第三回
第二章「聖杯の滴」
重人の本格的な入院生活が始まった。恐らく七十六年間のうちでこんなにも長く病気で臥すという生活は過去になかったろう。勿論俊治にとってもこのところ毎週のように田舎のF市に帰っては重人を見舞いに行かざるを得なくなり、それはいつも土曜日とか日曜日に限られた。平日は常に兄弟の誰かが見舞い、その日の病状については必ず長男である俊治のもとに報告が入った。聞くたびに相変わらず病院の持つ診療科間相互における権威主義が患者を蔑ろにしている様が日を追って俊治の不満を募らせた。検査の続く毎日で肝心の治療は最初受け持った消化器内科が主導権を握っているにもかかわらずいたずらに時間がかかった。そもそも胆道閉塞の治療は胆道に詰まった胆汁を管を通して外へ排出しなければならずその処置を行なうのは外科の分野なのだ。ふたつの科における共観治療というやり方なのでお互いの準備や調整を必要としたからである。土曜、日曜は検査も往診もなく入院患者はまったく放ったらかしになった。週に一度ある院長回診も事務的な問診程度で終わり二言三言患者に声をかけるだけで終わった。
大事に至らず三日後にはICUから出て個室に移ったものの今どんな病状でどんな治療がなされているのかまた今後どんな治療が施されようとしているのか俊治は一度病院側の説明を直接聞きたいと思っていた。
十月に入った最初の日曜日。金木犀の甘い香りが漂う丹波路を妻の奈都子と一緒にF市へ向かっていた。
「教会へはお母さんひとりかしら?」
車を運転する俊治の傍らで彼女はポツンとつぶやいた。先程までの病院の話題がこれで途切れたかに見えたがハンドルを握る俊治は生返事をしただけである。俊治の頭のなかは依然としてF市民病院の治療に関して幾つかの不満材料が残っていてまだ納得がいかない。それは常に看護婦をしている奈都子の話を聞くたびに燻り続けていたものが火を噴くようにして広がり始めその病院に対する不審がひとつの怒りとなって凝り固まっていくのである。あらゆる点でこのF市民病院と奈都子の勤務している大阪府下の市民病院とでは違いがありすぎた。これが同じ人命を預かる医療機関としての姿勢なのかと信じ難くなるほどである。
「今日果たして主治医の説明が聞けるのかなぁ…」
俊治は再び病院の話を続けようとして奈都子に呼びかけた。
「日曜日よ。先生は休みに決まってるじゃない。」
この調子でいくと俊治にとってはいつまで経っても病院側と直接に接触出来なくなる。一度平日に休みをとって主治医に直接会いその容態についての説明を聞いてみたいと思ってはいたが忙しくて休みなど取れそうもなかった。それにしても土曜、日曜が特別の場合を除いて入院患者すら主治医との接触が完璧に休みだとは思ってもみなかった。
「そりゃぁ看護婦さんに連絡してもらって先生の都合さえ折り合えば説明をしに出てくれるわよ。しかし、そんな場合は前もって言っておかなくては…」
F市へ続く高速道路は日曜日と時間的な早さもあってか比較的すいていてこの分で行くと十時前には実家に着きそうである。さっき奈都子がポツンと言った教会へは今日は自分も一緒に行くつもりでいた。
「今日は俺も教会へ行くよ」
その言葉を聞いて奈都子はしばらく黙ったあと「司郎さんがお母さんを乗せていくかも知れないわよ」と言って流れる景色に眼をやった。確かにいつものように司郎が乗せていくだろう。しかし、その意味で言ったのではなかった。自分自身が今日は教会へ行ってみたかったのだ。何かを一途に求めている自分の姿が矢のように飛んでくる前方の風景のなかに煌めいていた。教会が燻り続けようとする懐疑心を癒してくれるような気がした。
「教会の先生は知っているのかしら。お父さんが入院したこと」
「そりゃあ知っているだろう」
知らないはずがなかった。どれだけ重人がその教会に貢献し同じ信者のなかでも中心的な役割を担っていたか。そのことについては今の教会に二年前に赴任してきた若い中山牧師が一番よく知っていた。彼は同系列の神戸の教会にいる時から熱心なクリスチャンである重人の噂は耳にしていた。
F市に初めてそのプロテスタント系の教会が建ったのは四十年ほど前になるがそれまでは橘家やそのほかの家庭において祈りの会が持たれていたのである。俊治がまだ小学生の頃の話で勿論、その頃はまだ親父はクリスチャンではなかったように記憶している。ハナのほうが熱心だった。
それがいつのまにか教会建設の先頭になり、この二十年の間に二回の教会の移転に関するときにも市とかけ合ったりして新しい会堂の実現に力を尽くした。この重人の功績は京都に本部を置く牧師たちはもちろんのこと全国的にその名は知れ渡っていたのである。勿論赴任してきた中山牧師はこのことを知っていたし、何よりも信仰熱心な重人に惹かれていたのである。重人が教会の会計等も任され教会運営の中心的存在であったことは牧師がいかに重人に厚い信頼を寄せていたかが伺われる。その重人が入院してから二週間以上が過ぎているのだ。牧師がこのことを知らないはずはないと思った。
俊治の運転する車は順調に走り続けていたが西宮ICを過ぎた頃から突然前が渋滞し出した。
「事故かな?」
「ダメみたいねぇ。これじゃぁ遅れるわよ。十時には着かないわよ」
顔を曇らせている奈都子に促されて俊治は計算をしてみた。西宮からF市まで普段の時なら一時間だ。このままでいくと彼女の言う通り十時には着かない。
「電話をしてくれないか」
「困ったわねえ」
奈都子は携帯電話を取出しながらつぶやいた。
やがて俊治は渋滞する高速道路を諦めて宝塚ICから降りることを決断した。しかし、ここでまた車の洪水に見舞われる結果となった。F市へ向かう一七五号線もこれまた大渋滞だったのである。
「すごい車の量ねぇ。下手したら二、三時間はかかるかもよ。もう一度お母さんに電話する?」
「いいよ。どうせ俺は教会へは間に合わないよ」
折角今日は礼拝に出ようと決心していたのに予期せぬ出来事にいきなりその計画を砕かれて俊治の胸中は穏やかでなかった。長いあいだ遠ざかっていたものが更に遠くに行ってしまうような心細さを覚えた。傍らにいる奈都子にそれを説明したところで到底彼女には分らないだろう。実家の八畳の居間の床下の土の中に重人が埋めた聖書のことは手術の日以来俊治の心のなかで大きな比重を占めていた。日曜日がくるたびにそれは負担となっていただけにこの事態には一挙に怒りが込み上げてくる。
眼の前に広がる渋滞は高速道路よりもひどく既に西宮ICで降りた車が多かったことを示していた。
「ついてない」
「下のほうがひどいねえ」
舌打ちをする俊治の横で一七五号線の有様を見た奈都子がため息をつく。少しも前へ進むことが出来ず盛んに鳴らす後ろのトラックのクラクションの音は俊治の心を余計に苛立たせた。選りにも選ってなぜこんな日に事故の巻き添えを食わなければならないのか。
そんな光景の中で俊治は再び病院に対する怒りと不安とを呼び覚ましていた。
それは重人の緊急手術に至った経緯であった。間違いなくあの若い見習い研修生のような主治医の洗浄ミスによるもであったろうと思われる怒りである。もしあのミスさえなかったら破裂した胆嚢など取り出す手術など必要はなく同じ一回の手術で本来詰まっている胆道にバイパスを施す処置で重人の病気の治療は済んだはずである。もしそれが事実なら訴えようと思えばいつでも訴えられる。しかしその事実を自分が見たわけではないし、しかも医学的に立証できる根拠すらもたない。
トラックのクラクションはようやく止んで少しずつ車が進み始めた。このまま一七五号線をただF市へ向かって運転をし続けるのみである。しかし、俊治にとって一七五号線でF市へ帰るのは初めてのことだ。これまでいつも高速を使って走っていたので勝手が違い、入り組んだ交差点での選択に迷った。時として標識の読みにくい箇所が何度かあった。
宝塚のICを降りてから小一時間走り続けてようやく周りが静かな田園地帯となった。道は一本道で真っすぐ見通しのいい道路である。
「今どの辺を走ってるの?」
「三田は過ぎてるだろう。もうすぐ篠山じゃないのかな」
乾いた草や肥えた土の匂いが秋の陽光に揺らぐように漂ってくる。
「篠山?じゃあまだ大分あるじゃない」
奈都子はため息をつきながら「まだ二時間はかかるわね」と諦め切ったようにつぶやいた。
それからしばらく無言で走り続けた。俊治は重人にもしものことが起きたらこの洗浄ミスの件を訴えるべきかどうかの是非についてまだ考え続けていた。弟の司郎は病院と関係があるので立場上恐らく反対するだろう。しかし他の兄弟やハナはどう思うのだろう。人の命を預かる医者とはいえ過失はあり得る。同時に任せた以上文句の言えない患者側の辛い宿命がある。しかし明らかに過失だと言えるのなら黙って見過ごすこと自体それはその過失に対して容認することに他ならない。結果的に病気が治ればそれに越したことはないがもしものことを想定するとあとになってこの悔恨の凝りは拭い取ることが出来なくなるのではないか。
俊治の運転する車は三田市郊外の田園地帯を通り抜けやがて左右が樹木の生い茂る山間道路へと突き進んでいった。大阪の自宅を出発してから軽く二時間半は経っていた。あと二時間近くはかかりそうである。時計の針は既に十時を廻り普段ならとっくにF市に着いている時間だ。
「正明から何も連絡はないのか」
俊治は急に思い出したように奈都子に尋ねてみた。息子の正明は国立大の二年生で四国でひとりで下宿していた。これまでほとんど大阪に帰ってきたことがなかったがどういうわけかこの春は二、三日だけ一度ふらりと戻ってきた事があった。自動二輪の免許を取りたいという話をしていて金を受け取るとすぐまた四国の徳島へ帰って行った。
「お爺ちゃんが入院したことは言ってあるんだけど。あの子もバイトと部活で忙しいんじゃない?」
正明は一浪して今の大学に入ったが最初の受験に失敗した年ひとりで田舎へ遊びに行き重人に来年は必ず合格してその報告をみやげに持って来ますと言って帰って行ったらしい。重人はそのことをよく覚えていて俊治は重人からその話を何回も聞かされた。橘家の孫は全部で十人いたが正明だけが一番遠く離れて下宿していた。もっとも神戸にいる弟の克巳の娘であるひかるはミッション系の女子大付属高校に通っていて近くアメリカに留学するという話は聞いてはいたがまだ当分先のことらしい。
車は林に包まれた山道を快調に進んだ。道路は舗装されており、その路面いっぱいに反射した木々の影が広がっていた。眩しく洩れる陽光を浴びながら滑るようにして進んでいくとまるで森の精の合唱が遠くから聞こえてくるような錯覚に陥った。俊治の頭の中にそれは染み入るようにして聞こえてくるのだ。十時半の礼拝はもう始まっている頃だと俊治は同時に考えていた。
「この辺りじゃない?丹波焼だったかしら、その窯元があるのは」
「そうだな。もう少し下ったところかな」
「お父さんから貰ってたわねぇ。丹波焼きの絵皿」
奈都子のしんみりとした口調を聞き流しながら俊治は眼の前の森の合唱と丹波焼きの絵皿とを重ねていた。貰ったその絵皿には愛という文字が彫られ淡緑色のなかに黒光りのする艶があった。それは不思議と心鎮まるような落ち着きと神秘的な奥深さを放っているかのような重みを感じさせた。その絵皿は重人が七十のとき受賞した瑞宝章の祝い返しの品として丹波に住む陶芸作家に頼んで焼いてもらったものだと言っていた。その愛という文字の入った丹波焼の絵皿は中山牧師の教会の玄関にも埋め込まれてあった。
「愛という文字の入った焼物よ。覚えてる?」
「‥」
俊治はこれまでの経過についての結論を急ごうとしている自分の心の葛藤が次第にほぐれていくのを感じていた。何の因果でその窯元の近くを今日走る羽目になったのかを考えると益々重人が自分に諭していることが見えるような気がした。
「この先をもう少し下ったところに見えて来るんじゃないかな。煙突が見えたらその丹波焼の窯元だ」
「あ、見えた」
奈都子の短い叫び声が傍らで弾んだ。
二〇五号室に着いたのは十二時を少し過ぎていた。病室には重人がひとりだけトランジスターラジオのイヤホーンを耳にして横たわっていた。入ってきた二人を見て微かに口元に笑みを浮かべ「やあ」と言うように軽く腕を振るような仕草をして見せた。が、実際にはその声は小さく聞き取りにくかったし上げたつもりの腕もほんの少し右手の指先が動いた程度だった。
「まいったなあ。事故があって遠回りしたよ。四時間もかかってしまった」
重人はラジオのイヤホーンを外しながら少し驚いたような様子をみせて「どこで?」と尋ねた。その声は依然とかすれていて小さい。この前来た時と同じように左手には化膿止めの点滴、首筋の静脈には栄養源を補給するカテーテル、さらに左脇腹に胆道ドレナージのチューブと大きな体は相変わらず様々なチューブが差し込まれている。毎日決まった時間に行なわれる点滴など一時間や二時間で済むようなものではなかった。
「もう、尿はひとりで行けるのですか?」
奈都子は病院に着く前近くの花屋で買ってきた白いかすみ草の花を取り出しながら尋ねた。窓辺の花瓶にそれを差しながら彼女はいち早く重人の体から尿管カテーテルがないことに気づいていた。そういえば先週の土曜日はICUからこの個室に移ってからまだ間もない頃だったから重人は尿管カテーテルをつけていたような気がする。排尿の体力がついていなかったに違いない。しかし奈都子の指摘するように今日は確かにその管はついていない。
「この下で採るようにしている」
重人はベッドの下を指差した。畜尿瓶のことを言っているらしかった。
頭床台には運ばれた昼食が置いてありそのプラスチックの食器が窓辺から射す淡い光に照らされている。まだ当分の間重湯が続いている感じだ。
「お前も運転には気をつけないといかんぞ」
ひとりごとをつぶやくように重人は言ってから、
「お母さんももうじき来るだろう。教会も終わっているだろうし。お前たちは飯は食ったのか?」
と二人に尋ねた。多分司郎が教会への送り迎えをしているだろうと思ったので俊治は司郎が来た時に一緒に食べようと考えていた。
「まだだけどもうしばらく待つよ」
点滴が一滴一滴落ちるのを眺めながら俊治は答えた。
「俊治さんって珍しく今日は教会へ行くって言うのよ。そんな日に限ってこんな事故よ。滅多にないことをしようとするから」
奈都子はしばらくおいてから俊治のことを茶化した。
「そうかもしれないな」
俊治が苦笑いをするとベッドの重人も微笑した。
「たまには行っているのか?」
それは智子が行っている教会を指していた。智子は箕面に住んでいたが俊治の住んでいる吹田の教会へ行っていた。重人はそれをよく知っていたのである。
「永井先生ともずいぶん会っていない」
俊治はまるで溜息を吐くような口調で重人の問いに答えた。
「こっちの教会も近々、鐘が付くようになってなあ」
急に重人が思いついたように語り始めた。
「鐘って?」
奈都子が不思議そうに尋ねた。
「チャペルの屋根に取り付ける鐘なんだが、今我々信者のあいだでそのための献金を集めている。もう大分集まっているはずだ」
話す重人の言葉に純真な喜びのようなものが息づいていた。その眼光はまるで病人を感じさせない爽やかさが輝いていた。俊治はその鐘の音を想像し、教会の玄関の壁にはめ込んだという愛という文字の焼き物とを重ねてみた。まるで重人の人柄が浮き彫りになっているような気がした。
何も知らない重人は横たわりながらやがて訪れる鐘の音色を語っている。それだけにいつのまにか俊治は再び癒着してしまったこだわりに引き摺り込まれるのであった。眼の前のチューブに縛られたような巨体を見るとまさか医療ミスのために緊急手術を余儀なくされたことすら知らずにいる重人に対して反面物憂い気持ちに覆われるのである。
「お父さん、まだ重湯なのねぇ」
奈都子が頭床台に置かれたままになっている食事の献立を見ながらつぶやいた。点滴はまだ終わらない。やがて空になりつつある二本の瓶を三人はしばらくじっと眺めているしかなかった。ふたつの点滴を見比べながら奈都子は説明するかのように言った。、
「首の静脈から入れているのはIVHで栄養剤、手の方が化膿止めで抗生剤。当分これが続くわね」
それから脇腹の胆道ドレナージに溜まっている胆汁の色合を眺めながら「まあまあの色ね」とまるで病院の関係者のように安心した口調で重人に告げるのだった。
「さすがは奈都子さんは看護婦さんだからよく知っているねえ」
うなずきながら聞いていた重人は感心していた。
ICUからひとまず出られたものの今後どのような治療が計画されているのか、俊治は主治医と一度直接会って話をしてみたいと改めて思い起しながらそのドレナージに溜まった濃い褐色の液状を見つめていた。胆道閉塞の原因が奈都子の言うように腫瘍なら腫瘍としてどの程度のものなのか早く知りたかった。
部屋をノックする音がして看護婦が入って来た。
「橘さん、終わりましたか?」
その年増の看護婦はいかにも事務的に呼び掛けただけで笑顔ひとつもみせず入ってくるなり先ず点滴の量だけを確かめた。「もうすぐ終わります」と重人は親しみを込めるような優しい笑顔を返しながらその看護師に「大阪から来ている長男夫婦です」と俊治と奈都子を紹介した。その声にふたりに向かって軽く頭を下げた彼女は再び重人の方を振り返りながら「別に変わったことはないですね?」と再び事務的な口調で確認すると「終わったら呼んで下さい」とだけ最後に言ってドアを開けて出ていった。
「今日、主治医には会えないのかな」
俊治はその看護婦が出ていった後思い出したようにつぶやいた。それから、「消化器内科のなんて言ったかな。主治医は?」
と名前を奈都子に尋ねた。
「確か保田とか言ったわ」
しかし、答えかけた奈都子は「でも違うわよ」と急に妙な声を上げた。彼女の視線はベッドに記された主治医の名前の欄に吸い寄されていて驚いた様子であった。
「お父さん、主治医は品野先生なの?」
ベッドの枕元に書かれていた主治医欄の名前を奈都子は読んでいた。重人はうなずいている。品野外科部長と言えば緊急手術のあと我々に説明をしてくれた医師だ。入院当初の主治医だったあの若い保田という研修医のような医者はどうなったのか。
「この二階は外科病棟じゃない?お父さんは外科で手術したから当分受け持ちは外科の先生が診るのよ」
奈都子は納得したように勝手に判断している。俊治は不思議に思いながらその患者名簿の主治医欄を見続けた。主治医が変わるとはどういうことなのか。重人の病気は初診時で消化器内科の受け持ちではなかったのか。手術は実際外科が担当したとしても患者の病名から主治医はあくまでも所属する消化器内科が持つべきではないのか。緊急手術に至った経緯を暗に隠すような悪い予感とその結果としての交替劇がその主治医欄の名前の裏側に隠れているような気がしてならなかった。
ハナと司郎が病室に現われたのは十二時半を回った頃だった。食事を摂るため四人は病院の食堂へ向かった。食堂は一階の建物の奥にあってかなり曲がりくねった通路を通って行った。簡素な病院の食堂には四、五人の客がいた。いずれも入院患者の家族かその知り合いであろう。食堂の中央には低い衝立てのような仕切りがあってそれは職員用の席と一般を分けていることを表わしていた。正面の壁に大きな絵が飾りつけてあり俊治はその絵に対面する位置に座った。
「思ったより顔色もいいし元気そうだわ。今はまだ重湯だけどそのうち普通食にもどりそうね」
「三日目には集中治療室から出られたなんて早いなあ」
ハナはもう少しかかると思っていたらしくそれだけでひと安心しているかのようである。
「今のところは手術後の合併症の心配もないらしい」
「熱は出てないのかしら」
「熱はないみたい」
俊治を除く三人だけが声を潜めるようにして喋っていた。やがて注文した肉うどんと親子丼の出来上がりを告げる声が流れ、奈都子と司郎がそれを受け取るためカウンターへ取りに行った。
司郎は知っているのだろうか。俊治は司郎を前にすると常に彼に対して言っておかなければならないと考えていた重大な疑念について思うのである。勝手に想像するジレンマである。重人の緊急手術の原因が本当に洗浄ミスであったならこの経緯について知らないのは司郎だけのはずである。立場上病院と関係がある以上尚更のことこの疑念については彼の耳に入れておいたほうがいいのではないか。しかし、重人の病状については彼が身内として病院に一番近い距離にいることから既に詳しい内容については関係者から報告を受けているかもしれない。
「純子ちゃんは?」
ハナが食べながら話し掛ける。試験があるのでと奈都子は答えていたが、俊治はただ黙って丼を食べた。
「高速道路が不通になるなんてよっぽど大きな事故やったんやなあ」
司郎が聞く。俊治はそのおかげで教会に間に合わなくなったことをぼやくとここでもまた三人から「滅多にないことをしょうとするからや」と笑われた。しかし今日は本当に礼拝に出てみたかったと俊治は思うのである。長いあいだ離れていたものを何となく気づかされた思いにかられていたからである。久しぶりに教会へ行ってそのあと重人の病床を見舞いたかった。それが思いもよらないこの事態だ。俊治は三人に答えるすべもなくただ寡黙に正面に飾られた絵に眼を走らせていた。
その絵は冬の海を描いた絵で怒涛の波が岩に砕けて激しく散っていた。鉛色の空と吹き荒れる冷たい風が全体を包み、凍るような寂しさと暗い叫びが響きわたっている。眺めているとふた月前の真夏の但馬の海の光景が浮かんできてあの時の紺碧と眩い波の煌きがこの絵とは対照的でそれは遥か手の届かない遠い世界のように感じられた。その絵の上を撫でるようにして真夏の光をいっぱいに受けた重人の笑顔が浮かんでは消えた。たったふた月前がまるで夢のようである。
なぜこんな暗い絵がこんなところに飾ってあるのだろうか。いくら眺めてもこの絵は病人が苦しんでいるような暗さと冷たさしか感じさせないと俊治は思った。
突然賑やかな声が伝わってきて病院の職員が食堂に入ってきた。三人とも看護婦でそのなかの年配の看護婦が司郎を見て軽く会釈をした。奈都子とハナは同じように会釈して司郎に尋ねるような眼を向けた。「耳鼻科の婦長や」と司郎が低く答える。ここにいると司郎と病院の関係者がまるで同じ職場の上司と部下のような雰囲気さえ感じられる。司郎が市役所の秘書室にいるので普段でも気を遣う連中が増して今回の重人の入院で病院側としては院長をはじめ医師たち関係者は恐らく気を遣っていると思われた。毎朝出勤の際必ず司郎は病床の重人の様子を覗いていたから何か病状で変わったことがあればすぐ知ることが出来たしまた勤務中でも何かあれば必ず病院から先ず彼のところに電話が入った。
「お爺ちゃんの靴が無くなってなあ」
突然ハナが思い出すように話題を変えた。最初入院した時は消化器内科の病棟で四階だったのだが三日目に急に腹膜炎を起こして緊急手術をし集中治療室を経たあと二階の外科病棟に移った。ハナが言うには四階から二階に引っ越しの際、重人が履いてきた革靴をビニールの袋に入れて二〇五号室のベッドの下に置いていたのだという。ところが最近になってその袋が見当たらないことに気づいたらしい。毎朝掃除をするおばさんがゴミと間違えて持っていったのではと思いその人に尋ねてみたが結局知らないと言われたらしい。若い看護婦さんにも同じことを伝えたがゴミ焼却炉まで行って捜すのは無理ですとあっさりと断わられたということである。司郎は黙って聞いていたが困惑した表情は隠し切れなかった。
「掃除人がゴミだと思って捨てたのだろう」
とだけつぶやいた。
「ひどいねえ。気が付かなかったのかしら。いくら何でも持っていく時尋ねるのが普通じゃない?」
奈都子は呆れ返っていた。
「靴なのかゴミなのか見れば分かるはずなのにねえ」
ハナも同じように小さくつぶやいた。もはや俊治にとってこの病院で起こるすべてのことが腹立たしいようなまたは腑に落ちないような気がしてならなかった。
「教会に鐘が付くんだって?」
しばらくしてから話題を変えようと思い俊治はハナに聞いてみた。
「そうそう、響け鐘の音献金といって去年くらいから始めているんやけどね、もう大分集まってきている。この分でいくともうすぐ付くはずよ」
ハナはそう言いながら「そうや袋を貰ってきてたんや」と傍に置いていた手提げ鞄のなかを探った。「うちの分も入ってたか?」と司郎が確かめるようにして聞いている。やがてその袋を取り出したハナはうなずきながら司郎の名前の入った袋と重人の名前の分とを区別しながらテーブルの上にそれぞれ並べた。茶色の封筒の表に確かに響け鐘の音献金と印刷されていた。
「大分集まったって言うけどどのくらいかかるのその鐘を付けるのに」
俊治が問うと司郎は四、五十万くらいだろうと答え、傍で「お爺ちゃんは毎月三万献金している」とハナが言った。
俊治の胸のうちで病床の重人の輝いた眼が渦巻いていた。眼の前に広がる寒々としたその絵の海鳴りの音もやがて鐘の音に変わりその鉛色の暗雲の隙間からまるで一条の光りが洩れていた。それは荒海を照らし音は砕け散る波を鎮めるかのように俊治の心のなかに染み入ってきた。重人の教会に寄せる思いが痛烈に伝わってくるのである。
「年金で暮らしていらっしゃるというのに、毎月そんなに献金されているのですか?」
奈都子が感心したように言った。お爺ちゃんはいつもそんな人だからとハナは笑いながら献金袋をもとの手提げ鞄に納めてゆっくりと茶を啜った。
日曜日の昼下がりの静けさが俊治の吸う煙草の煙の中に漂っていた。司郎を前にして俊治は繰り返し言い出すべき言葉を選んでいた。奈都子とハナは料理の話をしていた。やがて職員用の席で食事をしていた看護婦の三人が立ち上がりカウンターの方まで食器を戻しに行くとそのなかで婦長だけが司郎の方に向き直って会釈をしながら食堂を出ていった。
「主治医のことなんだが…」
俊治はゆっくりと司郎に向かって切り出した。当初主治医のはずだった消化器内科の保田医師を指していた。
「外科部長か?」
司郎が答える。
「途中で変わることがあるのか」
絶対に何かあるに違いないと思った。素人目にはそう見えるのである。そんな交替劇の裏側を探ってみたところで意味のないことかもしれない。しかし俊治には司郎だけが知らないはずの洗浄ミスの件がある。
だが司郎は次のように答えた。
「入院時は親父の病気からして胆道閉塞ということで消化器内科が受け持ちだったらしい。確か保田という若い研修医が担当していたと思う。しかし、治療は患部へのカテーテルの挿入とか外科と共同してやらなければならないらしく現在のところは一応外科が受け持っている」
奈都子の言っていた通りの答えだった。共観治療は分かる。しかしそうだからといってその都度主治医は変わるのだろうかという疑問であった。今は外科病棟で様子を診ているので主治医も外科の先生になるのか。
しかし司郎は俊治の言っている意味がもうひとつよく掴めないままそれ以上話そうとはしなかった。
「保田先生とはその後会った?」
俊治は最初の担当医だった彼のことを聞いてみた。何気なく言ったつもりだったがその話をすると傍で聞いていたハナが突然横から口をはさんだ。
「そういえば保田先生って最近全然見ないねえ。誰かがあの先生どこかに転勤したのと違う?って言ってたけど」
「そういえば会ってないなあ」
毎朝病院に行っている司郎も意表をつかれたような表情でぽつりととつぶやいた。俊治は驚いた。自分自身にとって嫌な予感が的中するようなまるで新鮮な亀裂が眼の前を覆った。ハナの放った一撃が閉じたままのこだわりの核心を一層増大させる結果となった。なぜ転勤なのか。いや転勤というよりも研修医は研修を終えてさっさと姿を晦ました。何という無責任な組織の横暴であることか。転勤とは絶対に洗浄ミスと関連がある。姿が見えないと聞いた瞬間から俊治は短絡的に何度もそう思い込んだ。こだわりは益々広がり司郎と病院の繋がりを考えればやはり自分のこだわりの核心についてもこのまま閉ざしておいたほうがいいような不可解な境地に襲われた。司郎の言葉を黙って聞き流すしかなかった。司郎は洗浄ミスを知らされていない。同時にこれだけははっきりしたと思った。
俊治は自分の燻らす煙草の紫煙の輪を眺めながら闇のなかに葬ろうとする病院の影を追っていた。何も言わなかった奈都子も同じことを思っていたに違いなかった。