第二回
翌朝F市の実家で目覚める。ちょうど今日は祭日なのでゆっくりできる。寝床のなかで俊治は台所の方から久しぶりに匂ってくる味噌汁の香りを感じながらまどろんでいた。今日は病院へ行って集中治療室の重人の顔を見なけれならないと思いながらなかなか起き上がれないでいた。俊治の頭には相変わらず昨夜からの沈澱したままの疑問点が残りそれは昨夜の奈都子の電話の内容でさらにその深さを強めていた。
ハナも茜もまさか昨日の手術がその前の日の洗浄ミスが引き起こした結果だとは思いもよらないだろう。司郎の言っていたあの時看護婦が行なった浣腸にしたって果たしてその日行なわれた洗浄の記録をじゅうぶん把握した上での処置であったのだろうか。また奈都子の言うとおり黄疸症状の時は腸全体が脆くなり破れやすくなっているにもかかわらず打ったというのだろうか。それが事実だとすればこれも信じられないようなミスではないのか。手術にあたった品野医師は胆汁が腹腔内に洩れ拡がった原因を恐らく知っていたはずだ。あの時の説明では単に胆嚢が破れて胆汁が拡がっていたとしか言わなかった。その前日あの若い主治医が胆道ドレナージの洗浄を行ないその数時間後に重人は急に腹痛を訴えている。その洗浄の処置が奈都子の言うとおり誤っていたとしか考えられない。これは重大な過失だ。
「お爺ちゃんも仕事からやっと離れて、がたぁーっときたんかなあ」
「ほんまや。何か趣味があったらなぁ」
台所で話をしているハナと茜の声が聞こえてくる。何も知らないで呑気なものだ。寝床で俊治は射し込んだ朝の光を眺めながら思った。
「何時頃から入れるのかなぁ」
ようやく起き上がった俊治は誰もいない茶の間に入りひとり座りながら台所にいる二人に向かって声をかけた。食卓の上にはすでに朝食の用意が整っている。静かな茶の間には古ぼけた柱時計の振り子の音だけが支配していた。あたりをしばらく見つめていた俊治の眼がやがて茶の間の壁のカレンダーの文字を捉えてそこで留まる。“あなたのしょうとすることを主にゆだねよ。そうすればあなたの計画はゆるがない”聖書の引用であった。
「仕事一筋やったからなぁ。七十六になるまでそんな趣味のひとつもあらへんし」
「それがあかんのやなぁ。何もすることがないと急に体から力が抜けてしまうのやな」
「そやけどお爺ちゃんは何も趣味持ってはれへんし。何かしたら言うても別に熱中するもんもないようやし」
「そやけどこれからは何か持たなあかんわ。やっぱり緊張感から解放された途端に人間は病気になるんやわ」
三人で食事をとりながらハナと茜が交互に喋っていた。俊治も重人の無趣味には痛感しながらも今朝はそんな話に無関心だった。
重人が腹痛を訴えたのは洗浄のあった日の夜中である。奈都子の言うとおり洗浄の処置に誤りがあったとしか思えない。こんなことをハナや茜が信じるだろうか。今こんな話をすべきかどうか俊治は迷った。ただ黙って食べながら時折顔を上げては例の壁に掛けてあるカレンダーの文字を眺めた。
「集中治療室へは何時頃から入れるのかな」
俊治は再びつぶやいた。手術後の重人の容態を早く見たかったし、何よりも昨夜の奈都子が言ったことが気になっていた。予定にもなかった手術を主治医の重大な過失によってせざるを得なくなったことが本当に事実ならこれは問題だった。病院に対する怒りにも似た複雑な気持ちが揺れ動き、「大きい病院は嫌や。市民病院は大したことないし、評判が悪い」と入院前しきりに言っていた重人の言葉を皮肉にも思い出す。
「いつでも入れるんと違う。普通の病室と違って」
茜の声は相変わらず明るい。まるで手術が無事に終わったことですっかり治ったとでも思っているのだろうか。太った体が何となく悠長で緩慢で楽天的な性格を醸し出す。彼女たちにあの手術は実は前日の洗浄ミスによる疑いが強いことを説明したとしたら何と言うのだろうか。傍にいる年老いたハナの小さな肩に映るここ数日間の気疲れの影を見ると俊治は今ここで不確かな推測は切り出すことが出来なかった。
「仕事ばっかりもええかも知れへんけど、仕事を離れたら途端に病気で倒れるというのも何やこう虚しいなあ」
「会社を辞めてからも動き放しやから。人の世話ばっかしで忙しい、忙しい言うて。じっとしておれん性格やから仕方ないな」
二人は話し続け、俊治は黙って食べ続けた。昨夜の電話のあとから重くのしかかっていた病院に対する憤りが次第にこみあげてくるのが分かる。今や腫瘍の恐れよりも病院の行なった洗浄ミスへの怒りの方が強かった。
「貞叔父さんと同じ症状みたいやな。どうもそんな気がした」
ぽつんと言った茜の言葉で俊治は一瞬三人が無言となる瞬間を認めた。周りの静けさを象徴するかのように淡い陽炎だけが茶の間に漂った。その光のなかに昨夜見舞いに駆け付けてくれた貞淑父の顔が蘇ってくるのである。貞叔父の話していた症状と重人の症状とは似ているような気がしてくる。結石ではない。これは奈都子の言っていた通り腫瘍の可能性が強い。果たしてハナも姉もこの時重人の黄疸の原因や胆道閉塞が胆管に出来た腫瘍であることに気付いていたのだろうか。なぜか三人はここで黙り込んだのである。
腫瘍であったにせよ早いうちに貞叔父のように切除してしまえばなんとかなる。三十キロ近く痩せようが体力さえあれば貞叔父のようにきっと助かる。俊治はそう思いたかった。
「本当に大丈夫かいなあの病院」
しばらくたって三人の沈黙を破るようにして茜がつぶやいた。ハナは返事をためらうようにして唸りそのため息にも似た響きのなかにどうもF市民病院の頼りなさを象徴しているかのような韻律を滲ませた。俊治は茜に向かって口を開こうとした。
「でも、貞叔父さんも大丈夫や言うてはったし、心配いらんわ」
と、爛漫な茜の声は俊治の思惑を間髪を入れず制圧し訳の分からない納得を無理やり強いるのだった。ハナは俊治に代わって返事をするかのようにうなずいているふうだった。重人と貞叔父とは歳も違うし第一、かかっている病院が違う。俊治の頭にどうしても拭いきれないF市民病院への不安が残っていた。奈都子の話が本当ならこんな病院で治療を受ける重人はそれこそ助かるものも助からないかもしれない。
俊治のふかす煙草の煙が茶の間に漂う陽炎のなかに静かに流れそれはやがて壁にかけてあるカレンダーの文字の上を霞めた。
一番乗りは箕面の妹夫婦だった。車の止まる音が聞こえたと思った途端、慌ただしく玄関の戸を開けて駆け込んできた妹の智子は、「どうやった?」を連発しながら三人の前に現われた。姉とは対照的な華奢な体が息を弾ませている。
「永井先生に昨夜電話してお祈りしてもらってん。これは先生が書いて下さったお守りのハンカチやねんけどお父ちゃんのお腹にあてておいた方がいいと思って」
喜びと安堵に満ちたような輝きが確かにハナの眼に溢れていた。智子がやって来ると必ず教会の話になることは分かっていたがまさか昨日の今日お祈りをしてもらったというハンカチを携えて駆け付けるとは思わなかったらしい。
重人が熱心なクリスチャンだから当然俊治ら五人の子供たちも皆、少なからず教会は知っていたが智子のように四十を過ぎてもまだ地元の教会の聖歌隊で現役で歌っているのも珍しかった。
「神の御旨やからね。必ずイエス様は癒して下さる。皆んながこころをひとつにして祈れば心配あらへん」
智子はキリッとした眼を据えてしゃべり続ける。俊治は何だかきまり悪そうに煙草をもみ消すと改めてハナと茜が見入っているそのハンカチを覗き込んだ。女性の牧師とはいえなかなかの達筆で聖書の御言葉が四文字書かれている。
「永井先生もびっくりしてはってねえ、この春お会いしたときはとても元気だったのにって。いつも元気なお父ちゃんのことやから病気で倒れるなんて先生も想像つかんかったんやろなあ」
「七十六やで。こんな歳まで元気で居られるのが珍しいくらいや」
茜が笑うようにして快活に言い、ハナが「春はまだ仕事をしてたからなあ」としみじみとして微笑む。趣味のない重人が三十七年間勤めた会社を辞めたあとさらに二十四年間もの間その関連会社の取締役や会社OB会長等の仕事に就きこの秋倒れるまで動き回ってきたきた軌跡が俊治の脳裏の片隅に蘇る。体も巨漢だが歩んできた親父の生き方にも休息のない突っ走り人生のような気がした。七十にして勲四等端宝章を受賞したがそれが彼のすべてを象徴しているようにも思えた。何もすることがなくなったとたんに急停車した巨体に異変が起きた。それは働き盛りの俊治からみれば羨ましいようでもあったが他方そんな生き方には耐え切れなかった。自分なら定年後は好きなことをするはずだ。
再び玄関の戸が開いて智子の旦那が入ってきた。車を駐車させるのに手間取っていたらしく「やれやれ」と苦笑いしながらみんなの前に現われ「高速はようすいてたさかい一時間ちょっとで来れました」と挨拶した。ハナが遠慮がちに椅子から離れて会釈し、茜と俊治はご苦労さまと声をかけた。智子の旦那といっても俊治より三つ年上で俊治はいつも啓介さんと呼んでいた。啓介さんは智子の隣に突っ立ったまま「どうですか?」と親父の手術について尋ね「奈都子さんまだ?」と俊治の方を振り返った。
「そうそう、来るとき奈都子さんに電話をかけたんよ。行くのやったら一緒に乗っていかへんかいうて。奈都子さん、別にひとりで行くから言うて」
智子が思い出したように俊治に向かって言うのだった。
「うちら出たのが八時廻ってた頃やったなあ奈都子さんも恐らくもう出てはると思うわ。もうちょっとしたら着くのと違う?」
茜が電話してみたら?と言ったが傍でハナがそのうち来はるやろと俊治が電話に立とうとするのを制止するかのように言った。奈都子から詳しい話を早く聞く必要がある。俊治の頭のなかは昨夜来、レストランで聞いた電話の内容が重く澱み続けている。
茜やハナが交互に啓介さんの子供のことを尋ねたりしている。今日は祭日なので集まろうと思えばこの橘家の大家族十九名は全員揃うはずであった。しかし、義兄の忠雄さんは茜によればどうしても抜けきれない接待ゴルフとかで来れないという連絡があったようだし啓介さんの子供にしてもそれぞれ計画があるようで、第一考えてみれば重人の単なる見舞いに総動員の必要はないわけである。俊治はしばらく啓介さんと世間話を短く交わしながら片付けの始まった食卓のテーブルに射す淡い陽炎のなかで再び煙草の紫煙を燻らした。
奈都子が娘の純子を連れて到着したのは二番目に神戸の弟夫妻がやって来てみんなで応接間でお茶を飲んでいる時だった。最初の智子らが来てからものの三十分も経っていなかった。奈都子はやはり一時間半くらいでやって来れたと話し高速はすいていたと先ず言った。ハナがご苦労さんやねえと奈都子と大きくなった孫娘の顔を見ながら眼を細めた。この時神戸の克巳は重人の容態についてちょうどあれこれ詳しくみんなに聞いていた最中で「やっぱり結石かな」と言い放ったあとのことだった。
「お母さん、手術の前日のお父さんの腹痛はいつ頃始まったのですか?」
奈都子が真剣な顔をしてハナに尋ねた。俊治は奈都子が何を言おうとしているかが予測できた。手術の前日奈都子と一緒に重人を見舞ったとき明日は胆道のCTだと話していた重人は元気そうだったしその時居合わせたハナも知っている。少なくともその日の夕方までは何もなかったわけである。
「お母さん、あの日洗浄をしますって言って入ってきた保田という医師がいたでしょ。あの若い主治医の人、あの時行なった胆道ドレナージの洗浄はやはり間違った方法でやってたのよ」
俊治はちょうどその時煙草を吸うため病室には居なかった。その洗浄時に病室に居合わせてその処置を眺めていたのはハナと奈都子の二人だけだったはずである。
「私の今の仕事がそれと同じことをやっているのでよく分かるのよ。あの主治医は確か生理的食塩水を一〇〇㏄も注入していたわ。私帰ってから病院で専門の先生に聞いたのよ。そしたら、そりゃあ無茶苦茶や。いくらなんでも二〇㏄までが限度や。しかも注入したらその分だけ吸い上げなけりゃ胆嚢はパンクするに決まっていると言われたのよ」
みんなは奈都子が大阪のS市民病院の看護婦をしているということを知っている。応接間に集まっていたみんなの関心が次第にこの初めて聞かされる事実に動かされつつあった。俊治は黙ってソファーに深く座り込み三本目の煙草を取り出して火をつけていた。
「お父さんが腹痛を訴えられたのはその日の夜中でしょ?破れた胆嚢から胆汁が漏れ出し腹腔内に充満したのよ。腹膜炎を起こすのは当然よ」
久しぶりに顔を合わせた橘家の兄弟が奈都子のいきなり始まったこのF市民病院の医療ミスの指摘に翻弄され、次第に其々が半信半疑のうちに騒つき始めようとしていた。俊治はハナと茜の顔を眺めながら手術の終わったあとのあの外科医の品野医師の説明をしきりに思い出そうとしていた。あの時ハナも茜もいたはずだ。箕面や神戸の連中は知らない。品野医師の言葉のなかにはひとことも胆嚢がなぜ破れたのかという原因についての説明はなかったように記憶している。ハナはただ静かに押し黙り、茜は奈都子に尋ねようとする質問の言葉を選択しているふうである。
応接間の片隅でひとり高校生になったばかりの純子だけが初々しい乙女の眼を輝かせ、壁に飾ってある重人の勲四等端宝賞受賞の額を眺めているのだった。
奈都子の毒舌は続いていた。
「第一、洗浄はPTCD装着後五日から一週間後に行なうのが普通なのにお父さんの場合は入院して三日後に行なってるわ、無茶苦茶よ。それに病室では行なわないわ。PTCD洗浄はレントゲン室で少量の造影剤を使用して外科医が行なうのが普通よ。私、傍で見ていて可笑しいなぁと思ったのよ。あの時消化器内科のあの若い主治医は誰も補完の看護婦もなしでひとりでやってるのよ。しかも五〇㏄のディスポ注射器を白衣のポケットから無造作に取り出したりして清潔範囲を通り越しているわよ。さらに処置後、チューブの三方活栓を行なう時消毒液を忘れてきたらしく栓を開けたまま病室を離れているのよ…」
俊治にとっては昨日聞いた電話の内容を再び聞かされていた。
「あの日の夜中の出来事にしたって、浣腸なんて果たして当直医の指示でやったことなのかしら。看護婦が勝手に判断したとしか考えられないわ。あんなもの本来やるべきではないのよ。だって黄疸症状の時は腸全体が脆くなり破れやすくなっているにもかかわらず浣腸するということは大腸粘膜を刺激し腸管を破裂させる恐れがあるのよ。医者の指示とは考えられないわ」
依然とみんなは押し黙って聞いていた。いきなり思わぬことを聞かされしかも専門的な用語で一方的にまくしたてられてはただ呆然とするしかなかった。黙ってはいたがみんなの胸中はただ事ではなかった。そしてみんなが疑問に思ったに違いない奈都子に対する質問がひとつだけあるように思われた。
一通り奈都子が喋り終えたかと思われた時を見計らって俊治はそのひとつの疑問をみんなを代表するかのようにこの場で昨日の電話と同じように尋ねなければならなかった。
「間違っていたのならその時なぜその医師にそう言わなかったんや?眼の前で見ていたのだろ?そんな重大なミス、もってのほかやないか」
普通なら二○㏄までのところ五○㏄を二回注入したとか注入すればその分だけ吸い上げなければならないのにそれをしていなかったとか三方活栓の栓を開けたまま数分間その場を離れたとかすべて眼の前で行なわれていたことだ。それが若し胆嚢を破裂させる危険性を伴っていたのならなぜ奈都子はその医師にそのことを言わなかったのか。
「言いにくいわよ。患者の家族が先生、それは違いますって処置の最中に口出し出来るわけないじゃない」
そんな答えを聞くと言い難さの問題以前に奈都子の患者に対する思いやりの気持ちを疑ってしまうのだ。果たしてそんな危険な状態が眼に見えているのに面子だかにこだわっていられるのだろうか。俊治は沈黙した。
「奈都子さんがまさか看護婦をやっていてそんなことに詳しいことをその医師は知らんかったやろなあ」
緊張を解きほぐすように啓介さんが小さく笑いながら言った。智子は「そやけどそんなミスする医者がほんまにいるの?」と呑気そうに言った。しかし、茜は黙り続けハナも少なくとも深刻にならざるを得ない衝撃を受けているように思えた。俊治はやり切れなかった。病院のミスによる手術となれば今回の入院の本来の治療が大分遠回しになることになる。黄疸症状の原因が胆道閉塞によるものと分かり、本当なら昨日その閉塞箇所のCTだったはずなのである。
応接間には患者の容態を心配する話題よりも病院の行なった処置に対する批判が流れつつあった。そんななかで純子だけは大人の世界から孤立していた。親の兄弟同士が最終的に何を願って議論しているのか分からないとでもいうふうに相変わらずひとり応接間の片隅でにこやかな笑みを保ちながらじっと座っていた。
「そりゃあ私たちだってやりにくいわよ口出しされちゃ。医療に詳しい患者の家族でそういうのがいるのよ。気分が悪いわよ」
奈都子はその時なぜ間違っていることをその医師に告げなかったのか、告げることをなぜ敢えて避けたかをまるで弁明するかのように言うのだった。「同業者の立場やな」と啓介さんが相槌をうつ。
「しかし、重大なミスの場合はそんなこと言っとられんのんと違う?そんなミスによってもし患者が命を落とすようなことがあったらどうすんの。知っている人が指摘すべきじゃないの。医者だって勘違いしている場合があるじゃないの」
茜がまるで奈都子を諭すかのような口調で口を開いた。明らかに奈都子の傍観者的な行為を非難していた。しかし、今更そんなことを言っても仕方のないことだった。ハナが今度は茜に向かって「そんなことを奈都子さんに言っても」となだめながら「この際病院にすべてを任せているのだから」とみんなを説得するかのようにつぶやくのだった。
「そうや。病院に任せておいたらいいんと違う。あまりどうのこうの言うと他へ行けと言われるよ」
神戸の克巳もハナの言うことに同意した。姉と奈都子が下を向いて黙っているなかで智子はまだ「そんな間違いをする医者がほんまにいるのかしら」と呑気そうに考え続けるのだった。
あとは司郎の到着を待つのみであった。これから恐らく順に病院に行って集中治療室の重人を見舞う段取りになっていた。俊治は出されたコーヒーを飲みながら啓介さんや弟の克巳と雑談を交わしながら時折、娘の純子を眺めた。何だか昨日から今日にかけて自分の家族がばらばらになって生活をしているような錯覚を覚える。茜や智子と短い会話をしては終始微笑んでいる純子の姿が妙に眩しいような気がした。
克巳はしきりに置いてきた子供たちのことが気になるのか妻に向かって「電話をかけて聞いてみたら?」と言っていた。「文弥君大丈夫か?」とハナも克巳の妻の昭子に声をかけている。来る時熱を出していたらしい。昭子が電話口へと席を立ち応接間を出たり入ったりする。
俊治は早く重人の手術後の容態を知りたいと思っていた。「集中治療室って休みの日でも入れるのかなあ」と奈都子に聞いてみた。「ICUはいつでも入れるよ。ただしいっぺんに大勢は無理。人数が限られてるはず。入る時に予防衣を着けないかんし」とまるでF市民病院が自分の勤務する病院であるかのように説明した。それから俊治だけに話があるような眼を向けて落ち着きのない動作をしていた。
台所に立つ振りをして俊治は妻の奈都子を応接間から連れ出した。どうせ重人の病状についての内緒の話だろうと予感はしていた。しかもその内容は自分の勤めている市民病院から仕入れた情報に違いなかった。入院した当初の重人の生検のデータを彼女は持ち歩いている。
「あなた、お父さんの胆道閉塞はやはり結石じゃなくて腫瘍の可能性の方が強いのよ」
台所の隅までやって来るなり奈都子は小さな声で話し始めた。結論は分かっていた。分かっていたがそれでどうしろというのか。患者の眼の前で間違った処置をただ傍観するだけで厚かましい出しゃばりはすべきでないと言ったり、腹が張って痛がる患者に浣腸を打った看護婦の行為を非難したりしながら結局はそのデータの結論に対して何も出来ないではないか。そんなことはいずれ回復を待って本検査のあとで分かればいいことである。俊治は今そんな結論は聞きたくなかった。
流しの蛇口から雫が垂れていた。その音が押し黙る二人の耳に入った。間を置いてそれは二、三滴響いた。その音は集中治療室に横たわっている重人の心臓の鼓動に似ているような気がしてきた。止まることなくゆっくりと落ちていた。陽の射す台所にその音は外の静けさのなかに混じってこだまするかのようだった。止まるようでそれは確実に途切れることがなかった。老齢だけに経過症状に予断が許せないと言った外科医の言葉を俊治は思い浮べていた。
「とにかく回復を待ってからや。本題の検査をしてみなければどうしょうもない」
俊治はつぶやいた。陽のあたっている窓辺にやがて車のきしむ音が短く聞こえ、それは司郎の家族の到着を告げた。台所を出る時奈都子は「この話はお母さんには絶対内緒よ」と囁くように言った。
みんなから大きくなったねえと盛んに声を掛けられ安展が照れるようにして笑っている。大人たちが勢揃いした橘家の応接間はまるで盆か正月のように賑わっていた。
司郎の家族と克巳夫婦、それに箕面の智子夫婦の三組が先に病院へ行くことになった。俊治の家族と茜はあとから行くことにしハナと一緒に残ることになった。
病院のミスを糾すべきかどうか残された四人の胸中に複雑な思いが交錯した。本来予定のない手術を病院側のミスによってやらざるを得なくなったことがもし事実なら病院はそのことを隠している。手術の終わったあとあの外科医はなぜ腹膜炎を起こしていたのか、何が原因で胆嚢が破れたかについては一切説明はしていない。恐らく彼は前日の主治医の行なった洗浄ミスについて知っていたに違いない。あの保田という若いインターンのような主治医が行なった洗浄ミスをかばっていたのだろうか。患者には言えない本当のことが病院にはいっぱいあると奈都子がよく言っていたことを俊治は思い出していた。昨日の手術は言ってみれば余分だ。しなくてもいい手術を洗浄ミスによってやらざるを得なくなったのだ。黙ってはいたがハナも茜も同じことを考えているに違いない。重人の歳のことを考えると高齢なだけに余分な負担を強いられたことが心配になる。司郎にこのことを告げるべきか俊治は先のことを考えて煮えたぎりそうな怒りと遣り切れない不安を徐々に募らせながら応接間のソファーに身を沈めていた。司郎の仕事は市民病院と密接なつながりがある。これは一応、司郎の耳に入れておいたほうがいいと思った。 先発隊が出掛けたあと橘家の電話がひっきりなしに鳴った。それは皆重人の入院に関する見舞いの電話であった。電話に出たハナに尋ねると俊治にとってはほとんど知らない人ばかりだった。「どこで聞くんやろなあ」とハナも不思議そうにつぶやくのだった。奈都子は「お父さんは偉い人やからそんな情報はすぐ伝わるのと違う?」とぽつりと言った。
「純子ちゃんはいつも明るいなあ」
茜が純子に語りかけている。「ほんまになあ、朗らかやなあ」とハナも同じことを言っている。純子はただ大きな瞳を輝かせながらにこにこと微笑むのだった。そんな純子を眺めながらふと俊治はこの夏のことを思い出すのである。
この夏、俊治には純子と一緒にどうしても訪れたい所があった。それは果たしたいと思いながら結局忙しさに紛れて何年もの夏を通り過ごしてきた。そこは重人の生まれた但馬海岸の郷へ行くことであった。素晴らしい海の景色を純子に一度見せてやりたかったのである。長男の正明は二歳の時一度連れて行ったことがあった。
あの時の純子の笑顔を思い出す。そして真夏の海に降り注ぐ強い陽射しとその時同じ船に乗り合わせていた重人の言葉を突如として思い出すのである。「曾孫が来たでなあ、お祖父ちゃんもきっと喜んでいるよ」とふいに祖先の霊を崇めるようにしてつぶやいたのである。皮肉にもこれまで成し遂げられなかったことがこの夏実現してしかも何の報せか当初は予定のなかった重人までが急にこの家族旅行に参加したのである。
その時の夏の沖合はどこまでも真っ青で釣り舟に乗る四人の頭上に灼けるような陽が照っていた。遠くに但馬海岸の山並みと崖の連なりが見えその下の小さな入江の奥に漁村の家並みが光っていた。それは俊治にとっても何十年ぶりかで眺める重人の生まれ故郷であった。「昨夜は興奮して眠れなかった。曾孫が来るからお祖父ちゃんもきっと喜んでいたに違いない。たくさん釣らせてやろう言うてな」と言った重人の言葉が俊治の胸に引っ掛かる。祖父はその村では魚群の居場所を当てる腕にかけてはピカ一といわれた漁師だった。重人はしきりに昔の話を純子に説明しているようだった。
確かにその日は驚くほど真鯛が釣れた。持って行ったクーラーの蓋が出来ないほどだった。それでも舟を出してくれた船頭は型が小さいからといって申し訳なさそうにしきりに重人に謝っていた。本当ならもっと大きな鯛を釣って欲しかったというのだろう。しかしみんなは満足した。特に奈都子は生まれて初めての鯛釣りに感動して子供のようにはしゃいでいた。
釣りを終えたあと重人は珍しく自分の両親の墓参りをした。俊治と奈都子も同行し照りつける陽ざしを浴びながら初めてその先祖の墓石の前で手を合わせた。それから山間の静かな坂を少し上り俊治も子供の頃聞いたことのあった伝説の岩清水を重人は何を思ったのか汲みに出かけたのである。俊治もその冷たい岩清水をボトルに汲み大阪まで持ち帰った。
そんな今年の夏が終わってから間もなくして重人の調子が悪くなったという話を聞くことになるのである。
「夏にお爺ちゃんと田舎に行った時は鯛がたくさん釣れたねえ」
俊治は娘の純子に声をかけた。あの時舟の上で重人は純子に何を一生懸命になって説明していたのだろう。輝いていたあの時の重人の横顔が妙に焼き付いている。
「ほんまやなあ、面白いくらい釣れたねえ。あんなに鯛が釣れるなんて私、生まれて初めてよ。しかも舟釣りも初めて」
奈都子が傍から感激するように口を開いた。純子はただにっこり笑ってうなずくのみである。
「そうやってねえ。お爺ちゃんも言ってた。曾孫が来たから死んだお祖父ちゃんがきっとたくさん釣らしてやろうと思ったに違いないって」
とハナが純子に優しく語りかける。
「何やそんな話やったらうちとこも誘ってくれたらよかったのに。うちの人すごく行きたがっていたのに」
茜が残念そうに悔しがった。
今思えば重人が一緒に行くと言い出したのは何か虫の報せだったのか。しかも先祖の墓参りも突然行ない、加えてあのだっくりの水とうたわれた岩清水を汲み、俊治の目にはどう見ても不思議に思われる。何か不吉な予感にさえ襲われて来そうだった。秋口になって家の鬼瓦が少し傾いていたのをすごく気にしていたというし今春、家のすぐ向かいにあった小さな稲荷神社の杜の木が伐採されて赤い小さな鳥居が何処かに移された時も嫌な予感がすると言っていたらしい。いつもの重人と違っていたという。「そりゃあもう気色が悪い々言ってなあ」とハナが述懐していたのを思い出す。その重人が今どんなことを考えて横たわっているのだろうか。奈都子が言うようにまさか病院側のミスによって手術を余儀なくされたとは思ってもみないだろう。
陽炎の朝の光はいつの間にか消え応接間のカーテンの外にも茶の間のカレンダーに映える光にもそれが昼近くになっていることを告げていた。そろそろ先に行った連中が帰ってくる時間になっていた。応接間に残った純子を除く三人の胸中に少なからず刺さったままの複雑な棘は時間がたったところでその結論を見いだすことが出来なかった。病院側のミスを告発すべきことがこの際必要なことであるのかどうか。その棘は執拗にして三人の不安な心の奥深くに沈み込んだままであった。本題の検査をしないうちに腹を切られた負担があまりにも大きかった。それが本当に奈都子の言う病院では患者に言わない隠していることなのだろうか。
応接間にしばらく沈黙が続き、そんななかで純子はひとりまたその壁に飾ってある額を眺め続けていた。
白い静けさのなかに緊張した鼓動の音が響く。それは集中治療室のなかの独特の息遣いを表わしているかのように見えた。その音はまるで臨終の淵にいる患者がこの世と確実につながっていることを表わしている複雑な叫びにも似た音のようにみえた。その呼吸、脈拍、血圧の数値をバイタルサインのモニターは絶え間なく捉えそれを正確に表示していた。
俊治が見たものは大きく横たわっていた。鼻の穴に二本のパイプが入り、腕には点滴のチューブ、喉と腹の二箇所にそれぞれ管が垂れ下っていて至るところが器具によってつながれ包囲されていた。まるで昔映画で見た蜘蛛の巣城の侍であった。何本もの矢を突き刺されて身動きの出来ないあの侍を想像させた。先に見舞った連中は起きていたよと言っていたが今眼の前にいる重人は眼を閉じた侍だった。ただ眠り続ける巨漢だった。
正面のガラス越しに集中治療室の患者の容態を監視するモニター室が見えたがなかには誰もいなかった。ただ低く唸り続ける機械の音だけがあたかも患者の確かな呼吸の存在を告げているかのように辺りに漂っているのみである。
俊治の胸に熱いものがこみあげてくる。一緒に入った茜もマスク越しに何かに感動しているように見える。これが重人なのか。この眼の前の身体中管だらけの生きものが自分の親なのか。耳の奥を一気に貫こうとする衝撃音を感じながらただ何のすべもなく立ち尽くしていた。
それはただ眼を閉じて呼吸していた。管を通して生かされていた。まるで霊魂だけがこちらを向いているように見えた。一体これで生きているのだろうか。
バイタルサインのモニターの数字を何度も眺める。「来ていること分からんやろなあ」茜の声が小さく聞こえてくる。俊治もただ無言でうなずくしかなかった。先に見舞った連中は重人は起きていたと言った。誰が来たか分かっている様子だったと言った。しかし今眼の前の重人は眠っているのである。ただ短くて細い息を吐きながら昏々と眠り続けている様子である。二人はただ点滴の落ちる雫を数えるようにしてじっと眼を凝らした。
正面のガラス越しの部屋にはまだ人の気配はない。一体看護婦は居るのかどうか気になる。
「誰も居ないなあ」
俊治は茜に目配せしたが茜はどういう意味だかよく分かっていない様子だった。俊治の神経は昂っていた。それは最初の熱いものから次第に醒めた小さな怒りへと変わっていた。医療ミスに対する疑惑の凝りがどうしても頭から離れていなかった。
集中治療室の床に二人の歩くゴムスリッパの音が奇妙に響く。それは松脂が底に擦れるような音で重人の周囲を廻るたびに床面を響かせた。その音がやがて重人の魂を呼び起こしたのか突然、重人の左手の指先に微かな反応が現われた。目は塞いだままだがその仕草はまるで始めから気付いていたように堂々としかも驚くべき表現で以て二人の前に示されたのである。あっと二人は息を呑んだ。OKというサインを指で作っていたのである。それは自分に近づいている人の気配に応じるかのように何度も示されたのである。昏々と眠り続ける重人の眼に果たして自分たちが写っているのであろうか。俊治はマスクで覆っている自分の口元が思わず緩んで小さな叫び声を上げた。茜の眼にも同じような輝きが走った。
キュッ、キュッと再び二人の履いているゴムスリッパの音だけが床に響き渡る。重人は気付いている。少しは退いたと思われるその黄疸症状の顔にそれは微かに認められた。小さく吐く息が近づくものに語りかけていた。半開きになった唇から真っ白に揃った歯の輝きを見た。それは俊治にとって驚きだった。語りかけようとしたことではない、重人の丈夫な歯の輝きをこの時初めて知ってそれは信じ難いものとして映ったからである。八十に近い老人の歯、しかも入れ歯でも差し歯でもない正真正銘の自分自身の歯なのである。案外この巨漢を支えていたものはあるいはこの頑丈な歯だったかも知れないとさえ思えてきて俊治は思わぬことで感動してしまった。
重人は意識があるのかないのか俊治に向かってしきりに左手に親指と人差し指で丸い輪を作って掲げていた。俊治はその手を握った。その手には意外な温もりがあった。それは俊治が考え続けた病院側に対する怒りを鎮めさせるのに充分な温もりのように思えた。しかしこれは必要のなかった手術である。入院して四日目の日にはCTを行なって次の処置が講じられる手筈になっていたはずだ。この手から伝わってくる無言の温もりには到底そんな余分な苦痛を強いられた怒りは感じられない。俊治は何度も握り返してその反応を確かめてみた。微かに応じる感触が俊治の掌にあった。
見ているとやはり哀れだと思う。その温もりが俊治に寛容を促したとしてもこのことを知らずに今横たわっている本人は悲劇であり確実に犠牲者である。もし奈都子の言うことが事実ならばこんな姿にならなくてもよかった。胆道ドレナージの洗浄をあの若い医者が間違わなければ胆嚢を破裂させることはなかったのだ。俊治はその管のなかを流れる濃い茶褐色の液体を静かに眺める。そして重人の手を握ったままその先端にある廃液パックのなかの黒くタールのように変色した胆汁を見つめた。何も言えない重人に代わってあの時の医療ミスを告発すべきなのかどうか俊治の頭のなかはまた最初に戻って堂々巡りを繰り返した。
「行こか」
茜が眼で合図をした。再び室内に二人のゴムスリッパのキュッ、キュッとした摩擦音が響きやがて入り口に向かって移動した。
集中治療室の扉は二重扉になっていて先に入った俊治と茜が内側の自動扉を開けて出てくるとそこにハナと奈都子と純子の三人が待っていた。
「どうだった?起きてはったの?」
奈都子が俊治の後ろにまわって彼の予防衣の紐を解きながら尋ねる。三人は既に次に入るための準備をしており消毒用のマスクをして待機していた。しかし予防衣は三人分しかなく純子だけがそれを着けて待っていた。「寝ているよ」俊治は答えながらすぐここから出て行って煙草を吸いたいと思った。
「眠ってはったけど入ってきたことは気付いてたみたい。大丈夫、大丈夫言うてOKサインをしてはった」
茜が予防衣を脱ぎながら嬉しそうに語る。ハナはその予防衣を受け取りながらその言葉を聞いて幾分緊張をほぐした様子だった。「分かったのかしら」と奈都子がつぶやく。
準備を整えた三人は集中治療室の入り口の扉の前に立った。奈都子が壁の下に付いている蓋を開けてペダルを踏んだ。その格好が滑稽だったのか見ていた純子が思わず小さく笑う。やがて三人は集中治療室のなかに入っていき俊治は茜と二人で二重扉のなかでしばらく待つことになった。
二つの壁で遮断された空間は息詰まるような静けさがあった。耳の奥にまだ得体の知れない音波が鳴り続けているような気がした。重人は生きていた。眼を閉じてはいたが横顔に静かに波打つ魂が息づいていた。聞きたかった肉声以上にあの手の合図や温もりは俊治のそれを満たしたかもしれなかった。茜が「うちらが来ているのが分かったんやろなあ」と何度も同じことをつぶやいている。俊治は黙ったまま壁を見つめ司郎に相談すべき内容の結論についてまとめようとしていた。
「何日くらいこの部屋に入ってんのやろ」
茜が尋ねている。
「分からない」
俊治は隅に置いてあったスプレー式の消毒液の容器を眺めながら答えた。手術後の容態については高齢なだけに予断が許せないと言っていた外科医の昨夜の言葉が浮んでくる。透明な容器を透してその液体の残量がうっすらと見えた。
突然、眼の前の扉が上がりだした。
「あかんわ。この娘、どうしょうもないわ。泣きだすんだもの」
今入ったばかりの奈都子が純子を連れていきなり飛び出してきた。唖然とする二人の前に涙をいっぱいためて静かにうつむいている純子の姿があった。
みんなが揃った八畳の間に障子の格子から淡い午後の陽が射していた。
「叔父ちゃん達、いつ帰るん?」
総勢十五人が遅い昼食を終えたあと、安展がさっきから同じことを尋ねている。大人達が寄り集まった今日が珍しくて仕方がないらしい。純子がにこにこしてその安展と話をしている。集中治療室から飛び出してきた時の涙が嘘のようだ。再びみんなからいつも明るいなあと言われる純子に戻っていた。
克巳夫婦は来た時と同じように子供のことが気になる様子で心配やなあと言いながらしきりに神戸の自宅に電話をしている。一体何をしにここにやって来ているのか分からなくなる。奈都子も明日は仕事がある。今日の夕方はとりあえず一緒に帰るべきか。俊治はぼんやりと考えていた。そしてまだ踏ん切りのつかない棘が刺さったままになっている自分に気付いていた。司郎に告げるべき洗浄ミスの一件である。司郎だけはこの話を知っていない。このミスの疑惑について司郎に告げるべきかどうか迷っていた。市役所はF市民病院と密接につながりがある。こんなことを彼の耳に入れると反って彼の職場を干渉することになるのではないか。病院に顔を出すとみんなが頭を下げると言っていたし、疑惑を糾すとはいえ立場上司郎にとっては言い難いことになるに違いない。
障子の格子を眺めていると一週間前ほど前の重人の言葉が蘇ってくる。重人に入院を進めていた時だった。ちょうどこの格子を眺めていた。今日のように初秋の陽が反射していて傍で重人の愛用していたトランジスターラジオが鳴っていた。「寿命やったんやなあ」と重人のつぶやいた言葉が印象的だった。その時ラジオのニュースはある有名な政治家の死を報じていたのだ。今年になって鬼瓦の傾いたのをひどく気にしたり、稲荷神社の杜が伐採されたのを薄気味がったり、故郷の夏の海に急についてきたり、自分の親の墓参りをしたり今思えばそれらのすべてがその裏側で何かを告げているようで俊治にとっては嫌な予感がする。その胆道閉塞の原因が胆管に出来た腫瘍であるということもその時点では重人はまさか知らない。夏を過ぎてから自分が黄疸症状になってきたのも単なる疲労からきている程度のものとしか受け取っていなかったであろう。あの時重人がぽつりと言った寿命というつぶやきは今にして俊治の胸を鋭く貫く。
その障子のある八畳の居間で奈都子ら女ばかり三人がハナを囲んで話をしている。
「あのハンカチほんまにお父ちゃんのお腹にしといてな。永井先生も大丈夫やいうてお祈りしてくれてはるし」
教会の話に余念のない智子の声が響く。
「大きい病院はどうしても若い研修生の見習いの場となるから仕方ないわ」
「そやけどそんなミスばかりやられたらたまらんなあ」
茜と奈都子がまたやり合っている。
「ベテランの先生でも下手な先生がいるのよ。大腸ファイバーで腸なんか傷つけたりするのよ。そんなの隠してるだけよ」
と、奈都子が相変わらず現場の知られざる内幕を暴露している。俊治はうんざりしていた。それにしても今日のあの誰も居なかった集中治療室の監視室のことが思い出され病院の杜撰さには呆れ返った。あのガラス張りの部屋にはひとの命を預かっているという片鱗はどこにも存在していなかったのだ。
そんな八畳の居間にこれまで気付かなかった俊治の古い思い出が彷彿として漂い始めたのはふと今朝から十本目になる煙草をくわえた瞬間だった。この家の下には一冊の聖書が眠っている。それはこれまで不吉な予感ばかりに包囲されていた自分の心を解きほぐしてくれるかのようなおまじないのようなものだった。誰も知らない俊治にとっての安らぎの記念碑だったのである。その三人がハナを囲んで話をしているちょうどその場所あたりにそれは埋められているはずだった。恐らくハナや茜たちは立ち合っていなかったのでその時の様子は知らないであろう。その出来事を知っているのは俊治と奈都子だけで重人はこの作業をまるで何かを予告するかのように二人を立ち合わせたのかもしれなかった。
今から二十三年もの前の話である。この家が建築中だったある暑い夏の日の午後のことだった。新婚間もなかった俊治と奈都子はまだ基礎作りの最中だったこの八畳の間に立ち、その日重人が聖書を埋め込むのを手伝ったのである。床下を覗きながらその地面の部分の土を堀り起こし、吹き出る汗を拭おうともしなかった重人の横顔が思い出される。重人が定めたその位置にやがて分厚い聖書が置かれ三人は黙って手を合わせた。それから無言のまま俊治と奈都子は重人がするように少しずつ土をその聖書の上に被せていくのを手伝った。三人の汗が土にしみ込んでいき光っていたのを思い出す。
クリスチャン一家として育ったとはいえ今や俊治はすっかり教会から離れてしまっていた。重人のあの時の姿を思い浮かべ俊治は反省した。その二十三年前の出来事は奈都子以外は知らない。その聖書の埋め込まれた八畳の間で今彼女らの談笑する声を聞きながら俊治は何となく心の安らぎを覚えるのであった。重人はあの時単に自分自身の信仰のためだけでなくこの家の守護神としての永遠の礎として聖書をその場所に埋めたのだ。そう思うとその出来事を今みんなに公開することは何故か心が退けた。自分だけのおまじないのようなものとして仕舞っておきたいと思うのであった。
過失が事実であってもそれを今更責めたところで仕方のないことに違いない。あるいは腫瘍だと分かったところでそれが何だ。それを重大な出来事のように告げられてもそれに対して何と答えればいいのか。任せるしかない。俊治の頭の中にはもはや昨日から複雑に揺れ動いた疑惑への葛藤は和らぎつつあった。それは今みんなの談笑が鳴り響くこの畳の下に埋め込まれた重人の厚い信仰がすべてを和やかにし俊治の疑惑を制圧しているかに見えた。慌てることはない。司郎には黙っておこう。重人の魂と信念がその土のなかに刻まれている限りいずれその解答を示してくれる時が来るのだ。埋め込まれた聖書の一片がたとえ塵となって風化しようと俊治はこの八畳の間の下に眠る秘かな礎を忘れまいと考えるのだった。
応接間で雑談している司郎と啓介さんの声が流れてくる。子供たちもみんなそこに集まっている様子だ。健康食品とか東洋医学だとか司郎の凝り性は兄弟のなかでも有名だった。また何か目新しい商品を仕入れその紹介をしているに違いなかった。俊治は母親に聞いてみた。母親は苦笑いしながら「活生水や」と言った。傍で奈都子が口を挟んで「そんなものが効いたら第一、病院が要らなくなるわ」とため息混じりに笑う。
「ここ二、三日がヤマやね。何も併発せんかったら大丈夫やけど」
「だけど歳やからねえ。それだけが心配やねえ」
茜と奈都子が同じことを言い続けた。
「だっくりの水みたいや」
突然応接間から純子の声が弾んで飛び込んできた。司郎が説明している商品のことを評したに違いなかった。だっくりの水とはこの夏重人の故郷に行った時汲んで帰った水を指していた。純子にとっては初めて見た祖父の生まれ故郷、そしてそこに伝わっていた岩清水の伝説は恐らくその時重人から教わったに違いない。純子は司郎の手にする健康食品の活性水を思わず「だっくりの水」と叫んだのであった。そばに居た子供たちは何のことか分からずポカンとしていた。
清涼な一滴が喉ごしを通る瞬間、すべての万病が治った。純子はこの伝説を信じていたのかもしれない。司郎は純子のそんな指摘に意表をつかれたように驚いた。
「純子ちゃん、だっくりの水を知っているの?」
「何いうとんのん、この夏お爺ちゃんの郷へ行ってきて、知ってるわなあ」
ハナが口をはさんだ。司郎は苦笑いをしながら頭を掻いていた。司郎は今度その活性水を重人に飲ませるつもりでいたのだった。