ダリウス
ザンダが旅籠屋街に戻ってきたのは光の塔に光が燦然と灯る頃だった。
木組の家の白漆喰に、窓辺を飾る花がよく映える。紫、赤、黄、橙。イミネンシアでは花の色が他のルクシタニアの街に比べて豊かなのは、光が豊富にあるからだった。特に漆黒の夜空の下、塔から光が慈雨のように降り注ぐと、それまで白昼の濃度の薄い天光の下で寒々しくぼやけていた色という色が生気を得たように輝きだす。
ザンダは数軒先に窓辺の花籠に溢れんばかりに菫色の花を植え込んだ一角を見据えて歩く。
〈笑う騎士亭〉。旅籠屋兼料理屋だ。イミネンシアに着いてからというもの、ザンダはこの旅籠屋に世話になっていた。
騎馬した鎧姿のモチーフが目印の吊り看板の下にたたずむ人影がある。
壁に背をもたせかけ、胸の前に両腕を組んでうつむいている。誰かを待ちぼうけている様子だ。
ダリウス。
足音に気づくのか、相手ははっと顔をあげた。がっしりした体格の、上背のある人影は壁から身をはなしてザンダを迎えた。
「帰りがおそいから心配していた」
大柄なダリウスは華奢で背のないザンダを、立ちはだかる壁のように圧倒する。背後の窓から漏れる明るい光が、憂慮する瞳の澄んだ翡翠色をうつしだした。
「ごめんね。待たせてしまった」
ザンダが師匠探しの旅に巻き込んだ人物がここに一人、いる。
それがダリウスだった。
ドラグル山塊の麓の村の出身のダリウスは、そこいらの地方の人々に典型的な、筋骨隆々とした山男の体型と豊かな茶色い髪を持ち合わせている。
唯一、特徴的なことがあるとすれば、それ彼の瞳の色だ。
一見してなんの変哲もない茶色だが、ふとした光の加減でそれはハッとするほど美しい翡翠色を表出するのだ。ザンダがそれに気づいたのは、知り合ってからしばらく経ってからのことだった。
二人がイミネンシアにやってきたのは数ヶ月前のことだ。
ドラグル山塊を下り、二人して麓の街で春を待った。雪解けが始まり、ようやく深い雪に閉ざされた道が開き始めると、すぐに領封を横断し、隣接するパラ領を経て大公直属のヌーヴ領に入った。
旅程は全部で十日ほどだっただろうか。大公のおわす首都イミネンシアについたとき、まだ家々の屋根は雪に覆われ、リュス川には薄い氷が張ったり溶けたりしていた。
ドラグル山塊の雪のなかでザンダの師匠探しに同意して以来、ダリウスはまるで貴婦人に忠誠を誓った騎士よろしくザンダを献身的に助け導いていた。
ザンダがイミネンシアを目指すと言ったときに、道中の馬車の手配と護衛をすすんでうけおったのは彼だったし、都にしばらく留まりたいと言ったときには、知り合いの旅籠屋に話をつけて寝泊まりする場所を確保したのも彼だった。
はっきり言って、ザンダはダリウスなしにここに辿り着けたか、自信がない。
「花見でもしていたのか」
ダリウスの手がザンダの額に伸びてきて、薄桃色のギランの花びらを一枚そっと指の腹ではらい落とした。
「え?ああ、まさか」
ザンダはダリウスに微かに笑ってみせる。しかし、泳ぐ目を相手に感づかれたくなくてすぐに顔を伏せた。
まただー。なんだろう、この気持ち。
ともすると、ザンダとダリウスの間にはまだ名前のない微細な電流のようなものが流れることがある。それを感じると、ザンダはつい、うろたえてしまうのだ。
「で、準備はいいのか。何か腹にいれたいなら、ここで待っている」
ダリウスが旅籠屋の戸口にたてかけていた長い木剣を二本、背に背負った。これから剣術の稽古をしようというのだ。それは一日のかなり遅い時間から始まる二人の日課だった。
ダリウスに〈イミネンシアの黒染み〉で目の当たりにした禍々しい光景のことを話そうか。
そんな思いがふとザンダの脳裏をかすめていく。
あのいかがわしい場所で味わい、いまだに引きずっている激しい動揺と困惑をダリウスならきっと半分背負ってくれる。
ザンダはそう期待を込めてダリウスを振り仰ぐ。
「あのね」
と、言いかけて口をつぐんだ。
ぎゃ、と叫ぶ声が思い起こされた。続いて起こる呂律の回らない命乞い。そしてざしゅっという刃の唸りとともに声が絶たれ、おとずれた不気味な静寂。
やがて耳に入ってきたのは遠ざかっていくたった一人の人間の足音だ。
例の、乱れることのない、冷静で均等な足運び。
ザンダはしばらく茫然とその場に立ち尽くした。
薄闇の中でも確かなあの剣捌き。ザンダが玄関口から飛び出してルビンダを構える側から、彼は一人を倒して剣を奪った後に、残りの男たちを次々と斬りさばいていった。
ザンダの助太刀など必要としていないことは一目瞭然だった。
目の前で繰り広げられる大胆で華麗な戦闘劇にザンダは目を疑った。
傭兵や騎士たちが為すことならザンダとて納得がいく。彼らは戦闘を生業とし、日々訓練を積んでいる。
一方のザンダの師匠は、誉高いとはいえ、一介の人灯術の指導者だ。帯剣しない。そんな人間があのように戦い慣れた所作を見せたことがザンダには信じられなかった。
それだけではない。百歩譲って彼が失踪の末に指導者の地位を剥奪されたにしても、ザンダは彼が容易に剣を振るうとはどうしても思えないのだ。それにはちゃんと理由がある。
「どうした」
と、ダリウスが言った。
ザンダははっと我に帰る。
恐る恐る、
「人は数ヶ月で変われるものかしら」
と、尋ねた。
思想家みたいなことを聞くね、とダリウスは軽く受け流した後で、ザンダの地面に真っ直ぐ当てられた視線を追うらしかった。
にわかに真面目な声音で彼は
「そうだな、根本的なところは数ヶ月じゃ、無理だろうな」
と、言った。
ザンダはうなずいた。
「なんだ、悩み事かい」
と、ダリウス。
ザンダは喉まで出かかっている心のうちが言葉にならないのを感じた。誰かに話したが最期、心の中にモヤモヤと蟠った昏いものが一気に現実になる。そんな怯えが喉に蓋をしているのだ。
結局、表現するのを諦め、言った。
「ううん、大丈夫。行こう」
語調が自ずとこわばった。
ダリウスの横を黙って歩き始める。ザンダの脇をこんな早い時間からすでにほろ酔いの人夫の二人組が通り過ぎていく。赤ら顔をダリウスにちらと向けて、よう兄ちゃん、綺麗な娘をつれてるな、と陽気なしわがれ声で叫んだ。
ダリウスの言うように人は根本的なところでそう簡単には変われない。
とするなら、ザンダが見たあの師匠の手練れた剣の振るい方はどう説明したらいいのだろう?
あれはやはり人違い?いや。そんなはずはない。ザンダが見たのは確かに彼だった。
路地に置きぱなしの子供の玩具にけつまずくザンダの腕をダリウスの手がにわかにがっしりと掴んだ。
ザンダは礼をつぶやいたものの、ダリウスの力強く支える手をおぼろげにしか察知しなかった。意識は完全に、息も絶え絶えの相手に最期の一打を容赦無く振り下ろすあの黒い人影の記憶に集中している。
ザンダの師匠はどうしたって剣を振るえるはずがないのだ。
ましてやあんな器用には。
なぜなら彼、トリスタン・アラリは刃恐怖症なのだ。
剣はおろか、食卓用のナイフさえ持てないほどの重症だった。