害によるものなのか判明がしづらかった。そこで狭窄している部分へ口からと腹部からと探索する管を通して触ってみる検査が行なわれていた。

 十一月も半ばになろうとしていた。検査はたいてい月曜か木曜日でその他の日は治療らしいものは何も行なわれなかった。食事は普通に戻っていたし熱もほとんど平常と変わらなかった。点滴は午前中一回だけになり用便も自力で行けるようになっていた。しかしその際にも相変わらず腹部には胆道ドレナージのチューブは装着されたままの格好であった。とはいえ重人の姿はまったく病人を感じさせなかった。見舞い客は毎日のように訪れ重人はふだんとかわりなくそれに応じた。見舞い客の多くは昔の仕事の関係者で現役を退いてから既に二十数年経っているとはいえ次々と大物が訪れた。彼らはOBである重人を見舞うよりむしろ自分を売り込むかのように先を争ってやって来た。

 俊治は毎日会社から帰ると実家に電話を入れた。ハナは病院の検査の進み具合を不安そうに語った。詰まっている詳しい箇所とその形状についてはまだはっきりと掴んでいないらしく一週間に一度だけの検査では到底時間のかかる話だとも言っていた。

「もたもたしていると手遅れになるわよ。狭窄している原因は腫瘍以外に考えられないじゃない。もし悪性の腫瘍だったらそれこそ転移して手のつけられないことになるよ。いったいどんな考えでいるのかしら。大丈夫なのF市民病院って」

 相変わらず奈都子は傍らで捲くし立てた。しかし重人は品野医師を気に入っていたらしくハナには熱心な仕事ぶりの彼を誉めていたらしい。それを聞くと奈都子の非難もあったが重人の信頼感をとても壊す気持ちにはなれず早くいい結果が出てくることだけを俊治は望んだ。重人自身が医者を信じるのが一番真実であるかもしれないと最近になって思い始めたからでもあった。しかしハナの話を聞く度に奈都子は苛立った。

「うちの病院だとそんな狭窄部分なんてすぐ見付けてその日のうちにステントを挿入してしまうわよ。私、先生に頼んでみるからうちで診てもらう?」

 と自分の勤務する市民病院に入れて一刻も早く治療を行なうべきだと主張した。

「どこも同じことだよ」

 俊治は悟りきったように答えた。見上医院の時もそうだった。小さな開業医では設備が整っていない、生検の結果に日数がかかり過ぎる、早くしないと手遅れになると責め立てて本人が嫌がっているのを無理やり今の病院に入れたのだった。重人は見上医院を信じていた。黄疸は夏の疲労からくる肝臓障害だと信じ込みその治療を根気よく続けようとしていたのだ。奈都子のいう設備の整った大きな病院に入れて果たして今思い通りに手遅れを脱っしたと言えるのか。内科は内科の見方でものを言い外科は外科で技術面をも含めて違った主張を続けている。その間患者は長い時間をかけて待たされるのだ。いったいそんな状態で果たして小さな開業医よりもよかったと言えるのか。

「早くステントを入れないとまた黄疸がひどくなってくるわよ。本当にどうかしてるわよ。一週間ごとにしかやらないって。病院を変えるべきよ絶対に」

 奈都子は俊治にしきりに訴えた。

その後品野医師は間隔をあけて毎回ステント挿入に挑戦し続けた。進入箇所の経路を探り当てることがかなり難しいらしく内科のスタッフとも議論を重ねて何度も試行錯誤を繰り返した。報告してくるハナも一生懸命になっている品野医師の味方になり病院を変えるべきだという奈都子の意見に反対した。俊治はただ狭窄した箇所に一日でも早くステントを挿入し当面の治療が完結することを祈った。実際この治療が成功すればこの胆道閉塞は仮の治癒を成し遂げることになる。本来その根本原因の腫瘍若しくは溜まった石の排除が必要だが応急処置としてのステントの挿入は狭窄による弊害を一時的に解決することになるのだ。見守るしかない。俊治も今はそのままにしておいたほうがいいと心に決めていた。

 晩秋も深まったある日突然長男の正明が四国から突然帰ってきてお爺ちゃんの見舞いに行くと言い出した。俊治は仕事の都合でどうしても行けなかったので奈都子が一緒について行くことになった。その日夜遅く戻ってきた奈都子はいつになく挫かれた覇者の如き形相をみせめずらしく沈んでいた。

「あなたお父さんの涙見たことある?」

 といきなり尋ねられたのである。俊治は意表をついた問いに狼狽えた。

「どういうことだ。何かあったのか」

 神妙な趣きで俊治が聞き返すと、

「正明を見てお爺ちゃんポロポロと涙を流してはんのよ」

 と奈都子は答えた。よほど孫が来てくれたのが嬉しかったのだろうと俊治は冷静に思ったのでその場で「そうか」としか言えなかった。

「本当に嬉しそうでしたけど目が真っ黄色だったわ。それを見ると何となく哀れで」

 その夜ひとことも奈都子は病院の悪口を言わなかった。

 

十一月下旬、品野医師の意欲的な毎回の挑戦がついに実って狭窄部分へのステントの挿入は成功した。ハナの電話での話によれば狭窄の原因は砂状の粒子の塊でもあったようだし厚く隆起した固形状のざらついたもののようでもあったとしか伝えられていないということだった。しかし、いずれにしてもステントを挿入することによって閉塞状態は解消されたのだった。あとはしばらく開通状態を観察しながら腹部からの胆道ドレナージへの流れが完全にステントを挿入した胆管自体へ移行してくれれば良かった。もはや仮退院の日は間近かに迫りつつあった。

 俊治が病院を久しぶりに訪れたのはそんな頃の十一月最後の土曜日だった。結局最後まで大部屋に移ることなく個室で過ごせたのは司郎の影響が大きかったと言えた。司郎はその点で反って気を遣っていた。何よりも市役所のお膝元の病院だけにコネが表沙汰になるのを恐れたに違いなかった。

 やがて訪れる冬の気配を感じながら病室に入ると司郎が先にやって来ていて何やら小声で重人から相談を受けていた。どうやら重人が品野医師の住所を至急探してくれと頼んでいる様子だった。更に何度も念を押すようにして丁寧に包まれた袱紗を司郎に手渡していた。司郎は戸惑っていたが執拗に命令する重人の頑固さにしぶしぶ承知せざるを得ないような表情をしていた。やがてその袱紗を持って部屋を出て行った。

 司郎を見送ったあと重人は俊治に説明した。

「品野先生にお世話になったので、少しばかりの謝礼を司郎に持たせた」

 その声は澄んでいた。

「そう」

 相変わらず強引で義理堅い重人の性格が表われていた。俊治は出て行った司郎の気持ちが分かるような気がして心の中で苦笑いをした。

「どう?」

俊治はステントの調子を尋ねてみた。重人は笑顔を見せながら来週の検査で調子がよければ退院だと答えた。三ヶ月に渡る入院生活にようやく幕が下りようとしている気配が部屋全体に漂っていた。

俊治は窓の外を眺めた。冬が今すぐそこにやってきていた。

「よかったね」

「いろいろ心配かけたな」

「品野先生はよく出来た人だ」

「そう」

 俊治はあえて緊急手術に至った件について触れる必要はないと何度も自分に言い聞かせていた。とにかく仮の治療は完了したのだから喜ばなければならないと思った。

「もうすぐ冬だね」

「そうだな」

「クリスマスに間に合ったな」

 中山牧師が言っていたことが実現していた。二人は黙って時折廊下に響くスリッパの音に耳を傾けていた。


 雄大な青い海に夕陽が沈もうとしていた。ここは疑うことなく自然の驚異と優しさで覆われていた。波はお伽の国の世界を見るような輝きに満ちて閃き夕陽は地平線の彼方でどっしりと坐っていた。まるで幽玄な終末を見るかのようだ。温かい風が頬を撫で常夏の文化や膚の匂いを運んでいた。それは遠くで聞こえている異国の陽気な言葉のなかにも混じっていた。俊治はやっと来たんだなという思いが込み上げてきた。

 俊治は奈都子とハワイに来ていた。十二月も半ばを過ぎクリスマスが間近かに迫っていた。勤続二十五年の褒賞として俊治の会社がくれた記念旅行だった。

二人にとってまさかの休息といえた。重人が倒れたのが初秋だったので表彰が行なわれた十月はそれどころではなくましてや記念旅行なんてほとんど諦めかけていた。それが十二月になって一週間もたたないうちに重人は奇跡的に退院し自宅に戻ってしばらく様子をみることになったのだった。

 俊治は照り映える荘厳な陥落の瞬間をゆっくり眺め続けた。広い海岸線に面した公園の芝生に横になると前は海で後にはダイヤモンド・ヘッドの赤い岩肌がそびえていた。真冬の格好をして飛行機に乗ったのに今はこうしてTシャツに短パン姿でいる現実が夢幻の世界に漂っているようで不思議な気がした。重人の病気が治り、諦めていたハワイに来れたという喜びが眺める夕陽の眩しさのなかに跳ねる。

「みんな健康そうね。お年寄りの方ものびのびしてるわ」

 奈都子に言われてふと見ると眼の前の海岸通りを観光客らしき年配者がジョギングをしている。その薄い銀髪が茜色の光を浴びて輝いていた。その肩に悠悠自適の片鱗が風を切り躍動していた。俊治はこの老人が見る世界と自分がこれまでこだわり続けてきた類の世界に大きな隔たりがあり過ぎるように感じた。何よりも捉えている対象が根本的に間違っているような気がした。その姿はまるで生命の神秘そのものが啓示されているようでそれは三ヶ月に渡った悪夢からの解放を意味するかのように軽やかに写るのである。

 そんな光景を眼にしていると俊治はある符号に気付くのだった。眼の前の海が今年の但馬の夏から始まり奇妙に冬を迎えた外国での夕陽の海で終わろうとしている。重人が倒れる前は夏の海を眺めていたし悪夢の過ぎた今はこうしてまた他国で海を眼の前にしているのである。この偶然の行動に愕然となるのだ。今はこの沈む夕陽を眺めながら陶酔するような解放感に浸り会社がくれた褒章への感謝よりもむしろこの休息は一時的にせよ重人の退院がもたらしてくれた恩恵によるものだと感じた。

「ステントが成功して二、三日後の頃だったか、俺が病院に行った日のことなんだが」

俊治は芝生に寝転びながら奈都子に話した。

「司郎が来ていて親父からこれからすぐ品野先生のところへ行ってくれと言われていた。お金を包んでいたんだ」

「気を遣っていらっしゃったのよ」

「親父はこういったことにはすぐにやらないと気が済まない。司郎からあとで聞いた話だが家がどこだか分らなくて一日中捜したらしい」

「でも司郎さんもやりにくかったと思うわ。市民病院って市役所のお膝元でしょ。先生の方でも気を遣うからあまり立ち入ったことは聞けないし」

「司郎の性格じゃ言えないだろうな。あくまでも患者の家族としての立場よりまず自分の仕事上の立場がある。組織のなかで生きている人間なんてみんなそんなものだからな」

「でもまあ、とりあえずよかった」

「そうね」

 今は品野医師の奮闘ぶりだけが俊治の脳裏に浮かんだ。洗浄ミスのことはもはや眼の前の広大な地平線の彼方に夕陽とともにその片鱗を沈めようとしていた。

 ホテルに戻ると今夜のディナーを予約していた店へ向かうための準備にとりかかった。奈都子は着ていくドレスを選んでいた。俊治は短パンとTシャツから白の麻のジャケットに着替え煙草ををくわえてテラスに出た。十階のテラスから黄昏行くワイキキの白砂の連なりが見え真下には真っ青なこのホテルのプールの水面が眼に写った。

 テラスのテーブルの上に一羽の鳩が止まった。俊治はしばらく煙草の灰を捨てるのをためらっていた。

「鳩が入ってきたよ」

 俊治は奈都子を呼んだ。奈都子は着替えながら部屋のなかでなあにと聞いている。真っ白な鳩だ。鳩は喉を鳴らして円形のテーブルの上を廻った。俊治がそっと触れようとした瞬間、はばたいて空に舞った。しばらくして俊治は灰を静かにテーブルの灰皿に捨てた。心地よい風が消え、はばたきの音だけが彼方から届いてきた。

「何か言った?」

 奈都子がテラスに顔を出した。

「ここにね鳩がさあ…もう飛んでいったけどね…」

 その白さの印象を説明しようとして何故か俊治は口篭もった。

「あっそう、めずらしいわね」

とだけしか奈都子は言わなかった。

「うわあーいい眺めねえ。見て、あそこに椰子の木が揺れている」

 やがてテラスに出てきた奈都子は外の景色を眺めて叫んだ。鳩に対する彼女の無関心さが伝わってきてそのあとテラスの椅子に並んで腰をかけたあとも俊治は説明しようとした鳩の白さのことはすっかりその意を削がれてしまった。

 視覚の襞に鮮やかに映えた白さとはいったい何だったのか。次々と彼女の指差す方向を眺めながら俊治はゆっくりと紫煙を風に吹かせた。 


ちょうど七時に迎えのタクシーがきて二人はホテルの玄関へ降りた。

 タクシーは立ち並ぶホテルやブティックの繁華街を通り抜け淡い夕暮れの立ちこめたアラワイ運河を右手に見ながらゆっくりと進んだ。やがて閑静な路地を静かにのぼっていくと落ち着いた緑の群れが現われその向こうにレストラン・シェ・ミッシェルが乾いた黄昏に包まれて建っていた。

 薄暗い店内に格調に溢れた重厚さが宿っていた。

「落ち着いたお店ね」

「そうだな。ゆっくりとくつろげるな」

 やがてテーブルに蝋燭の赤い灯がともされた。窓の枠いっぱいに繁った南国の葉の蔓が優雅に垂れていた。

「純子はひとりで今頃何をしているのかしらね」

「そうだな」

「でも十九時間の時差でしょ。今頃向こうはお昼ってわけか」

「そうだな」

 注がれる赤ワインの滴に至福の広がりを感じた。。それは安堵感に混じって心を癒し舌に触れながら喉元を通っていった。この三ヵ月間に渡る重かった焦燥や不安が徐々に融けていくかのようだ。

「今年ももうすぐ終わりね」

「うん。終わりだ」

 オードブルのあとスープが運ばれてきた。俊治は煙草を吸いたいと思ったが我慢した。店内はいつのまにか客が増え、周りのテーブルの殆どが埋まっていた。

「いろいろあったけどひと安心だわ。これでしばらく持てばいいけど、あれは交換しなくてはいけないのよね。あの方法だと詰まる度に取り替えなきゃならないわ。めんどくさいけどね」

「うん。しょうがない」

 俊治は我慢しきれず煙草を吸った。

「でも良かった。とにかく退院できて」

「そうだな」

 次第に周りの喧騒がたち込み始めた。心地よい酔いが弾け窓に仄暗い南国の月明かりが射していた。

「詰まらなければいいんだけど」

 奈都子は運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながらも心配そうに言った。

「当分大丈夫だよ」

 俊治は黙って酔いに浸った。

 コーヒーを飲み終わったあと店の綺麗なマネージャーが小さな紙切れを持って席まで近づいてきた。それは予約しておいた今夜の観光スポットへの案内を告げているメモだった。彼女は優しく微笑みながら日本語で語ったあとOK?と尋ねた。彼女の妖麗なしぐさと高貴な馨りが酔いの回った俊治の満悦した気分の中で一層昂揚していた。確認したあと消えていく彼女の背中を眺めながら俊治は自分に言い聞かせるのだった。とにかく悪夢の三ヵ月は終わったのだ。

 予約したリムジンが店の玄関先に止まっていた。いつのまにか外は霧のような靄に包まれ夜風が不思議と生温かかった。闇のなかでそのリムジンはひときわ光っていた。

 リムジンはタンタラスの丘に案内してくれた。暗闇の道を何度も曲がり登り詰めていくとそこは一瞬暗闇が解け星を散りばめたような光の洪水であった。眼を見張るようなホノルルの全景が眼下に広がり思わず息を呑んだ。

 二人はリムジンから降りて真っ暗闇の丘の空気を吸った。深呼吸をして俊治は眼の先に群れる無数の光の騒めきを凝視した。奈都子は驚嘆の声を発しながら何度も素晴らしい夜景だと叫んだ。

 そこには夜空と地上との境界がなかった。神秘な虚飾は闇のなかに息づく灯りの海であった。




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