新しい仕事
お針子の工房は大公広場からそう遠くない高級店街の並びにあった。
高い円柱に支えられたアーケードの下を大理石の廊下がまっすぐに走っている。その片側に、客寄せのための大きな窓をもった靴屋、生地屋、本屋などがザンダの行く手に次々と姿を現した。
ララはやがて、薬師の表記のある窓の前で立ちどまった。数日前、ララと出くわした場所だった。
大窓のとなりに真鍮の取手のついた木の扉がある。ララはそこを押して中へ入っていく。
薄暗い階段を二階へ上がった。
「ここがわたしの、それからあんたの仕事場よ」
そう言って、ララが踊り場の脇の木の扉を押した。
ザンダは恐る恐る、一歩踏み出す。すぐ前に立つララの影に隠れるようにしてまずは室内を覗き込んだ。
毛糸と糊の匂いがふわりとたつ。
天井の高い、広い空間が広がっていた。
どこからか、からからとかわいた音が規則正しいリズムを刻んで聞こえてくる。それ以外は静かだ。重たい人の気配がただよった。
部屋の中央に大きな長方形の机がある。それを見下ろすように片側の壁一面に棚がしつらえられ、色とりどりの糸巻きが色のトーンを少しづつ変えながらびっしりと並んでいる。
反対側の壁には窓辺を向いて小さな机が六基、縦に並んでいた。
ザンダは背を丸めて机に向かう自分と同年齢くらいの娘たちに目を当てた。
それぞれ、机に広げられた絹やビロードの生地に一心不乱に針をおくりこんでいる。ララとザンダの気配にも彼女たちは決して顔をあげようとはしなかった。
奥から腕と首が細長い、背の高い女が寄せ木細工の床をすべるように近づいてきた。
薄緑色のブリオがよけいに彼女の体格の線の細さや長い首を強調する。健康そうな薄桃色の肌は、光の貧しさを知らない高貴な生まれを示していた。
「メリザンド、こちらザンダ。わたしが話していた新しいお針子よ」
「ザンダ・モランです。よろしく」
と、ザンダは言った。
相手の貴婦人らしい風格にザンダは思わず膝をおろうと思ったが、考え直し、握手のために手を差し出した。この方が凛として職業婦人らしい。
ララの雇い主は少し微笑んで、ザンダの手を握った。繊細な見た目にそぐわない低い声で問う。
「裁縫の経験は」
ザンダはうなずいた。
「あります」
うそではない。
ヴィームの生家にいるときは、よく父や兄たちの、ほころびはじめたチュニックを縫ったり、あてぬのをしたり、義姉たちとともに自分たちのチュニックの袖ぐりに刺繍をいれたりしていた。
メリザンドは壁際に並ぶ机の列をさしやった。
「そう。じゃ、あなたはあそこね」
最後尾の席が空だ。ザンダは、なんらかの理由でやめてしまったお針子の代わりなのだった。
「私語は厳禁。お昼ご飯は交代でひとりづつとること。仕事は八時に始まり、四時に終わります。注文がたてこむときは残業も覚悟してね。詳しいことはララから聞いてちょうだい」
メリザンドはそう言うと、大きな机の前に戻っていく。広げられた深紅の生地の上に型紙をあてて裁断をはじめた。
ララが耳打ちした。
「メリザンドは規律には厳しいけれど、決して悪い人ではないわ。もの静かで給与に関して公正で、雇い入れたわたしたちを公平に扱ってくれる」
ザンダはうなずいた。この繊細な感じの雇い主の第一印象をザンダは決して嫌いではなかった。
「それに、メリザンドはキル伯の遠い親戚なの。それで貴族のお客様とはコネがあるの。腕もいいし、血筋もいいから、商売は上々ー。ちなみにここの工房のお客様はみんな貴族なのよ。」
貴族御用達というわけだ。貴族と縁を持つのは生家に育って以来だ。
ザンダはすでにこの仕事を気に入り始めていた。
特に衣擦れの音だけがする室内の静けさは、旅籠屋の喧噪と始終つきあわなければならない身には、一時の心の平静を与えられたようでありがたい。
「ララ、あんたはどんな仕事をしているの」
「わたしはメリザンドの補佐役なの。ここの娘たちのまとめ役でもあるの」
ザンダは目を丸くした。
「すごいじゃない、大出世だわ」
ララがにっこりほほえんだ。
「まあね、ゆくゆくは独立してお店を持ちたいの。貴族御用達のね。いまはその修行中よ」
ザンダは尊敬の目でララを見た。
ララは特別に向上心があるわけではないが、目標ができると直向きに努力するタイプだ。
ヴィームの片田舎から出てきて、街でそれなりのお針子の地位を築くのには困難もあったろう。ザンダは天下のイミネンシアで開業するほどの野望をもつ幼なじみを誇らしく思った。
ザンダは隣の部屋を覗き込んだ。
大きな窓のある一室に三台の糸紡ぎ機が置かれていた。寄せ木細工の床一面にふわふわした羊毛がただよっている。一番奥の一台の前に娘が座り、ザンダたちに背を向けて糸を紡いでいた。
先ほどからザンダの耳をうつ、からからいう音はこの回転する糸紡ぎ機がたてるものだった。
「ザンダ、早速で悪いけれど、これを急ぎでお願い」
ララは青や緑や深紅のダブレット十着をばさりと空いた机の上にのせる。ボタン穴の縫い付けをザンダに頼むと、依頼人の注文をとりに外出していった。
ザンダは最後尾の椅子に座って黙々と作業を続け、全部で百ほどのボタン穴を縫いつけた。
やがて疲れ始めるザンダの目は、作業机の寄せられた壁一面に広がるものに吸い込まれた。
タペストリーがかかっていた。
貴族の紋章の樹系図が織り込まれてある。
一番上にルクシタニアの五つの領主の家の紋章が並んでいた。その下にさらに細かく枝分かれしながら、中流・下流の貴族の紋章がつづいた。
ザンダは一番上の段に目を走らせた。
一番右はキル伯爵家の鷲獅文、次がティグ伯爵家の月桂樹文、それからパラ伯爵家の飛馬文。
上段の中央に堂々とあしらわれているのがヌーヴ家の双獣文だ。代々の大公はここの血筋だ。
その左隣はアッカ公爵家の花綱文があった。
草花と果物の束の端を縛って中央を弛ませた豊穣のシンボル。生家を手伝っていたときには、注文票の上部に堂々とその赤い封蝋があしらわれているのをよく目にしたものだ。
そう、アッカ家はザンダの生家の上顧客だった。それだけではない。アッカ家はザンダやララの生家のあるヌーヴも治めている。ルクシタニアの地の中央に横たわるドラグル山塊のほとんどもアッカ家の領地なのだった。
なんだろう。このソワソワした予感めいたものは。
見慣れたこの紋章に、ザンダは懐かしさとは違う不可思議な心の揺らぎを覚えた。
メリザンドが催促の咳払いをする。
ザンダは慌てて、視線を白いサテンの上着の上に戻した。