【ホラー小話】二百十日
ちょっとだけの涼しさを。
二百十日。
立春から二百十日目の日。
この頃は、台風が来ることが多い。
台風が来なくても、風は吹く。
二百十日。
風が吹く。
二百十日。
朝起きると、空が青かった。
爽やかな秋の涼しさを含んだ風が吹く。
僕は思いついて、着ていたアニメTシャツとハーフパンツ、ついでに枕と抱き枕のカバーも一緒に。さらに勢いがついて、タオルケットにシーツもまとめて洗濯機に投げ込む。
録画していた深夜アニメを見ながら、朝食を食べる。
ゴウンゴウンと洗濯機が鳴る。
網戸から風が吹き込む。
出勤前に、洗濯物を全部ベランダに干す。
湿り気の多い夏の風と違う清風。
今夜は気持ち良く眠れそうだ。
二百十日の風が吹く。
汗の染み込んだ半袖で、外回りの仕事を終える。
夕暮れの中、ヒグラシが鳴いている。
住宅街を抜けて会社まで帰る途中。
街路樹の剪定をする作業服の人たち。
それを守る警備員。
軽く会釈をして通ろうとした時、風が吹いた。
上から何かが落ちてきた。
木の枝だろうかと身構える。
ふわり。
落ちてきたものは、風に吹かれて舞い上がる。
「二百十日の風に吹かれたか。」
声のした方を見ると、顔がシワシワの警備員。
ふわりと舞ったのは、誰かの白いTシャツ。
「洗濯物が吹かれて飛ぶんだわ。」
「わたしらが子どもの時は、捕まえるのに必死だったねぇ。」
警備員と作業服のおじいちゃんたちが舞い上がるTシャツを見て、のんびり笑う。
「あれも、逃げ出したか。」
「これはもう捕まえられないねぇ。」
「ほほう。飛んでいったなぁ。」
白いTシャツは、爽やかな風に吹かれて、街路樹よりも高い空へ。
青い空を背景に、気持ちよさそうに飛んでいった。
「今日は、あとどれくらい飛ぶかねぇ。」
薄い雲を目指して、Tシャツは白い点になって彼方へ。
買い物袋を提げて、帰宅すれば抱き枕カバーとシーツだけが無い。
二百十日。
ベランダに涼風が吹き込む。
ベランダから空を見上げれば、二つの白い何か。
群青の空をよく見ると、白地に肌色の布。
それらが、ふわりふわりと風に吹かれて、くるりくるりと舞う。
目を凝らして、見る。
あれは僕の肌色面積の多い二次元嫁たち。
少年キャラのアニメTシャツは、ベランダにある。
風が吹く。
僕は急いで外へ走り出た。
二百十日。
風が吹く。
久々に着た背広に風が通る。
駅のホームから、空を見上げれば青空に鱗。
五月の連休に逃げた鯉のぼりたち。
『只今、電車が遅れております。鯉のぼりの衝突を避けるため、徐行運転をしております。お客様にはご迷惑をおかけします。』
ああ、今年は見つけられるだろうか。成人した息子の初節句の青い鯉のぼりを。
ふわりと頭上を通る。
青い鯉のぼりに、緑に黒。
黄色の後には赤が続く。
また、青い鯉のぼり。
目を眇めて見ていると、隣から「あ。」と小さな声。
手を繋いだ若い男女が私と同じように、空を見上げている。
平日の昼間。夏休み中の大学生だろうか。
私は視線を空に戻す。
「……俺の鯉のぼり、こんなところにいたのか。」
「……来年、鯉のぼり買うかも。」
「え。」と小さな声。
二百十日。
風が吹く。
清涼なる山の道。
有給をとって、一人で日帰り登山。
青い空に近付いて、澄んだ空気を体に入れる。
平日で人も少ない帰り道。
砂利を踏む音が耳に残るほど静か。
途中の湧き水を空になったペットボトルに入れて、乾き始めた汗の補給をする。
駐車場まであと少し。
疲れた足をなんとか動かす。
平らになってきたあたりは、一面のススキ野原。スズムシの鳴き声が流れてくる。
二百十日。
爽やかな風がひゅうと吹く。
ススキがたなびく。
熊がいた。
【 二百十日 】