第四回
三人が二〇五号室に戻ってきた時二本の点滴は既に取り除かれ頭床台に置かれていた昼食も片付けられていた。窓から射す薄日がかすみ草に映えその傍らで重人はうっすらと眼を開けていた。
「今日は萩原さんは来ていないのか?」
重人はかすれた声で司郎に尋ねた。副婦長の名前らしかった。
「確か来ているはずだけど。朝、詰所で見かけたから」
「何か?」
「いや別に」
重人は曖昧に言葉を濁した。そしてただ一点を見つめていた。
「お父さん、今検温中ですか?」
奈都子は重人の様子を見ていち早く読み取った。
「萩原さんに聞いてみてくれんか」
しばらくして重人は司郎に向かって口を開いた。まるで決め兼ねていたものを決断するかのような響きがそれには感じられた。
「何をですか?」
とハナが尋ねる。
「品野先生に連絡が取れるかを」
重人の意図していることが四人には分からなかった。
「今日は日曜日ですよ」
「うむ」
声のない唸りが重人の口元を震わせているように見えた。
「先生は休みで出てないですよ。それに先生に連絡をとって何を聞くの?」
ハナは軽く受け答えしたものの怪訝そうに尋ねた。
「そうか。休みだな」
しばらく沈黙した後重人は柔和な表情に戻りながら深い息をした。そのときも一点を見つめ続けていた。
俊治はその重人の横顔を眺めながら二か月前の夏の海の光景を思い浮べていた。あの時純子に語っていた重人の姿が重複する。何を語っていたのか。その笑顔にも妙にどこか一点を見つめていたような気がする。今思えば俊治にはそう読み取れるのである。春から続いていた不吉な要素がその一連の行動にすべて符合するかのようにあの夏の重人の行動は今でも不思議でならない。重人は今何かを急いでいるのではないのだろうか。だからそれをやり遂げたいと思っている。そうでなければ休みであることを当然分かっていながら主治医の品野医師と連絡を取りたいなどと言うはずがない。
「貰ってきましたよ、響け鐘の音の献金袋を」
思い出したようにハナが話題を変えて重人に話しかけた。重人はその声によってようやく眼を転じてハナの差し出すその献金袋を眺めた。
「十月分だな」
「もう大分集まってきたそうです」
「そうか」
「今日三時頃、中山牧師が見えるそうですよ。会計の高橋さんと一緒に」
「中山牧師が?」
重人の口元がほころんだ。ちょうどその時ドアがノックされ看護婦が入ってきた。さっきの年増の看護婦だ。検温に来たらしく四人の前を会釈して分け入ると重人の前に立った。抜き取った体温計を眺めながら「七度二分」とつぶやいて、「少しあるみたいね、しんどくないですか?」と尋ねた。
「いいえ、別に」
重人が静かに答えている間、司郎が彼女に向かって声をかけた。
「今日は萩原さんは出ておられますねえ」
「副婦長ですか?」
「朝見かけたように思うのですが」
「何か?」
彼女は司郎の方に向き直って不思議そうな顔をした。明らかに司郎が市職員であることを知らない表情が表われていた。彼女は多分正職員ではないのかも知れない。大抵は司郎を知っているがさっきの食堂のように彼を知らない看護婦だっている。
「ちょっと話したいことがあるので…」
司郎が言うと彼女はしばらく戸惑ったあと、「今あいているかどうか」とつぶやきながら部屋を出ていった。
重人がなぜ急に品野医師に用事があると言い出したのか分からなかった。俊治はそれでなくとも主治医が変わったり、その元の主治医の転勤とやらの情報で頭が混乱していたし、病名の詳しい説明やこれからの予定など病院側の説明を一度聞いてみたいと思い続けてきた。司郎やハナは毎日重人を見舞い病院と接触してはいるものの何か肝心なことは何も押さえていないような気がする。ただ病院に任せていればすべてがうまくはかどっていると信じているようだ。主治医がなぜ消化器内科から外科に持ち替えが行なわれたのか。共観治療とはいえ病名の主管科はやはり入院時の消化器内科のはずでいくら緊急手術を外科で行なったからという理由ではどうも理解しにくい。俊治の心のなかでその経緯の裏側に対して依然として納得できないものが燻り続けていた。
萩原という副婦長が現われたのはそれから一時間も経った頃で司郎は用事があるのでいったん帰ると言い出した時だった。部屋に入ってきた彼女を見て重人の顔がほころんだ。
「今日、品野先生に連絡出来ますか?」
と重人の方が早速、痰の詰まったようなかすれた声を出しながら彼女に尋ねた。
「どうされたのですか?」
ひときわ明るい彼女の声が響きそれはまるで園児を操る口調を滲ませた。最初司郎に対して軽く会釈したあとベッドの毛布の裾を少し直しながら重人に微笑みかけた。若い副婦長であった。奈都子よりも二、三歳は下だと俊治には映った。
「大阪から長男が来ているので一度先生の口から説明を…」
重人が言おうとしていることを彼女はしばらく考えている様子だった。説明とは病状のことだろう。今後の治療計画も含めて全般の所見を指していた。
「外科部長は金曜日から学会で信州の方へ出張なんです。連絡はとってみますけど」
彼女は俊治と奈都子に向かって申し訳なさそうな顔をした。傍にいた司郎はそれを聞いて恐縮した。
「まだ出張から帰っておられないでしょう?」
と厚かましい申し出を侘びるような言い方をした。
「学会は昨日で終わってはいるはずなんですが」
「信州では遠いですわねえ」
ハナが相槌をうつように口をはさむ。
「携帯でとにかく呼んでみます。何時頃までおられますか?」
萩原副婦長は俊治に向かって尋ねた。俊治は別に時間を決めていなかった。車だからいつでも帰れる。奈都子は黙って聞いていたが、余り遅くなっても困るのか、「先生のお宅はこの近くなのですか?」と俊治に代わって逆に尋ねた。
彼女は戸惑ったように一瞬返事を曖昧にしたあと「いらっしゃるかどうか連絡をとってみます」と再度言った。
三時きっちりに教会の牧師が会計担当の高橋を伴って二〇五号室を訪れた。ちょうど二回目の点滴が始まったばかりで重人の左腕は固定されていたため重人は自由のきく右手を軽く挙げて久々に会う中山牧師を迎えた。
「思ったより元気そうで」
まだ三十を少し過ぎたばかりの若い牧師は眼鏡をかけていてその優しそうな眼差しを横たわっている巨体に投げかけ柔和に話しかけた。そして点滴のゆっくりと落ちる滴を眺めながら一方で脇腹のチューブから流れる液体を交互に見つめていた。やがて彼は目を閉じて胸に手をやり聞き取れないくらいの小声でしばらく祈った。その牧師とは俊治と奈都子にとって初対面であったが何となく親しみがもてた。
「これはヨセフ会一同から預かってまいりました」
祈りが終わると同伴の男が前に歩み寄って重人に声をかけた。白髪の混じり始めた頭を丁重に下げながら手に持った花束と見舞金の封筒を頭床台に置いた。高校の先生をしているという高橋は俊治と年格好は似ているようにも見えたが彼の方が老けて見えた。
「橘さんのおかげで響け鐘の音献金も大分集まっているようですよ。来年の春頃には付けられそうです」
高橋は眼を細めながら報告をしていた。
「早く元気になられて是非また教会でお会いしたいですね」
中山牧師が傍にいたハナに対しても声をかけていた。
「橘さんはこれまで大変お忙しかったのでこの際いい機会を神様がお与えになったのでしょう。ゆっくり体を休めるようにと」
牧師の声が明るく部屋の中に響きみんなの心が何となく和んだ。重人は終始笑みを浮かべながら満足げに眼でうなずいていた。
それからしばらく牧師と重人は世間話を交わし始めた。教会の行事等に関する話だったので俊治や奈都子にとってはよく分からなかった。奈都子は頭床台に置かれた花束の包みを解き、窓辺に飾ってあった花瓶のひとつに入れるため水を汲みに部屋を出た。俊治も煙草が吸いたくなったのでそのあとを追うようにして病室を出た。
喫煙コーナーは一階の小さな待合室のようなところだった。二、三人の入院患者がパジャマ姿のまましきりに議論しながら煙草を吸っていた。
「ここはあかん。何回入退院を繰り返すか分からん。もう今度こそはM市の国立病院で診てもらうことにしよう」
「あんたどこでも一緒でっせ。ええ先生に診てもらうか、もらわんかの違いだけやで」
「いや、やっぱり病院によって違う。ここはちっともよう治さん。ええ先生がおらん」
老人同志のようである。ふたりは同室なのか別棟なのか、話だけではよく分からない。もうひとりは傍観者のようにただ傍に座っていて話には加わっていない様子だが関心があるかのように時々二人に対してうなずいていた。老人の二人はどうやら初対面のような感じであったが二人は互いの主治医の名前を出したりして批評していた。歳格好は二人とも同じように見えたがM市の国立病院がいいと喋っていた老人は終始この病院に対しては批判的で他の病院の話題ばかりを口にしていた。彼の着ている派手な黄色のパジャマは達者な口振りの彼を何となく病人とは思えない印象を与えていた。まるで暇つぶしのために入院しているかのようだ。
「でもやっぱりここに居たらろくなことにならんで。わしはそんな気がする」
彼はふたこと目には同じセリフを吐き捨てるように言い放った。そして煙草をプカプカとうまそうに吸い続けるのだった。
俊治は耳に流れるそんな会話を聞きながら副婦長の返事が気になっていた。学会が昨日で終わっているなら外科部長は帰ってきているはずである。在宅していたとしても休みの日に果たして出てくるのだろうか。傍で話をしている病院の悪評が嫌な予感を掻き立てるのである。品野外科部長の迷惑そうな表情が浮かんでは消えた。アポすらとっておらず考えれば会えないのが当然のことなのだが折角の機会だからと思った重人の気持ちも分からないわけではない。それにハナにしても司郎にしても結局のところ直接主治医からの説明はまだ一度も聞いていない様子なのだ。集中治療室を出てからもう二週間は過ぎている。病名の胆道閉塞の治療はこれからどのように行なっていくのか。重人自身にすら十分な説明がなされていないのではないのか。恐らく今日という機会を重人は待っていたに違いない。周りの話に感化されて俊治は益々自分自身が抱いていたこだわりの核心とそれとは一致していることに気づき始めていた。重大な事実は隠される。また対応には不親切という予感は当たるのではないか。
やがて黄色いパジャマの老人は立ち上がってその二人に言った。
「本当は昨日から外泊出来たんやが帰るのもめんどくさくてな。どうせあと二、三日で退院やろし。まあそのうちまた再発したら今度こそM市の国立に行くわ」
彼は艶のある笑い声を残して戻って行った。あっけにとられるように二人はしばらくその背中を見送ったあとお互いに声にならない苦笑いを浮かべて煙草を吸い続けた。俊治にとってはその黄色いパジャマ姿の背中を決して嘲笑するわけにはいかなかった。俊治の眼にはその背中にこの病院を象徴している輪郭が見えたからである。それは彼の指摘していた一部と合致していた。今日は主治医に会えないかもしれない。俊治はふと思った。
二〇五号室に戻って来るとちょうど中山牧師が帰るところだった。
「早く元気になられることを祈っています。きっとクリスマスまでには退院されてお会い出来ることでしょう」
低い牧師の声が廊下まで聞こえた。入れ違いに戻ってきた俊治に気付くと軽く会釈しながらお大事にという言葉を残して高橋と一緒に部屋を出ていった。
まるで礼拝を終えたような清々しそうな表情を浮かべた重人は相変わらず横たわっていて静かに続いている点滴の滴を眺めていた。
「本当にクリスマスまでに退院出来るといいのにねえ」
とハナが言うと、「出来るわよきっと」と奈都子が同調するように答えた。
「中山先生は若いが本当によく出来た立派な牧師だ。これまでの歴代の先生のなかで特に際立っている」
重人はしんみりとするように言った。奈都子に言わせれば術後の二、三週間は安静が必要なのに今日の重人はよくしゃべったに違いない。それに思わぬ人の見舞いを受けなお更のこと興奮していたことは確かだ。感激しやすい重人の性格は分かってはいたもののその重人のつぶやきには普段とは違った感慨が込められていたように三人には感じられた。
やがて二回目の点滴も終わりに近づいていた。そして夕暮れを迎える頃になっても結局、副婦長の返事の結果は持たされては来なかった。
二〇五号室の向かいの部屋に聞いたことのあるような名前の人が入院しているという話が出たのは十月も半ばを過ぎた頃でちょうどこの日は土曜日で京都の茜や箕面の智子夫婦もやって来ていた時だった。俊治はこの日も奈都子と一緒に病院に来ていた。前回主治医との面会が果たせなかったので今回は予め病院にその旨を頼んであった。
「前尾真一郎ってT中の時の英語の先生じゃなかった?」
茜がその人の名前を思い出して俊治と智子に尋ねた。その人は紛れもなく中学の時の英語の先生だった。
「目のくりくりしたポパイみたいな先生でさあ、確かポンスケっていうあだ名の」
茜の弾むような声を聞きながら俊治は思い出していた。三十数年前の春の光景が一瞬蘇っていた。新しく中学生になったばかりの授業中の校舎の窓からは一面咲き乱れた菜の花が見え、そのうえを眩いばかりの光が覆っていた。入ってくる風は穏やかに流れ優しさに溢れて希望に満ちていた。ポンスケの着ていた白衣が溌剌と輝いていて手に持った小さな竹の棒が激しく黒板を叩いていた。
ジィスイズ・ア・ペン。黒板に書かれたスペルをみんなは何度も繰り返し発音させられていた。
「覚えていない?智子は教えてもらわなかったの?調子のいい張り切りボーイだった英語の先生。ジィスイズ・ア・ペンがいつも口癖の…」
「え?あの前尾先生?」
智子もようやく思い出したのかびっくりしている。
「知っている人なのか?」
重人はハナに電気剃刀で髭を剃ってもらっていた。重人の容態は日を重ねるに連れて回復の兆しをみせていて連日続いた微熱もなくなり食事も普通食に戻っていた。従って鼻から入れる点滴はもうなくなっていた。しゃべる声も入院前とほとんど変わらないくらい元気になっていた。仰向けになったまま突然大きな声を出したのでハナは慌てて手を引っ込めた。窓辺の花瓶に持ってきた淡い紅色の蘭の花を差し替えようとしていた奈都子はハナのその驚いた様子を見て笑った。
「ほおー、T中の時の先生か」
重人は感心するかのように唸った。
「でももう危ないらしいよ。昨日も家族の人が集まっていたみたいで」
ハナが電気剃刀の手を休めてみんなに小声で告げた。
「癌ですか?」
しばらくの沈黙があってから智子の旦那の啓介さんが遠慮深かげに尋ねた。
俊治の脳裏にいきなり沸き起こってくる不安が横切った。それは相変わらず居座っていた重人の病状についての原因である。奈都子の言っていた腫瘍説がその話に連鎖するのである。胆道閉塞の原因は胆道に溜まった石か腫瘍かの二つしかなく重人の場合は極めて腫瘍説が強いと言った彼女の言葉であった。まだ主治医からは詳しい説明を一度も聞いていないのでその不安はずっと持ち続けたままになっていた。今日こそは品野外科部長の口から本当のことを聞かなければならない。
ハナは啓介さんの問いかけに首をかしげて分からないふうだった。
「まだ六十そこそこじゃない?」
「若いのにねえ」
茜と智子の沈んだ声が流れていた。危ないらしいと聞いて誰もがその患者の病名を知っているわけではないのに恐らくそれは癌だろうと思っているかのように沈黙してしまっていた。
「向かいの部屋がそんな状態だと何だか嫌な感じですねぇ」
やがて奈都子が重人を気遣うようにつぶやいた。
「あまりいい気持ちはせんな」
「個室は特にこんなとき嫌やな。何か順番に逝くような気がして」
「縁起でもないこと言わんとき」
女ばかりが冗談を言い合って笑った。
重人の左の脇腹には相変わらず胆道ドレナージのチューブが取り付けられていたが今朝病院に着いた時奈都子は病室に入るなり真っ先に袋に溜まった胆汁を見ながら「わあ、こんなにたくさん出てる」と安心したように叫んだ。そしてその色を見ていい色だと言った。その時の奈都子の表情を思うと俊治にとってとても彼女が腫瘍説を抱いているとは信じ難かった。こんなに順調に回復している体に癌など進行しているはずはないと信じたかった。詰まった胆道の替わりにこれだけの胆汁がこの管を通して流れているではないか。例の研修医が最初に彼女に言っていたという腫瘍の疑いが濃いとは果たしてそれははっきりと癌だと宣告したのだろうか。俊治はまさかみんなは重人の胆道に癌が出来ていることなど知る由もないだろうと思った。ただ関係のない手術が終わってその予想以上に早い回復に驚いているだけである。今髭を剃ってもらっている重人本人ですら本当のことを知らないでいるかも知れない。この前の様子から何も主治医から聞いていない感じがするのだ。
同じ疑問は絶え間なく充満していて俊治の頭の中は今日のすべてに賭けているかにみえた。果たしてどんな説明が聞けるか、いよいよ重大な決断の時だと覚悟していた。
しかし何となく気がかりなことがひとつだけあった。司郎のことである。本当のことは最もこの病院とつながりのある彼が既に知っているのではないか。
俊治の耳に再び重人の髭を剃る電気剃刀の音が静かに流れていた。
土曜日の病院はこの間来たときと同じように全体が静寂で廊下に往来する音はなかった。外来が休みのせいだとしても何となく静か過ぎた。普段なら廊下を歩く患者のスリッパの音が響き渡っていたのに今日はすっかり途絶えて看護婦の姿さえ見えない。
やがて昼になろうとしていた。果たして約束どおり主治医との面会が出来るのだろうか。指定された午後になればこの静かな二階の廊下を通って中央にあるナース・ステーションに行かなければならない。俊治の耳を襲ってくるこの今日の静けさは前回の日曜日とは更に違って何か質の違う緊迫感を匂わせているかのようであった。
「お昼の食事の用意が出来ました」
突然部屋のインターホンが鳴り、やがて廊下で配膳のワゴンが来る音が聞こえてきた。軋むその車輪の音に混じってやっと廊下に患者の声がした。各部屋から洩れてくる生活の音がやっとこの時になって静かな廊下を潤すようであった。
「お昼はどうする?外にでも食べに行く?」
ハナは電気剃刀を仕舞いながらみんなに尋ねた。
「そうやね、みんなで食べに出よか」
茜がみんなを促すように快活に答えていた。
俊治は頭床台のそばの小さなテーブルに置かれたままになった電気剃刀を手にとってり蓋を開けてみた。なかに溜まった重人の髭の粉を小さなブラシで掃きその塵のように集まった粉をティッシュの上に落としてみた。真っ白な粉末だった。
「俊ちゃんはどうするの?」
智子の声が響くなか俊治は無言のままそれを見つめていた。
主治医との面談は午後と聞いていただけで先生の都合がつき次第という約束であったので昼食の終わったあと俊治は二階のナース・ステーションへ行って確かめてこなければならなかった。窓口へ行くと、なかで若い看護婦が二人忙しそうに動き回っていた。誰かがカウンターの前に立っても自分たちの仕事の方が優先していた。中の壁には二階に入院している各病室の患者名のプレートが掛けられていてそのボードの備考欄に赤や黒や青の様々な文字や記号が走り書きがしてあった。静かなはずの院内でここだけはひっきりなしに電話のベルが鳴っていた。それは病室からの呼び出しブザーに違いなかった。そのたびに彼女らは対応しているため窓口に現われた人のことなど構ってはいられない様子なのである。
「二〇五号室の橘の家族なのですが」
俊治は少し大きな声を出して呼び掛けてみた。
「今日品野先生から説明があるということで来たのですが何時頃になるのでしょうか」
動き回っていた一人がやっとこちらを振り向き「品野先生ですかあー」と答えながら何か中央の机の上の書類に目をやっている。肝心の時間が分からないということは俊治にとっても少し不満だったが病院側の都合もあるのだろうと思って言われるままに約束していた。前回時の萩原副婦長が今日も出ていればいいのだがと思いながら俊治はしばらく彼女の返事を待った。やがて彼女はもう一人の同僚に何やら相談している感じだった。その同僚は窓口に立つ俊治の方をちらっと見ながら立ち止まり同じように中央の書類を見た後奥の部屋へと消えて行った。それは外科部長の部屋かと思われた。その間また病室からのブザーが鳴ったため残された方の彼女は急いでインターホンを取るため別の隅へと走った。奥の部屋に消えた同僚の看護婦はすぐに出てきて俊治の前までやって来ると申し訳なさそうに答えた。
「先生は今、検査のため一階に下りています。終わったらのちほど連絡しますので」
笑みを浮かべる余裕もなく忙しそうに答えると彼女の眼は次に抱えている仕事の方に関心が表われていた。俊治の耳にもその時ひっきりなしに鳴りっぱなしのブザーの音が聞こえていたのである。
廊下を戻りながら俊治は前回の萩原副婦長の対応と今日応対した若い看護婦の答えた内容とを重ね合わせていた。何故か主治医は常に忙しくてスタッフとの連絡が取れていない。ただし前回は最初から会うつもりではなかったのだが結局副婦長からの連絡の返事は帰ってこなかった。今回も決して主治医は逃げているわけではないとしても約束の時間は不明になってしまった。何から何まで病院に対する不信が込み上げてくる感じだ。
途中に大部屋がいくつかあり開いているその戸の隙間からなかの様子が伺えた。見舞い客の談笑やラジオの音などが洩れ和やかな午後のひとときが漂っていた。部屋の番号と患者の名前の入った札を確認しながら歩いていくとちょうど中央のナース・ステーションから東西に病室が分かれていてそれぞれの端の五部屋ほどが個室であることが分かった。二〇五号室は東側の一番突き当たりの部屋だったが同じ並びですぐ隣の部屋には部屋番号が入っていなかった。病室ではないらしく倉庫みたいな感じで入口の間口も狭い。その前を通りかかった時なかから低い女性の声が小さく洩れたような気がした。若い女性の声だった。同時に部屋の中で吸っていると思われる煙草の匂いがした。中央の詰所ではたった二人が忙しく動き回っているというのに煙草を吸って休憩している看護婦がいるのか。入院当初重人が婦長に対して説教めいた意見をしたことが何となくうなずけるような気がした。
二〇五号室の前まで戻ってきて俊治はふと向かいの部屋の名札を確かめるように眺めた。間違いなく前尾真一郎とある。把手には面会謝絶の赤い札が取り付けてあった。
部屋に戻ってみるといつの間にか司郎の家族が加わっていて部屋中賑やかな雰囲気が充満していた。
「品野先生は検査で一階に下りているらしい。終わってからになりそうや」
俊治は重人に伝えた。
「午後からって言っておきながら当てにならないわね」
奈都子が不満そうにつぶやくと茜が、
「あまり遅くなりそうだったら俊ちゃん代表して聞いておいて。私たちは先に帰るし」
と言った。
「何でしたら私が聞いておきましょうか?お兄さんたちも帰る時間があるでしょうし」
司郎の妻の睦子が気を遣って俊治に向かって尋ねた。しかしそれを聞いた重人が口を開いた。
「俊治も自分で直接聞きたいだろうし私も品野先生に長男に説明をしてやって欲しいと頼んだので…」
とまるで俊治の心を読み切っているように言った。俊治は自分の心を見透かされているような狼狽と同時にその意味は病人の本人ですら詳しい内容を知らされていないことに他ならないのではないかという予想通りの重人の不安を掴んでいた。司郎は毎日顔を見せてはいるが重人はやはり司郎から何も知らされていない。俊治は益々今日の機会は絶対逃すべきでないと再確認した。この際詳しい病状と今後の治療法について徹底的に明らかにしてもらわなければならない。
「備長炭といってこれを置いておくと部屋の空気を清浄にするんや」
司郎は相変わらず東洋医学と自然食品に凝っていて今日は病室に数片の木炭を持ち込んでいた。
「せいじょうって何?」
安展が口を尖らせて聞いている。
「空気が透き通ってきれいになること。病気をしている人の部屋にはいつもきれいな空気がいっぱいあるのがええやろ」
司郎は小さな篭にそのくすんだ木炭の欠片を分けてから部屋の片隅二箇所にそれを置きながら安展に話して聞かせた。みんなが呆れたように笑いながら司郎の動きを見つめる。その背中を眺めていた重人は思い出したように司郎に呼びかけた。
「今度来るとき活性水持ってきてくれんか。もうなくなったので」
俊治は活性水と聞いてしばらく何のことか分からなかった。が、やがてそれが緊急手術の翌日司郎が応接間で披露していた例の水のことだと判明した。純子が思わず「だっくりの水や」と叫んだ水のことなのだ。
「もう無くなったの?あれ高いんだよ」
部屋の冷蔵庫を開けて確かめながら司郎がつぶやいている。
「お爺ちゃんはその水で血圧の薬を毎日飲んでいるから」
ハナがその理由を弁解するかのように答えた。そしてその水がないと薬が飲めないので早く取り寄せて欲しいと言った。
「血圧の薬飲んでいるの?」
奈都子がびっくりしたような怪訝な声を上げた。重人が三十数年来飲み続けている血圧の薬のことは奈都子も以前から聞いてはいたがまさか入院していてもそれを飲み続けているとは気付かなかったからである。
「先生に相談したの?飲んでること」
奈都子が聞くと、
「飲んでいてもだいじょうぶって言われた。だって急にやめるわけにはいかないもの」
ハナは重人に代わって答えた。奈都子は少し首をかしげている様子だったが寝ていた重人も、他の薬との競合による副作用は何もないらしいと病院から許可の下りていることを説明していた。
その薬は特注品でわざわざE市の個人病院から出してもらっていた。若い時から高血圧のためいろんな薬を試してはいたがあまり効き目はなかったらしく病院をいくつも変えてやっとその病院の出す薬に落ち着いていた。それからもう十数年は経っている。薬が切れると重人は列車に乗って一時間もかかるE市のその病院へ通うこともしばしばあった。やがて病院の方がそれではあまりにも気の毒と思ったのか今では定期的に郵送されていた。
備長炭や活性水が運び込まれる病室や入院しても取り寄せて服用している血圧の薬のことを思うと重人の凝り性で一徹な性格が場所を変えてここでも健在していることやベッドの周りで飛び交うみんなの笑い声を聞いていると俊治はふだんと変わらない橘家の日常を感じた。少なくともこの瞬間だけは俊治にとって様々な憂欝な翳りはどこかに消え去っていくかのようであった。
原因についての詳しい説明を受けていないことが事の重大さを暗示しているようでならなかった。それとも黄疸の処置がひとまずとられたことでみんなは病気そのものが何であれとにかく回復に向かっていると信じているのだろうか。みんなはあとは病院に任せればいい、何も気に留めなければすべてが順調にいく、中山牧師のいう今はただ重人にとっては休息の時間が与えらているのだと思い込んでいるのだろうか。
午後の病室に射す陽はただ陰欝として重く、その長い影を蘭の淡い紅色の上に落としていた。
「遅いわねえ」
誰も居なくなった部屋のなかで奈都子のため息が響く。あとに続く会話もなくただ二人の影だけが眠り続ける重人の前に座っていた。二人は眠っている重人の腕に注がれている点滴の管を眺めて待っていた。京都の姉や箕面の妹らはすでに帰っていき司郎夫婦も買物をしたいというハナを連れて先程部屋を出て行った。俊治と奈都子だけが日の暮れようとしている病室に居た。検査はいつになったら終わるのか。終わったあと主治医は本当に約束どおり会ってくれるのか。俊治は何度も前回のことを思い浮かべていた。連絡がとれないと答えた前回の看護副婦長の表情には少し困惑した気配が走っていたことは確かだった。気のせいだったかもしれないがあれはわざと会わしたくなかったのではないのだろうか。
「ひょっとして品野先生はそれどろではないかもしれないよ」
奈都子は思い当るようにつぶやいた。俊治は黙って聞き流していた。
「前の部屋の人、危ないんでしょ?。様子を診ていなければならないんじゃないの?」
俊治は黙って聞き流していた。それは前尾真一郎のことを指していた。そういえば外来のない土曜日に検査で下におりているというのも思えばおかしな話だった。俊治は面会謝絶の赤い札とハナの言っていた言葉を同時に思い出していた。もし品野医師が重篤の患者に備えてついているとすれば手のすく時間は取れないかもしれない。
沈黙に蔽われながら二人はただ点滴を見つめた。こだわり続けている自分が本当に聞きたいことは何なのか。俊治は解明点を絞り込んでいた。原因である腫瘍のことなのか。あるいは腫瘍でなくて石でありたいと願う朗報なのか。それよりも最初の疑念である隠された医療ミスのことなのか。渦巻く思惑はどれをとっても結局自分自身の抱いている仮想に過ぎずとにかく会ってみることが先決だった。待っている間その重圧にも似た焦りと苛立ちと不安は益々募ってくるばかりである。
「もうすぐ勤続表彰ね…」
気分を入れかえるかのように奈都子は立ち上がり、話題を変えた。
「うむ…」
今年で勤続二十五年になる自分の会社の表彰式のことを言っていた。褒賞として海外旅行の特典がついていた。
「この分だとハワイもいけないよ…」
「そうね。…無理ね」
奈都子はうなだれるようにため息をつきながら窓の外を眺めたあと再びもとの位置に腰を下ろして重人の寝息に耳を傾けた。それからまた話題が途切れた。
点滴の滴が静かに落ち重人の吐息だけが再び部屋を支配していた。
「症状の原因を聞くと言っても細胞診の結果を待ってからでないときっと分からないと思うわ。まだ大分先のことになるんじゃない?」
しばらく間をあけてから奈都子が静かにつぶやいた。しかしこれを聞いた時俊治は既に閉塞箇所の細胞は調べられていると思った。
「検査結果は出ているだろう」
これだけの日数があって肝心の検査が行なわれていないはずはない。俊治が苛立つように答えると奈都子はこれまで溜めていたことを一気に吐き出すようにしてしゃべり始めた。
「だったら病名は胆管腫瘍よ。何回も言うようだけどここに入院する前にかかっていた見上医院の検査データーがあったでしょ。私の行っている市民病院で調べたのよ。よく知っている消化器内科の先生がびっくりしてたわよ。なぜこんなになるまで放っておくのかって。お父さんは人がいいから見上病院のいう通り単なる疲労で肝臓が弱っているとしか思わなくてずるずる通い続け私たちがあれほどやかましく言ってやっと見上病院から血液検査の生検データをもらったんじゃないの。あんな病院にいつまでもそのまま任せていたらそれこそ手遅れになったわ」
奈都子は語気を荒げながら更に続けた。
「そりゃあここだって詰まっている胆管の原因が即、腫瘍だとも言えないわ。しかし造影剤を入れて検査する前日あの研修医と廊下で話す機会があったのよ。私がその疑いについて尋ねてみたら先ず百パーセント間違いないって言ってた。だってアミラーゼの数値が異常だったのよ」
とこれまで繰り返してきたことを再度言った。
俊治は打ちのめされていた。証明しているデータに勝てるはずがなかった。ただ残されているとすれば本当に聞きたかったのはこの病気の原因よりもむしろ最初に腹膜炎を起こす要因になった何でもない初歩的なミスを隠そうとする病院の態度だったかもしれなかった。患者の家族として人の命を預かる医師の人間としての心にだけは裏切られたくはなかったのだ。しかしそのことをなぜか奈都子には言い出せなかった。
廊下に突然慌ただしい足音が起った。無言で沈んでいた部屋の空気が一瞬張り詰められるような妙な緊張に覆われた。二人は同時に廊下の有様を想像しそれが向かいの患者に異変が起きたのではないかと直感した。医療器具が運ばれていく床を擦るような車輪の音がしてその軋み音が緊急を告げていた。看護婦の堰を切ったような吐息までが鋭くこだました。
「何かあったのかしら?」
奈都子は俊治の眼を見て言った。
「前尾先生の部屋みたいだな」
「危ないんじゃない?」
やがて当直医が駆け付けた様子でその部屋に入っていった。
再び若々しいままのポンスケの面影が俊治の脳裏を走馬灯のように駆け抜けていく。白衣姿の彼が小さな竹の棒で黒板を叩く音とジィスイズ・ア・ペンとみんなのこだまする声がまるでそれは消えいく命に対する絶唱のように沸き起こるのである。もはや俊治の直感は常に悪い方の予感しか棲み付いていなかった。更にその光景のうえに何故かあの時教室の外に見た盛んに揺れていた黄色い菜の花の群れが不思議に交錯するのであった。
「だめかな…」
「家族の人は来ているのかしら」
花瓶に差した窓辺の蘭にいつのまにか薄暮の影が落ち、二人が黙って耳をそばだてる部屋のなかは再び静寂が覆った。
重人の点滴は残り少なくなっていた。二人は眠り続ける重人の姿を眺めながら依然と耳だけは廊下の様子に向けられていた。
「もしもの話だが」
俊治はぽつりと言いかけた。その時だった。二〇五号室のドアが開いた。
「何か騒がしいなあ。何かあったの?」
買物から帰ってきたハナが部屋に入ってくるなりいきなり二人に尋ねた。ハナも廊下の異常なことに気付いているようだった。黙っている二人の様子を見て、やっぱりとつぶきながら向かいの部屋を眼で示し、今家族の人が駆け付けている感じやと小声で告げた。
「もうあかんな…」
ハナはしんみり言った。静かに息を吐きながら手に下げていた大きな買物袋を下に置いた。司郎夫婦は居なかった。途中で彼らは家の方へ帰ったらしい。
「何を買ってこられたんですか?それは」
奈都子はハナに声をかけた。
「お爺ちゃんのガウンや。家にもあるんやけどな。病院用にと思って」
ハナはそれを取り出しながら微笑んでいた。
「もうすぐ寒なるやろ、こんな色やけど似合うかなあ」
落ち着いた茶系統のガウンだった。
「いいですねえ」
奈都子は即座にうなずいた。先ほど俊治が話しかけようとしたことなどすっかり忘れてハナの差し出すそのガウンを見つめているのだった。
「ところで先生はまだか?」
ハナも気になっていたのかガウンを仕舞いながら俊治に尋ねた。俊治がまだと答えると、
「もう夕方やで、昼からやと言うてはったのにえらい遅いなあ。一回聞いてみたら?」
と呆れた。しびれを切らしたように奈都子が声を荒げた。
「インターホンで詰め所に聞いてみたら?本当に今日説明が聞けるのかどうか。いくらなんでも待たせ過ぎよ」
ようやく俊治も決断した。部屋にある呼び出しボタンを押すことにした。ところが二、三度押してみても詰め所からの応答がない。
「だれもいないのかしら?」
「いないみたいやね」
奈都子とハナのつぶやきを聞き流しながら俊治は詰め所の様子を思い返していた。忙しそうに走りまわっていた二人の看護婦の姿を思い浮かべながら再度押し続けた。
「そんなはずはないだろう」
三人がしばらくそのまま黙り込んだ時突然廊下が再び騒がしくなった。慌ただしく人が駆けて行く音がし、入れ違いに駆けつけてくる数人の足音が聞こえた。それは向かいの部屋のドアの前で止まり中へ入っていった。
「忙しいんじゃない?」
「ひょっとして品野先生もそれどころじゃないかもよ。立ち合わされているんじゃない?」
「もう一度詰め所に行ってこようかな」
俊治は呼び出しボタンを諦め二人に対して言うと早速部屋から出て行こうとした。が、その時インターホンのスピーカーから「はぁーい」という返事が聞こえてきた。
「どうしましたかあ?」
俊治は急いで引き返しスピーカーに向かって答えた。
「橘ですが、品野先生はまだでしょうか。ずっと待っているのですが」
相手はちょっと押し黙ってから「しばらくお待ち下さい」と言うなりガチャッと送話器を切ってしまった。
「本当に今日の午後という約束だったの?先生忘れてはんのんと違う?」
ハナが心細そうに俊治に尋ねた。俊治の脳裏に前回の戸惑いかけた副婦長の表情が一瞬浮かんだ。今回もひょっとしてあてにならないなと嫌な予感が走った。
しばらくたってから果たしてインターホンが鳴った。
「あのう、お話の件ですが…先生はご家族の方に説明はしているとのことですが」
「家族?」
「はい」
俊治はそれは司郎のことだと思った。
「先週、先生とは今日の約束で来ているのですが。時間も今日の午後とそちらからおっしゃったのですよ」
また同じように相手は押し黙った。そしてしばらくお待ち下さいと言うと例によってまたガチャッと切った。
司郎に何を話したというんだ。それより自分との約束はいったいどうなっているんだ。俊治は約束を軽視されている怒りで奮えた。
「何も聞いてないで。司郎も恐らくそうや思うけどなあ。あの子は何も言わないから分からんけど」
ハナが傍でつぶやいていた。
「もういいじゃない。どうせまだ治療はこれからだし。何も今特に説明することってないんじゃない。毎日の状況はきっと司郎さんに伝えられているのよ」
奈都子の言葉は俊治の胸に突き刺さった。
眼の前の点滴の最後の滴がゆっくりと落ち切ろうとしていた。
そして「もしもの話しだが」と俊治が話しかけようとしていた内容も結局告げられないままになった。