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ぶどう樹  作者: stepano
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第一回



第一章「だっくりの水」


 

 体中が火照っていた。

 いつも見慣れているはずの駅のホームの階段と周りの風景が今日は異様なほど物音しない静物と化し、まるで光を失った真っ白な空間に覆われているかのようにただ先を急ぐ俊治の前に広がっていた。これから乗れば何とか間に合うはずだ。虚ろな脳裏に手術を受けようとしている親父の重人の顔と狼狽する母のハナや弟の司郎の姿が浮かび、先程受けた連絡の内容とが重々しく彼の全身に突き刺さっていた。

 〝腸が破れた ″と確かに聞いた。腸が破れたとはどういうことなんだ。今日の検査は詰まっている胆道に造影剤を入れて詳しく調べてみるという簡単な検査だったはずだ。妻の奈都子に言わせれば〝痛くも痒くもない検査 ″のはずなのにその検査をやっていて腸が破れたというのだろうか。様々な憶測が俊治の胸に迫り、取り急ぎ会社を飛び出してきてからずっとこの思いもかけなかった事態に募る不吉な予感を抑え切れずにいた。

 二番ホームへの階段をのぼりとりあえずF市へ帰る特急の時間の確認が必要であった。十七時〇五分があるはずだった。しかし、ホーム中央付近に掲げられた時刻表を見ると皮肉にも十七時台だけ特急がなかった。その時間帯は全部、快速や普通電車ばかりの運転となっている。ついてないなと俊治は思った。

 周りの音が途端に甦りそれはいつもの聴き慣れた都会の片鱗であることに気付くと同時に覆ってくる人々の影と騒めきのなかで俊治は一層の焦りと不安を感じた。何度見ても次の特急の時刻は十八時〇五分であり一時間の余裕があることを告げていた。しばらくの間ただ呆然と額の汗を拭いながらホームの中央で立ち尽くす以外になかった。 

 急いで会社を抜け出てきたことを少し後悔したが確かめたい事柄がこの時間を利用して確認出来ると思った。腸が破れたと言った義兄の忠雄の表現がどうしても俊治の頭から離れなかった。それは腹立たしいような誇張した表現に思えて仕方なかった。

 なぜ昨日まで元気だったはずの重人の腸が今日になって急に破れるのか。如何に高齢とはいえそんな簡単な検査で腸が破れるはずがない。何かの間違いではないだろうか。

 再び二番ホームの階段を降りながらとにかく病院に電話をしてみようと思いついた。駅の雑踏に射し込む夕暮れの淡い光がぼんやりと不吉に映り潜み掴みどころのない高鳴りが俊治の全身を襲ってきては消える。重人は死ぬかもしれない。ふとそんなことを思った。すれ違う人々の肩ごしに舞い上がる埃の影がまるでそれを暗示するかのようにも見えたが同時に今重人が死ぬなんてあり得ないことだとも思った。        

 天井には古めかしいプロペラ型の扇風機が回っていた。初秋とはいえ構内の喫茶店のなかは蒸せかえるような熱気が漂い、それは時折低く唸って僅かばかりの冷気が俊治の頬を撫でた。F市民病院のダイヤルを回しながら、忠雄もやはり十八時〇五分の特急で帰るのかなという思いが一瞬指先によぎった。

「あ、俊ちゃん?今どこ?」

 以外に明るい姉の茜の声が受話器の向こうから流れている。俊治はこの拍子抜けした明るい響きを聞いた途端、これまでの自分勝手な憶測が急激に打ち砕かれるような錯覚を受けた。この声の様子なら恐らく大丈夫だ。まるで音のなかった周りの雑踏が一気に息を吹き返してくるようだ。

「今、大阪駅や。六時五分の特急に乗るから。手術は始まったの?」          

「もうすぐ、五時半からの予定」

「腸が破れたって聞いたけどほんまか?」

 忠雄から連絡を受けたことを確かめたかった。

「私も詳しいことは知らんけどな、腹膜炎を起こしてるんでそれで手術せなあかんらしいよ」

「腹膜炎?」

 俊治にとって新たな情報である。

「忠雄さんからは確か腸が破れたって聞いたけど…それで危ないんで緊急手術やいうて」                

「ああそう、うちの人が連絡を?」

 相変わらず快活な茜の口調が受話器の向こうで続いている。

 腸が破れたのは今初めて聞く腹膜炎が原因なのか。一瞬益々複雑に絡みつきそうな気分に浸りながら俊治は再びその零戦のようなプロペラを眺めていた。

 俊治は受話器を握ったまま額の汗をまた拭いた。義兄からは確かに腸が破れたと聞いたが義兄はその連絡を誰から受けたのだろう。多分、弟の司郎から聞いたに違いない。

「司郎はそこにいるのか」

「おらんよ…司郎は仕事やもん」

「そこには誰がいるの?」

「お母ちゃんと、さっき睦子さんも来てくれてはる」

 プロペラは回り続けている。零戦だから時折へたりそうになりながらそれでも頑強に息づいている。老朽でありながら貫禄を有していた。それは何処かに置き忘れていた普遍的な安心感を時折滲ませるかのように回っていた。

 しかし、分からないのはなぜ腸が破れたかである。司郎ならきっと病院から真っ先に連絡を受け詳しいことを聞いているに違いない。司郎から会社に電話が入った時自分はちょうど席を外していたのだ。腸が破れたのと腹膜炎とは関連している。

「司郎からも電話があったらしいんだけど、外へ出ていて…」

「何時に着くの?」

 茜が聞いている。俊治の究明したいことを無視するかのように捲くしたてていた。

 相変わらず天井からの風は生温く僅かな涼感だけが俊治の首筋を撫で続けた。

「手術はどのくらいかかりそう?」

「さあ…二、三時間くらいと言うてはったけど…」

「うまくいきそう?」

「大丈夫、大丈夫。心配ないって。ねえ、六時に乗ったらこっちに何時?」

「七時二十分や」

「ほんなら。待ってるし」

「あ、奈都子から連絡あった?」

 すっかり忘れていた。妻の奈都子はこのことを知っているのだろうか。今日の昼間の出来事なら司郎がすべて取り仕切って兄弟連中の全部に知らせたであろう。自分は会社で忠雄からの連絡を受けてからすぐ駅に直行したので考えてみればF市へ帰ることをまだ奈都子に知らせていない。何も連絡ないと言う茜の声が返ってきた。

 電話を切ってからしばらくのあいだ俊治は再びプロペラ型の扇風機を眺めていた。それはやがて朽ち果てるかもしれない親父の存在に重複して写るかのようである。それは一メートルほどの円を静かに描きながら回り続けた。しかし今やその音は軋んでいる。緩慢とした動きの奥でその軋むような音が俊治には聞こえるのである。

特急「北近畿」の入線時間が迫っていた。構内の喫茶店を出てから今度は自宅へ電話をしてみたが何度かけても留守である。先に奈都子の勤務している病院にかけたが十分ほど前に帰ったということだった。奈都子が言っていた痛くも痒くもない検査で果たして腹膜炎を起こすのだろうか。単なる造影剤を入れての断層撮影で腸を破ることがあるのだろうか。看護婦の妻なら凡その検討がつくかも知れない。第一、調べるのは詰まっている胆道なのだ。腸ではなかったはずだ。俊治の疑問は依然と消えなかった。

 娘の純子もまだ帰ってないなんて一体どうなっているのだろうとちよっと腹立たしく思いながら俊治は荒々しく電話機を置いた。奈都子も純子も家に居ない。ピッ、ピッと鋭く鳴る音に促されながらテレカを抜き取ると点滅する赤いランプが眼に残った。脳裏に手術中という文字がそれに重なって浮かんだ。

 駅弁の寿司を買って、ようやく特急「北近畿」に乗り込む。煙草が吸える自由席の三号車を選んだ。中程の窓側の席に座り、発車前のホームを何となくうつろな眼つきで眺めていた。年老いた重人の顔が浮かぶ。八十キロ近い巨体とはいえ七十六歳の体力で果たして破れた腸の手術に耐え切れるのだろうか。車窓に活気づいた人々の体力が妙に羨ましく映る。人々は動きに機敏で生命力に溢れていた。重人に初めて訪れる手術。これまで病気で倒れたことがなかっただけに重苦しい不安が俊治の胸を駆け巡る。 

 列車は定刻に大阪駅を発車した。火照っていた体にようやく僅かな落ち着きが燻らす煙草のなかに現われたとき俊治はここ数日間の出来事を思い返して見るのだった。昨日重人を見舞ってきたことがまるで嘘のような気がしてくる。

 黄疸症状が続いていたのは暑い夏の終わりを告げる頃からであり、九月に入って一度帰省した時重人は「ちよっと風邪が治らんでなあ」と言っていた。

「何言うてるんお父さん、こんなに黄疸症状が出てるじゃないの。ほら、顔だけじゃないわ腕も。これじゃあ全身よ」

 妻の奈都子は呆れ返っていた。熱の方も微熱が続いていたらしく落ち込んだ眼と痩せた頬が哀れだった。

「病院では何て言っているの?」

「詳しい検査をしてみないと分からんらしい」                   

「黄疸やったら肝臓やんか。そんなもん調べてみんでもはっきりしとる」

 俊治が断言しょうとすると奈都子は、これは大変なことになるよと重人からそのかかっている病院のこれまでの治療について詳しく聞いていた。

「やっぱりそんな小さい病院ではあかんわ。下手したら手遅れやわ」         

 傍でハナが心配そうにうなずきながら、

「お父さん、奈都子さんの言う通りや。やっぱり大きい病院で一回診てもらったら?」  

と言った。重人は自分の体は自分が一番よく知っている、今詳しい検査をしてもらっているところだ、それにあの先生はいい先生でなと三人の意見をまるで聞こうともしなかったのである。ところがそれから四、五日後検査の結果が出たらしく重人が信頼していると言っていたその小さな開業医からのデータを見ていた奈都子は、

「あなた、やっぱりあんな病院のいうこと聞いてたら大変なことになるわ。もっと詳しい検査の出来る大きな病院で診てもらわないと。司郎さんに何とか言って市民病院にしたら?うちの病院やったらとっくに入院させられているわ」

 とせかした。その数々の異常値が黄疸症状に顕著に表れているらしく看護婦の奈都子にすれば気が気ではなかった。病院を変えるべきだ。俊治もその時思った。奈都子の言うとおりいろんな検査の出来る設備の整った病院にすべきである。早い方がいい。大きな病院はF市では市民病院しかない。F市・市民病院はいわば市役所広報・秘書室に勤務する弟、司郎のお膝元だった。手遅れになるといけないので重人を無理やりそこへ連れていくように司郎に頼んだのは九月の第二週も終わりの頃だった。自分の体は自分が一番よく知っている、今の病院でダメだと分かった時大きな病院で診てもらうことにすると言っていた重人もしぶしぶ承知した。しかし案の定F市民病院で診てもらった最初の日、即入院となった。ハナはその日「最初からここで診てもらっていたらなあ」と無駄になったひと月近くを悔いた。彼女が洩らす安堵に似たため息とは別に俊治も奈都子もこれからが大変だと直感していた。その日知らされた病名に胆道閉塞とあった。

 駅弁の寿司を頬張りながら、暗くなった車窓に眼をやると宝塚は既に通り過ぎ、特急「北近畿」は丹波の山間部を走っているようだった。時折車窓に遠くで光る民家の灯りが暗闇のなかを流れていく。胆道閉塞と腹膜炎とは関係があるのだろうか。俊治はぼんやりと考えていた。

入院して三日目にあたる昨日、奈都子と休みをとって重人を見舞った時、彼の右脇腹にチューブが差し込まれていた。胆道が詰まっているため腸に流れない胆汁を排出するためだった。重人は不自由そうにベッドに横たわりながらそれでも眼を細めながら「見上先生が来てくれてな」としゃべりだすのだった。見上先生とは最初通院していた例の小さな開業医である。奈都子なんかはその見舞いの花篭をいまいましそうに眺めて「どこまでお父さんはひとがいいのかしら」と言いかけたほどだ。

「でもやっぱり機械で検査したら早いねぇ。悪いところがすぐ分かる。あれほど黄色かったのが少しはこれでましになった」

 ハナはその褐色の液体の流れる管を指しながらしみじみと言った。なぜこんなに悪くなるまで放っておいたのかとつくづく重人の頑固さにみんなは閉口したがハナだけは「変なところだけお父さんは我慢強いんや」と笑っていた。司郎はしきりにやりにくいと連発し、重人の面倒のことかと思ったら病院が自分の仕事と関係していることを意味しているふうだった。重篤患者用にあてがわれる個室が与えられていたのも市役所の秘書室・広報課課長補佐をやっている司郎に対する特別な措置のようにも思われた。         

「この病院は体質改善をやらにゃいかん」

と、重人は入院当初からしきりに言っていた。相変わらずどんな場所であろうと自分の思ったとおりのことを発言する癖は入院しても達者だったようである。昨日も最近の若い看護婦のいい加減な引継ぎ方について婦長を呼んで指摘していたようである。

 車内の客がいつのまにか半分に減り、時間も七時になろうとしていた。あれほど口達者だった重人の腸が一晩のうちに破れるということが果たして起こり得るのだろうか。詳しい原因が分からないだけに不安は募ってくる。こんな時に限って頼りになるはずの妻の奈都子と連絡が取れないのが皮肉である。しかも共稼ぎであるとはいえこういう時に限って我が家にはまだ誰も帰ってはいない。何かすべてが不明瞭で調和がとれず不吉な苛立ちは益々押さえきれなかった。車窓に手術中のランプが浮かびハナや兄弟たちの不安そうな顔がそれに輻湊しては流れる。やがて凝視した俊治の眼に何かが動いて映りそれは車窓のカーテンの上を徘徊していた。我にかえって気が付くと一匹の小さなゴキブリだった。俊治の眼は不衛生な車両の印象をどこかに置き忘れてただそれを眺め続けた。


 特急「北近畿」は十九時二十分きっかりにF市駅に到着した。改札口で司郎の次男、安展の顔が覗いている。

「お疲れさま」

 睦子がすぐ傍に立っており、俊治を確認すると軽く笑顔を向けながら近寄ってきた。六年生の長女の美子も一緒だった。睦子の運転する車で駅前から市民病院へ向う。

「まだやっているの?どんな具合?」

 大阪駅で電話した時姉は五時半ごろから手術が始まると言っていた。俊治は車のなかで運転する睦子に尋ねた。

「腹膜炎を起こしているらしくて。五時半から始まりましたのでもう二時間はたっています」

「まだだいぶかかりそう?」

「さあ…」

 司郎の妻は俊治に気を遣いながら微笑んだり心配そうな表情を繰り返したりした。後ろの席で安展が腹膜炎って何?と聞く。

「まいったなぁ。昨日は元気だったのになぁ。急に腹膜炎だなんて」         

 俊治が昨日見舞った時のことを思いだすようにため息混じりにつぶやくと、睦子は応じるかのようにうなずいたあと「昨夜は大変やってねぇ」と言った。

「夜通しおなかが痛いおなかが痛いっておっしゃって」

 睦子の言葉を受けて美子の「夜中の一時頃ったなぁ」という相槌が妙に俊治に突き刺さった。「美子ちゃんも昨夜は病院に行ってくれたのか」と俊治は感心するように答えながら一方で疑惑の一部が昨晩起こったことを確認した。

 十分足らずで睦子の運転する車は市民病院に滑り込んだ。冷んやりとした夜風が駐車場の周りに漂っていた。眼の前の五階建ての白い建物に向かって四人の影は急いだ。明るい玄関口を通り抜けながら横に並んで歩く睦子に司郎は?と尋ねると「お父さんは仕事」と安展が口をはさみ睦子は弁解するかのように「もう駆けつけていると思いますが」と答えた。俊治は一瞬、やりにくいとぼやいていた司郎のはにかんだ表情を脳裏に浮かべた。四人の足音が一階の廊下に響きわたり次第に高まってくる不安と緊張がそれに混じった。

 控え室は外科病棟の二階にあった。年老いたハナの姿が俊治の眼に最初に飛び込んできた。茜の太った体も見える。急いで近づいて行き、息を弾ませながらまだ?と小さく尋ねる。二人とも心配そうな眼で応じながらごくろうさんとだけ言った。静かな控え室に窓はなく壁を背にした長椅子が四ヶ所に配置されている。今続けられている橘家の家族だけがこのなかにいた。

「奈都子と連絡がとれなかったんやけどこっちに何か連絡はなかった?」

 俊治は茜にもう一度聞いてみた。列車に乗る前尋ねたことだった。何も連絡はないと茜は答えたが横からハナが「奈都子さんも忙しいんやろ。昨日も来てもろたし」とつぶやいた。本当はひょっとして車を飛ばして奈都子が先に来ているのではと思っていたので俊治は少しがっかりした。我が家に電話を入れようと思ったがあとでもいいと思いそれよりも抱いている疑問を解決しなければならなかった。

「腹膜炎だって?」

 ハナも茜もただ黙ってうなずいているように見えた。先程の睦子の話では昨夜一晩中重人はおなかが痛いと言って苦しんだと聞いたが我々が帰る直前まではそんな兆候はまったくなかった。夜中に急変したに違いない。原因について茜もハナも心当たりはなさそうだし手術前の詳しい説明すら聞いていない様子だ。やはりこの緊急手術のいきさつを知っているのは司郎だけのようだ。しかし、その司郎の姿が今ここには見えない。

「遅いなあ、お父さんは」美子が睦子に尋ねていた。安展は相変わらず無邪気な眼で大人の様子を伺いながら睦子の腕に絡みついていた。茜が「司郎は知ってるんやろ?」と睦子に聞き睦子は「ええ」とだけ答えた。それは手術が五時半から始まったことを指しているのであって俊治の知りたい腹膜炎の原因についてではなかった。ハナは「あの子も忙しいんやな」と睦子をなだめるような口調で言った。

 俊治の兄弟は男三人、女二人の五人兄弟で俊治は橘家の長男であった。彼が高校を卒業してF市を離れてからもう三十年は過ぎていた。大学を出て鉄道会社に就職をしてからずっと大阪で暮らしていた。実家のあるF市では弟の司郎だけが残り、時々両親の様子を見ていた。茜は京都に嫁ぎ忠雄の会社は俊治と同じ大阪にあった。ほかに箕面に妹の智子が神戸に一番下の弟の克巳がそれぞれF市とはそんなに離れていない関西圏に住んでいた。車で来ればみんな二時間くらいで飛んで来れた。茜夫婦を除いてそれぞれ共稼ぎの生活でいつもハナは「きょうびの人はみんな働いてはるから子供たちは可哀相やなぁ」と総勢十人の孫に向かってよく言っていた。

 今この控え室にいる孫は司郎のところの二人であったが一番上の長男の姿が見えない。         

「善行ちゃんは?」

 思い出したように俊治はこの春小学校に入学したばかりの安展に声をかける。「トイレと違うか?」と安展に代わって茜が答える。短い話題が途切れ途切れに交わされ話題が切れると重い沈黙が控え室を覆った。静寂は外の廊下にも張り詰めていて建物全体を包んでいた。俊治は待っている間じゅう腹膜炎の原因について考えていたが急に煙草を吸いたくなったので控え室を出た。 

 一階へ下りると喫煙所と書かれた場所を探し、やっとその場所に辿り着くと煙草に火をつけた。昨日奈都子と病院をあとにしたのはちょうど今時分だったはずだ。チューブを差し込まれて不自由そうな格好ではあったが夕食を摂り終えたあとの重人は元気だった。あれから夜中に腹痛が起きたというのか。今日行なう予定だった胆道のCTは当然中止になったであろう。CTで腸を傷つけ腹膜炎を引き起こしたなんて考えられない。昨夜の腹痛が何に因ったものなのかが謎に包まれる。

 煙草の煙が喫煙所のコーナーから一階の角にあるナース・ステーションの広いカウンターまで流れていきそうである。眺めているとそのカウンターの奥で白衣の看護婦たちが出たり入ったりして忙しそうに動き廻っている。俊治の姿に眼をくれる者は一人もいない。「夜勤をすればお金が倍になるんだけどなあ」と言っていた奈都子の顔が浮かんできた。長男の正明が小学の四年生で下の子の純子がまだ小学校に入学したばかりの頃であった。当時彼女がパートで勤めていた市民病院の給与は年間で二百万は軽く超えていた。あれから十年近くがたち正明は大学生、純子は高校生となり奈都子の給与も今や夜勤をしなくてもその当時の二倍近くにはなっていた。

 昨夜見舞いからの帰路についた時真っ暗な高速道路を走りながら奈都子の言っていた言葉を思い出す。

「黄疸は胆道閉塞からきているんだけど閉塞の原因は二つあってひとつは結石、もうひとつは腫瘍なのよ。あの保田という主治医に聞いたんだけどね、お父さんのは腫瘍の可能性の方が強いって…」

 破裂した腸、腹膜炎、腫瘍。どれを想像しても高齢の重人に勝ち目は薄い。吐き出す煙が再びナース・ステーションに向かって心細く暗澹と広がっていく。 それにしてもいつの間にあの若いインターンのような坊っちゃん医師に聞いたのだろう。俊治は二階の控え室に戻りながらふと思った。

控え室に戻ると司郎が駆け付けていた。善行の姿もあった。          

「昼電話したけどちょうど留守やということやったんで…。奈都子さんの病院の方にも知らせておいたよ」

 とりあえず仕事の途中に抜け出してきたという感じである。俊治は忠雄から連絡を受けた内容を早速、司郎に尋ねた。

「違う違う。忠雄さんも大げさやな。聞き間違えてる。腸に穴があいている恐れがあるかもしれないので緊急手術を行なうというふうに説明したんやけどなあ」

 ハナが低く笑った。茜も「あのひと慌ててはったんやわ」と一緒になって笑った。腸は破れてはいなかった。俊治は安堵した。この時ひとつの不安材料は消えたと思った。

「まいったなあ。電話ではどこでどう取り違えて伝わるか…破れたのと穴のあいてる恐れがあるのとではえらい違いやで」

 俊治はその場に居ない忠雄を腹立たしく思った。それよりも腹膜炎の詳しい内容について司郎に聞きたかった。

「昨夜おなかが痛くなったんだって?」

「そうそう。帰りに部屋をのぞいたら親父が便器にへたりこんで痛い痛いと苦しんでいて」

 司郎が「こんなふうにしてなあ」と痛がる仕草をして見せながら説明した。その格好を眺めながら「痛そうやったねぇ」と睦子もうなずいた。年老いたハナは同じように顔をしかめながら「ほんまに何やったんやろなあ」とため息をついた。

「おなかの便が固くなっているかもしれんということになって看護婦さんに浣腸を打ってもらった」

「当直医はいなかったの?」

「そこまではよく分からなかった」

 だが夜中の一時近くまで司郎夫婦が重人の突然の腹痛に付き添っていたのである。看護婦もなぜ当直医に相談しなかったのだろう。俊治が昼間見たときは重人は元気で右腹に挿入されていた胆道ドレナージからも順調に胆汁が流れ出ているようだったし色も結構いい色をしているとその日の夕方近くに部屋に入ってきた例の保田という若い主治医も言っていたはずだ。

「今朝病院から電話があって腹膜炎の恐れがあるので緊急に検査をしますということになって昼前には、危ないので手術の必要がありますと連絡してきた。とりあえず病院に来てくれということになり行って説明を聞くと、どうも胆汁が腹腔全体に充満している。腸に穴があいている可能性があるのですぐ手術しますということになって」

 司郎の説明を聞きながら俊治はまさかそんな出来事が昨夜から今朝にかけて起こっていようとは思いもよらず信じられなかった。あの時部屋に入ってきた主治医の保田が明日は胆道の断層撮影だからと言って胆道ドレナージを洗浄していたのが皮肉に思える。

 控え室の壁にある時計が八時半になろうとしていた。「田舎の叔父さん達に連絡したんやろ?」と茜がハナに小さな声で尋ねている。ハナはうなずきながら「もう着くかもしれん」と時計を見上げた。俊治の父、重人の故郷は山陰の日本海に面した小さな漁村で叔父たちは今もそこに住んでいた。

安展は睦子に甘えるのをやめていつのまにか善行ともぞもぞと格闘の仕草をして暇をもてあましているふうだった。それを仲裁するかのように手を動かしながら「もう三時間やねえ。いつ終わるのかしら」と睦子が静かにつぶやいた。美子だけは依然と口をつぐんだまま時々殺風景な部屋の片隅の一点を見つめしきりに祈りを捧げているようだった。

「お爺ちゃんは頑丈やからちょっとやそっとの手術ぐらい何ともあらへん」

 ハナがポツンと言った。それは落ち着かすようにしてみんなに言って聞かせるような響きであった。みんなはうなずきもせずただ押し黙ったままでその言葉を聞き流した。俊治は何も知らないハナの顔を見るのが何となく辛かった。腫瘍の可能性の方が強いと言った奈都子の言葉を思い出していたからである。 それは昨日病室に現われたあの保田という主治医から聞いたと言った。入院してから昨日で三日が経過している。あの胆道ドレナージ装着に至るまでのあいだに検査が行なわれその結果その疑いが強まったとでもいうのだろうか。それにしても家族であるハナにも司郎にもそのことは説明されずに今日の手術に及んでいるのだろうか。

「本当やなあ。お父さんはこれまでいっぺんも病気で寝込んだことはなかったもんなあ。よう七十六まで元気やったんやわ」

 しばらく間をおいて茜が感心するかのごとくつぶやいた。          

「いっぺんもないん?」

 安展が不思議そうに聞く。

「そうや。ほんまに病気らしい病気なんて一度もあらへん。まして入院なんて今回が初めてのことや」

 ハナが自慢そうに答えると「へぇー」と大げさに眼をむいておどけながら「お爺ちゃんは頑丈やなあ」ととなりの善行を小突く真似をした。「お前とはつくりが違うんじゃ」と高校生の兄貴は安展の頭を押さえ込んで小さく笑う。それを見ながらみんなも緊張を隠すように微笑んだ。

「手術の先生は誰?」

 俊治は司郎に聞いた。

「外科でやっているらしい。品野とかいう先生。外科部長らしい」

 入院した時の受け持ちは消化器内科で主治医はあの坊っちゃん風のインターンの保田だった。

「保田先生とは今日会わなかったの?」

 司郎は首を振って「あの先生とは全然」と言った。ハナが傍で「そうやなぁ。あの保田先生からの説明がなかったなぁ」と不思議がり、茜は「主治医なんやろ?おかしいねぇ」と言った。手術にあたって主治医がなぜ家族に接触していないのか。俊治もこのことには疑問を感じた。

 時計が九時を指していた。「遅いなぁ。まだかかるんやろか」と茜が顔をしかめた。安展が眠くなったたのかすっかりおとなしくなっている。

「田舎の叔父さん達が来るの?」

 俊治はハナに何気なく聞いた。

「入院した時何かあったら連絡してくれと言ってはったんで…。昼すぎに手術することになったことを伝えたんやけど、もう着かなあかんな」

 ハナの小さく消え入るような声を聞きながら俊治は重人はきっと嫌がるなと思った。入院することになっても兄弟には絶対知らせるな、たいしたことないからすぐ治ると言っていたらしいがハナにすれば気が気ではなかった。それに見舞いに来るという親戚連中の好意を無下に断るわけにもいかなかったのだろう。

 廊下の方で物音がし始めた。恐らく手術が終わったに違いなかった。二、三人の看護婦が控え室の前を慌ただしく行き来している気配が感じられる。扉の前で声がし、何かが運ばれていくような微かな金属音が響く。それは重人が今運ばれて行こうとしているストレッチャーの車輪が床を擦る音なのだろうか。「終わったんちゃう?」みんな口々に囁き合った。しかし誰一人として扉の前へ立とうとはしなかった。「言いに来はるやろ」と茜がほっとしたようにつぶやき周りのみんなも長かった緊張からようやく開放されたような明るさが戻った。「うまい具合にいったんかなぁ」「長かったなぁ」とハナと睦子が顔を見合わせ、俊治と司郎は「三時間半やなぁ」と壁の時計を見上げながらつぶやいた。子供たちは呆然としていた。安展は眠そうな眼から一瞬覚めて大人たちを眺めていた。

「橘さーん。終わりました」

 控え室の扉がノックされ、看護婦が入ってきた。無事終了したと俊治はその看護婦の眼を見た瞬間確信した。みんなも立ち上がってその報告を聞いた。「どうも有難うございました」と太った茜のかすれ声が代表するように応対する。

 廊下の光がまるで遮断されていた部屋のなかに明るさを射し入れるようにして看護婦の背後で輝いていた。

「これから先生の説明があります。お父さんは手術後ですので集中治療室の方へ運ばせていただきました」

 その中年の看護婦は事務的にそれだけを伝えると微笑みひとつ呉れようとはせず「じゃあ」と先導するかのように案内した。みんなはぞろぞろとその控え室を出てその後に従った。昨日までは四階の個室だったのだが今日手術を受ける前に病室の荷物は二階の個室に移されていた。「すぐには駄目なんやな」「集中治療室には入れるのやろか」と茜とハナは歩きながらがボソボソとつぶやき合った。手術室の前まで案内して中年の看護婦は立ち止まった。「しばらくここでお待ち下さい」と静かに言うと右側の部屋の方へ歩み寄りその扉を開いてなかに消えていった。沈黙が手術室の前に漂い、みんなはその赤いランプの消えた手術中という文字を眺めるのだった。俊治の頭のなかをこれから説明をする医師の深刻な表情と腫瘍という言葉がその曇りガラスの奥に隠されているかのようによぎった。

 先程看護婦が消えていった右側の部屋が開き医師が出てきた。薄緑がかった手術衣のあちらこちらに点々と汚液が染み、三時間の苦闘を物語っている。手には四角いトレーを持ち、なかに切り取られたひと塊の臓物がこれから説明しようする証拠品として盛られていた。                          

「お父さんの手術は先程終了しました」        

 開口一番その執刀した外科医の品野医師は先ず優しい柔らかな口調でみんなに語りかけた。みんなはそのトレーのなかに浮いている生々しいまるで魚のはらわたのような臓物に一瞬息を呑んだ。そしてそれが父親の肉片の一部だとは到底信じられないような眼をした。

「お腹を切開して診ますと、腹腔全体に胆汁が充満していましてこのまま放っておくと危険な状態になりますのでパイプを八フレンチに変え胆道本管につなぐ処置をしょうとしたのですがその際どうしても胆嚢が邪魔になりましたので切除しました。これが胆嚢です」

 品野医師の説明には潭々とした自信が満ち溢れその額には三時間に渡る勝負の決着をつけ終えたばかりの清涼とした雫が光っているかのようだった。この医師の眼の輝きにはあの若い内科医の保田とは全然違った熟練さと幅広い人間味を感じさせる何かがあるように思われた。                     

「これは胆嚢のなかにあった石です」

 黒い小豆大の胆石を品野医師はピンセットで摘んで示しそれをまたトレーのなかに戻した。みんなは不思議そうな眼をしながら再びその切り取られた臓物と黒っぽい小さな石の欠片を眺めるのだった。胆道閉塞の原因が石もしくは腫瘍と言った奈都子の言葉が浮かんくる。

「胆石だったんですか?」

 茜が結論を聞かずに安心したような声を出し、俊治も同意するように品野医師の顔を見つめた。

「これまでの検査ではこの石は直接関係ありません。黄疸の原因となっているのは詰まっている胆道です。その狭窄した部分の検査はまだ行なわれていません。とりあえず本題の検査はこれからになります。回復を待ってからになるでしょう」

「胆嚢は異状なかったんですか?」

 司郎が口を開いた。その問いは俊治のこれまでの忘れかけていた疑惑の一部を明らかに代償してくれていた。腫瘍なら転移している恐れがあった。

「何かこの間の検査で胃にもポリープがあったとか聞いてますが」

 立て続けに茜が質問する。

「心配はありません。まず悪性のものではないと思われます。胆嚢にも異状はありません。この石も胆道閉塞には関係ないと思われます。ただ胆管にパイプをつなぐ際、どうしても切除せざるを得なかったということです。胆嚢がなくてもこれで胆汁は外へ排出できます。詰まっている胆管の検査は回復を待ってからになります。今、集中治療室に入ってもらっていますが何しろお年が高齢なだけに容態の変化については予断がなりません。でも恐らく心配はいらないと思います。二、三日で病室の方へ移っていただけると思います」

 品野医師を取り囲む輪のなかで一番背の低い安展が何度も背伸びしながらその四角い白のトレーのなかをのぞき続けその横ではハナの青白い皺の寄った顔が心配そうに品野医師の説明を仰いでいた。

 その部屋のドアが半開きになっていてなかでもうひとりの医師が同じような手術衣を脱ぎながら丁度着替えようとしているのが見えた。貫禄のある体格が俊治の眼に留まった。シャツ姿になり帽子をもぎ取りながらその医師が瞬間的にこちらに視線を向けた。「あっ」と背後から司郎の声が洩れたかに思われた。

「どうされたのですか?」

 貫禄あるその年配の医師が部屋のなかから司郎を見て呼びかけている。

「え、君のお父さんなの」

 どうやら年配の医師にその意味が通じたらしかった。司郎は小声で「院長さんや」とみんなに眼配せした。みんなは品野医師の背後から聞こえてくるその貫禄ある声の主に軽く頭を下げるのだった。

 とりあえず手術は終わった。今度移されるという二〇五号室へ置いている荷物を取りにみんなは再び廊下を歩き始めた。「お爺ちゃんは?」と安展がしきりに睦子に尋ねている。

「集中治療室には入れないんやろか」

手術室のある通りから一つ目の角を曲がったところにICUと表示された白い大きな扉のある部屋があり、その前を通りながら茜が話かけている。

「どんな具合いやろなぁ」

俊治は答えながら先を歩いた。

「しゅうちゅうちりょうしつって何?」

安展がしつこく今度は司郎に尋ねている。二階病棟へ続く通りにさしかかった時急にあたりが賑やかになってきた。これまで気付かなかった人の声や入院患者の生活する物音が廊下に反響するかのように耳に入ってきた。

 しばらく行くとちょうど向こうから慌ただしく近づいてくる群れがあり、それは次第にたった今病院に駆け付けてきたと思われる叔父たちの姿だと判明した。


二階病棟の談話室をまるで橘家一族が占領してしまった。中央にある大きなテーブルを囲んで叔父達と向かい合った。重人の弟二人とハナの方の弟が一人そして車を運転してきた従弟の寿夫の四人が心配そうに「どうだった?」を連発する。 

「いやぁ、これまで一遍も病気したことのない兄さんが入院して手術やいうから。歳も歳やしなぁ、気になって」

 一番大きな声を張り上げて重人の二番目の弟にあたる貞叔父の顔がひきつる。父である重人の兄弟も五人でこちらは男ばかりであった。重人が長男で今日やって来たのは一番目と二番目の弟たちであった。俊治が幼い頃逞しく思いしかも一番面白かったのは二番目の彼であった。しかし今はすっかり痩せて一時は重人と同じ八十キロもあった体重が五十ちょっとしかない。息子の寿夫が傍らで「親父もこれで少しは太ったほうや」と俊治に説明する。痩せた原因は二年ほど前にした病気にあった。

 一通り俊治が経過説明を行なった。胃のポリープのことや奈都子の言っていた腫瘍の疑いが強いとする消化器内科の主治医の話は避けた。

「早く診てもらってたらよかったのになぁ」

と一番目の邦叔父が額を曇らせながら同情するように洩らす。ハナは何度も申し分けなさそうにうなずき、

「最初から大きいところで診てもらったらよかったんやけど」

と見上医院の治療のやり方を残念がった。

「兄貴は頑固やからやっぱり自分では大したことないと思ってたに違いない。検査ばかりする大きい病院は嫌がってたに決まってる。そうやろ姉さん」

 貞叔父が笑いながら言った。

 談話室にはテレビが置いてありこの外科病棟に入院している患者の憩いの場でもあったが俊治ら十数人の集団が占拠しているため時々なかに入って来ようとした患者は遠慮がちにまた出て行くのだった。部屋の隅に小さな湯沸かし器が据えられていたのでお湯を汲みにきた患者だけが不思議そうにこの集団を眺めながらなかに入ってきた。

 ハナの弟の聡叔父は終始物静かでただ黙ってみんなの話を聞いていたがその表情にはいったい原因が石なのか腫瘍なのかどちらにあるのかを言いたげにみえた。貞叔父の話が続く。

「わしの場合と似とる。わしのは十二指腸へ通じている管の部分が三箇所ほど狭窄してると言われてそこを切り取られた。もうその前に胃は三分の二、膵臓、そして胆嚢も切り取ってるわな。それこそ全部や。鳥取大の付属病院やったがやっぱり大きいところやないといかん。丁寧に説明してくれたし、一遍にばさぁーっとやってしまわんと治らんと言われた。歳も兄貴ほどいってなかったし病院もいけると判断したんやろな。そりゃあ痩せたでぇ…。一時は三十何キロまでなって。ゲッソリちゅうもんやないで」

 横に並んでいた邦叔父が思い出すようにしてうなずいた。聞いていた美子が私より軽いと叫んだ。睦子が愛想笑いをしながら美子を小突く。

「兄ちゃんには会ったほうがいいのかな。集中治療室へは入れてくれるのかなあ」

 最後に貞叔父は言った。

「今夜のところは入らずにそっとしておいた方が…親戚連中がぞろぞろと眼の前で動いているのを感づきでもしたら、変に気が動転してもいけないと思いますし、我々ももうこれで引き揚げますので」

 俊治は折角見舞いに来た親戚に対して失礼にあたるかとも思ったがその方法をとるのが最良かと判断した。それに手術直後では多分病院側も入れてくれないと思った。

 叔父達はしぶしぶ「それもそうだな」と納得してくれ「病室でも戻ってからまた改めて見舞いに来ることにするか」と言った。貞叔父は「まあ、原因が石であればいいがなあ」と溜め息を洩らしながら立ち上がった。

 叔父達を見送るためみんなは廊下に出た。ちょうど二階病棟の病室を行き来する看護婦のひとりが談話室の前を通り過ぎようとしたところだった。「あら?」とその看護婦は司郎を見つけて立ち止まり、「どうされたんたんですか?」と不思議そうな顔を向けて尋ねかけてきた。「いや、ちよっと…」司郎は照れながら小さく微笑み軽く手を振りながら会釈だけをするのだった。

叔父達を玄関まで送ったあと「疲れたなぁ」「近くでご飯でも食べて帰ろか」と口々に喋り合いながらながらみんなは再び二〇五号室へと急いだ。「さっきのは婦長さんや」と司郎は談話室の前で出会った看護婦のことを俊治に説明した。「ここへ来ると必ずここの偉い人が挨拶してくるのでやりにくい」と司郎はしきりに苦笑いしながらこぼしていた。

 帰る支度をしてみんなが病院を後にしたのは十時前だった。冷んやりとした空気が俊治の頬に触れ熱っぽく緊張し続けた今日半日の出来事にようやく一段落を入れようとしていた。満天の星空を眺めながらみんなは駐車場の広場へと出て来た。「眠いやろ。安ちゃん」と茜が声をかける。「お腹がすいているだけやこいつは」と善行が安展の頭を小突く。「兄ちゃんもすいているくせに」と美子が笑うと「本当やねぇ。すいたねぇ」とハナが孫の機嫌をとるように相槌をうった。

 病院のすぐ近くに「赤いトマト」というファミリーレストランがあった。夜の十時だというのに店内は混んでいた。明るい照明と賑やかな声がいきなり俊治の眼の前で躍動していた。とにかく手術は終わったという実感がそのなかで息づいているように見えた。

「さあ、好きなものを注文して」

 二手に分かれてテーブルに着き、茜が子供たちに向かって問いかけている。安展が口を尖らせながらメニューを独占して見入り、傍から善行と美子が「早よ決めて見せろ」と騒いでいる。眼の前のハナの老いた肩が俊治にはようやく落ち着いて写り緊張から解けてくつろぐような普段の姿に戻っていることに気づいていた。

「でもよかったなぁ、腹膜炎を食い止められて」

 茜の言葉に混沌として不安に慄いた今日一日の出来事が集約されていた。しかし俊治の心に手術は成功したとはいえやはり何かが解決していないように思えた。心に突き刺さったままの解明できない疑問が残っているような気がした。

 やっと電話をかける気になったのはそれからである。電話口に出た奈都子は落ち着き払っていた。

「お父さんの手術は終わったの?」

「九時前までかかった。腸に穴があいている可能性があるということだったらしいんやけど大丈夫やった」

 俊治の頭の片隅に昨夜奈都子の言った腫瘍の可能性が強いという言葉が残ってはいたがとにかく手術は終わったことを告げることが先決だった。しかし、奈都子は突然予期もしなかった話をし始めたのである。

「あなた、腹膜炎の原因は昨日の洗浄ミスによるものよ。私みていておかしいなと思ったの。あの若い保田医師がおこなった洗浄は基本的なミスを犯していたのよ。私今日いろいろ調べたのよ。こっちの先生にも聞いて。みんな言ってるわ、無茶苦茶だって。第一、胆道ドレナージの洗浄なんて装着して五日から一週間後に行なうものよ。それと決定的なのは生理的食塩水も二十㏄までが普通なのにあの時五十㏄のディスポ注射器を使用してしかも二回注入していた。これじゃあお父さんの胆嚢も破れるはずよ。腹腔全体に胆汁が充満してしまうはずだわよ」

 聞いているうちに俊治の耳は次第に熱く火照り始め絶句せざるを得なかった。

「もしもし聞いているの?」

しきりに説明しようとしている奈都子の声が遠ざかっていった。さっきまで背後に聞こえていた安展の無邪気に騒ぐ声すらも聞こえなくなった。




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